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遅れながら自己紹介。

本来ならば最初の投稿でするべきなのだろうが、遅れながらこのタイミングですることに。

少し長くなるかもしれませんが読んでもらえるとどんなサッカー人なのかわかると思います。

日髙 匡 ヒダカ タダシ
1995年生まれ 現役時代はゴールキーパー

2003年 熊本南YMCAサッカークラブ入団(03〜06)
2006年 熊本県地域選抜少年サッカー大会U-11 優勝(熊本南部選抜)
2007年 TAIKEN LUNA入団
      熊本県地域選抜少年サッカー大会U-12 準優勝(菊池選抜)

2008年 アルバランシア熊本入団(08〜10)
      熊本県トレセン(08〜10)
2009年 第19回九州クラブユース(U-14)サッカー大会出場
      九州U-14選抜サッカー大会(熊本県選抜)

2011年 岐阜工業高等学校入学(11〜13)
      東海地域GKトレーニングキャンプ
2012年 東海地域GKトレーニングキャンプ
2013年 全国高校サッカー選手権大会岐阜県代表(2回戦敗退)

2014年 びわこ成蹊スポーツ大学入学(14〜15)
      ナショナルトレセン 女子U-15西日本 補助スタッフ
2015年 びわこ成蹊スポーツ大学女子サッカー部コーチ(関西2部より1部昇格)

2016年 アルバランシア熊本コーチ(16〜17)
      熊本県トレセンU-12コーチ

2018年 クマモトフットボールドリームプレーヤー2018開催

2019年 クマモトフットボールドリームプレーヤー2019開催


サッカーを始めたきっかけは、小学2年生の時友達に誘われたことだった。その時にテレビで見たサッカーのシーンでPK戦がありキーパーが止めた。そのワンシーンでサッカーを始めると同時にゴールキーパーへの憧れを持った。

4年生から専門でキーパーをさせてもらうことができ、飛ばないキックを近くの公園でひたすら練習した。
※その時に公園で蹴っていた隣の人が現 川崎フロンターレGK 藤島栄介選手だった。

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彼に話しかけてコツを教えてもらった。
ひたすら練習、無心になって蹴っていた。

親の再婚がきっかけで引っ越してチームが変わりシンプルなサッカーをするチームで1年間プレーした。

中学は友達の誘いもあり、個の育成に特化したチームへ入団した。

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反射神経も良かったが、超攻撃的なチームで得意のキックを活かして攻撃的なキーパーとしてプレーしていた。

中1の秋に[左膝後十字靭帯部分断裂]
中2の夏に[左膝軟骨損傷]
で2度、内視鏡手術をしている。

中学3年間全国の様々なチームと対戦しサッカーの深さを初めて感じるようになった。

高校の進路は中1の時から「九州を出る」と決めていた。
中3の夏、話が進みかけた大宮アルディージャユースから断られ気落ちした中、秋に新幹線で1人旅。
静岡(磐田東)、岐阜(岐阜工業)を周りキーパーコーチを求めて岐阜へサッカー留学すると決意。

3年間岐阜でプレーした。
コーチからキーパーの基礎を学び、圧倒的なキーパー力を心身共に感じることができた。
今にもとても活かされている。
おまけのような形で高校サッカー選手権にも出場し、ベンチではあったがあの雰囲気を経験できたのは大きかったと思う。

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プロになりたくてプレーしてきた中学時代から高校時代は現実と照らし合わせながら自分を模索していた。
中高と後輩の面倒を見ることが多かった僕は少し、いやだいぶお節介でもあるのだろう。

大学進学はそこまで強く考えてなかったのだが、恩師の勧めもあり滋賀県のびわこ成蹊スポーツ大学へ進学する。

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ここでは、スポーツ心理学、スポーツバイオメカニクス、スポーツ栄養学を学びながら過ごした。

大学1年目の夏。
僕の人生に大きな影響を与える出来事が起こる。

...
親友の死である。

中学時代のチームメイトであり、キャプテンであり親友だった彼が旅立った。

遺影に使われた写真はスペイン、バルセロナにあるスタジアム「カンプ・ノウ」で撮られたものだった。

同じ場所に行きたくなった。

半年後、大学チームの遠征でスペイン、バルセロナへ行くことに。

親友に会いに行く気持ちで渡航した。

実際に同じ場所で撮影し、試合は全力でプレーした。

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そこで感じた「日本人の可能性...」

この大学チームで良いと言われていた選手達はこの地でのプレーに苦戦していた。スピード、パワー、ここでは海外の選手と勝負するのは難しい。そして、極めつけは「判断の早い」選手も苦戦していたことだ。

世界中のサッカーを見てもスペインのサッカー、選手は判断が早い。その地で同じように判断の早い日本人がなぜ通用しないのか。
単純に「戦術眼のレベル」と「技術」が少し低かったからだ。

プレースピードは早いがグループやユニットで見たらズレが生じて力んだ動きが多い。よく見たらノッキングが起こっていた。

そんな中、控え(ベンチに座ってる選手)の数名は技術が高い選手だった。プレースピードを調整でき、相手を動かす(操る)プレーヤー達だった。なるべく彼らにボールを集めてゲームを進めると相手は嫌がっていた。逆を取り、先手を取り、組み立ていった。

試合後、相手チームとコンタクトを取り「どの選手が嫌だったか、どの展開が嫌だったか、欲しいと思った選手はいるか」を聞いた。控えに回っていた選手、技術レベルが高い選手達のことだった。

更には相手チームの監督さんにも数名話す機会をもらい話した。中にはもとアヤックス育成組織(オランダ)で指導していた方もいた。「日本人の技術のある選手たちに、時間を操られ、相手選手を消されてサッカーをされた。非常に嫌だった」と話してくれた。

この経験が、現役引退を早めた。

この地で得た事実と感覚が指導者へと自身を変えていった。

帰国し、ご縁もあり[ナショナルトレセン 女子U-15西日本 補助スタッフ]やJFAアカデミー堺の選考補助スタッフなどを行った。

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その後、大学からの依頼で女子チームのコーチを1年間務めた。当日2年生の僕は女子の1〜4年生を相手にする。初心者の子もいれば、上級者も。個人的に技術を伸ばすトレーニングを多く取り入れたくてアプローチしていた。女子チームは関西2部リーグを戦っており見始めた時から前期は2位。後期は1位で翌年関西1部リーグ昇格を手にした。

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その時、熊本へ戻る決心をし大学を離れて古巣のチームへ移動した。この動きに対して賛否両論あったが、技術レベルを上げる、個を育てるそんなチームコンセプトが僕の現場には欲しかった。1年目に中学1年生を担当。技術の仕込みを行いながら、心のトレーニングも行った。

上手いだけの選手は通用しない。
心が強くて上手い選手は伸びるし通用する。

ここは自分の中で当時も今も変わらない。

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当時は信念を突っ走りながら表現していた。
少しきつかった部分もあったと思う。

今は当時より考えも洗練されて少し変わった気がする。

そこで感じていたのは先のこと。

「プロ選手になりたい」「海外でプレーしたい」

口に出す選手もいた。だが身近にその環境はなかった。

プロ選手を育てたい。そう思う僕としてはその環境は満足いくものではなかった。

プロに触れ合いながら、海外にもチャレンジできる機会を増やしたい。そんな機会を持ちながら、プロを目指す子ども達をサポートしたい。

そう思い、チームを離れ
指導はパーソナルに切り替えた。

チーム指導の良さも学べた上でのパーソナルも僕の中では効果的だと思っている。

イベントを始めたきっかけもそんな思いから同期に話したことだった。

同期(熊本出身の1995年生まれ)は現在プロが7名。この選手達を集めたら子ども達がプロに触れ合う場ができる。

どうにか形にしたくてみんなに話して、協力をもらいながら実行した。

そして、今年が2回目。

先日無事に終えることができた。

今年の後半からスペインで縁があった方とサッカー留学のコーディネートのお仕事のお手伝いをさせて頂いてる。

10月に熊本でもミニセレクションを行い、2020年4月スペインで行われる大会でプロサッカー選手の登竜門と言われる大会にチャレンジする選手がいる。

彼の挑戦の後押しとサポートをしていき、また熊本の子ども達に還元したいとも考えている。

これから海外へ行く機会を増やし、熊本の子達にも刺激やきっかけになればと思っている。

スポーツ栄養学のサポート今後動きます。
サッカーをする環境で必要な食事もトレーニングの一種だと思っている。

熊本の子ども達、保護者の方々の問題解決や情熱の後押しができる存在でありたいと「みんなのコーチ」(導く存在)でありたいと思っています。

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長くなりましたが、テキストでの自己紹介は難しい...

今度ともよろしくお願い致します。

お気軽にお声掛けください。

日髙 匡

#ただしのサッカーの全て  

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