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鳥羽にきて城を見る(J limited 01 / smc PENTAX-FA 31mmF1.8 Limited)

 賢島から特急で30分、鳥羽で降りる。
 小学生の頃に家族旅行で連れて行かれて鳥羽水族館を見て、成人してまだ20代の頃に紀伊半島一周旅行をしたときに、最後に立ち寄って鳥羽水族館を見た。
 そしてまた10年以上ぶりに訪れる。

 鳥羽水族館に向かうなら駅東側だけど、城に行くなら西側。(水族館まではさほど歩く距離変わらないので、行きと帰りで違う方を通ってもいいかもしれない)
 昼食とれるならとってもいいかなあ、と思ったんだけれど、こんなところの旅行客のくせしてシーフード苦手。ここはほんとにサザエ激推だった。


伊良子清白の家・門野幾之進記念館

 駅からほど近くに、伊良子清白という詩人の家があった。
 医師として生業を務める傍ら、明治末に詩集「孔雀船」を刊行して、大正11年に鳥羽に移り住んで「白鳥」誌上で活躍したとのこと。
 鳥羽時代の診療所が、元々鳥羽市小浜町(ちょっと北に北向きに突き出ている半島部分)にあって、昭和54年に山奥の大台町に移っていて、そして2009年に鳥羽駅前に移った。

 建ったのは大正11年らしいので、私の歳だとまだ親の実家で曾祖父さんが住んでた家がこんなんだった、という感じ。懐かしさを感じるな。

 でもって歴史文化ガイドセンター(門野幾之進記念館)もすぐそば。
 門野幾之進は、鳥羽藩士の子として藩から慶應義塾に学びに行かされていた聡明な子で、15歳にして教師をやっていた、ここだけ切り取ると漫画みたいな人。(レベッカ宮本が思い浮かぶのは流石に古い)
 その後、千代田生命を創立し、貴族院議員になって多くの事業に関わる人物になる。
 この場所が門野幾之進が生まれたところらしい。

 他にも常設展示で九鬼嘉隆関係も展示されていて、日本丸の模型やらが並んでいた。

鳥羽城

 鳥羽には3回目だけど、お城に上っていなかった。今でこそお城を基準に出かける先を決めるようなところがあるけれど、前回の時点ではそんなに重視してなかったらしい。

 地図でもわかるとおりに、北側の堀が残っている。
 左手にちょっと見えている上り口が、唐人門の跡。かつては鳥羽の玄関口だったそうで、明治天皇の行幸の際も使ったそう。

 そして北の階段から城の郭へ上がる。

 ここは二の丸になるのかな?
 どうも城の構造としては、南に本丸、北側にも小高い部分があって、さらに東側に降りたところがもうひとつ。
 で、その東側に降りたところが、今の地図だと「三の丸広場」とあり、しかし古地図を見ると「二の丸」って書いてある。じゃあこの北側のここは、本丸の一部なのか、二の丸なのか。武家屋敷が多数あったらしいが。

 一段上がると、ミキモト真珠島を見下ろす立地。

 またこんなん作っちゃって。Aが日陰になってるから株式公開買い付けみたいになっちゃったぞ。

 二の丸?と本丸の間あたりから見下ろす三の丸広場と鳥羽パールタウン。
 今となってはこの観光地開発された景色も、昭和レトロな味わい。

 そして、これはちゃんと現存する本丸石垣。
 角のところは算木積みになってる野面積み。九鬼嘉隆が築城した当時のものかまでははっきり裏付けがないらしいけれど、1594年ならこんな感じには思える。
 1854年の、おそらく安政東海地震と思うけれど、そのときに天守から何から壊滅し(津波も来ていたらしい)、そのまま再建されなかったというけど、この石垣はそれにも耐えたか。

 そして本丸に上がったものの、ものの見事に真っ平らに削平されちゃっている。明治以降に削平されていて、本丸南側すぐに鳥羽小学校が建っていて、その運動場にされていたそう。

 公園にしてもなんか妙なオブジェがあるな、と思ってたけど、昭和時代の小学校と思えばわかるかもしれない。

 記録によれば天守はたしかにあったらしくて、2009年に鳥羽小学校が移転になったから発掘調査が行われた。
 で、本丸御殿の一部らしい石列とか、天守台想定地周辺から断片的に石垣や排水溝(どうも天守台石垣だとは断定してないからはっきりしないらしい)が出土した。
 あったのは、蓋をして埋められた直径2.7mの大井戸。発掘時点で17mの深さ、当初45mあったとされるそう。で、ミキモト真珠島まで通じていて龍が住んでるという伝承があるとか。飛龍眠井戸(ぴらみいど)か……。

 本丸南側にはまた当時物の石垣が残っていた。

 西側の一段下がったところも、積み方からして当時物かな。

 三の丸広場はこんなの。
 わかりづらいけど、ここは階段状の石垣が積んである。なんでそんなふうにしたのかわからんけど、海に面する側だし、船に対する防御になにか意味があったのかな。

 今回、鳥羽水族館の方へ行って、入ろうかと思ったけど混んでそうだからパスして諦めたところでこれを発見。
 で、ここに行くにはどうすればいいかと思ったら、道路と線路を渡れるところがないから10分近く歩いて回り込むしかない。歩道橋かなにか掛けてくれたら、水族館のついでにお城見ていこうと思う導線ができそうだけど。

 現状だと、駅からまず三の丸広場にきてここからお城に上がって、北側の二の丸?と大山祇神社を見て、本丸に行って旧鳥羽小学校、という流れで行くと合理的に回れそうだった。

旧鳥羽小学校

 突然見かけて何かと思ったら、小学校の跡。
 1929年に、御木本幸吉が出資しつつ助言し、三重県で初めての鉄筋コンクリート校舎。設計は清水栄二(神戸の方だとわりとおなじみ)。当時はもう皇族もくるくらい抜群に立派な学校だったそうな。

 ちょっと窓が破れたりして荒れ模様。台風とか来るたびに吹き込んでるかもしれないな……。

 中もちょっと見えている。歴史的な建物とはいえ2008年まで使っていたからか、一応このあたりは、私の記憶にある小学校と遠くはない。
 ただ、雨漏りも酷くなるほど老朽化が進んでいて、なかなか文化財として展示や利用する話も進まないらしい。

 木は茂ってるものの、ツタまみれとかではなかった。今でもたまに草刈りとかのメンテナンスはしていると。
 この外壁に取り付けて電線張ってる感じ、建築当時には電化が想定されてなかったんだろな。

 この子供が駆け下りるのが目に浮かぶような通学路感。まあ私の通った小学校は海沿いの平地だからこんなんの記憶はないけれど。

 正面側。なんか部分的に塗装されてるのなんだろう。いや再利用に向けて工事してるらしいから塗ること自体はわかるんだけど、なぜこんなパキっと塗り分けを。単に途中なだけかな。

 校門も味わい深い。
 いずれ改修されて中も見られるようになったらまた来たいな。


 ここからは、帰宅モードへ切り替え。

 通りすがりのミキモト真珠島。10年以上前に来たときは立ち寄ったけど、別に男一人でも真珠養殖の歴史が学べてなかなか興味深いところだった。

 駅前では「鳥羽一番街」という昭和丸出しの観光案内・お土産販売・飲食店が集まったショッピングモールがあるのだけど、その東側にこんな「パールビル名店街」という廃墟があった。
 というか、鳥羽一番街で食事しようとしてピンとこず、なんか裏にもあるなと思って近づいてみたら廃墟だった。
 近くで見ると確かに廃墟なんだけど、どういうわけか飲食店やらの張り紙なんかが内側に残ったまま。テナントが片付けるまもなくいきなり放り出されたような形でビルが閉鎖されちゃったのかな。
 閉鎖は2008年だったそう。

 でもって昼飯食いっぱぐれてる問題は解決せず、鳥羽一番街でえいやっと飛び込んだ店で食べたのが、あー……。まあ私がシーフードが苦手だから、かなり選り好みした末に微妙なメニューを選んで失敗した感じはあるんだけれど、それにしても……。

 さておき、土産物屋で伊勢のクラフトビール3本(伊勢ピルスナー・神都麦酒・神楽麦酒)と、清水清三郎商店の「作 穂乃智」を買い込んで、近鉄じゃなくて参宮線に。
 10年以上前に来たときは、紀勢本線で新宮から回ってきたのを多気で乗り換えて鳥羽まで来たんだった。それで近鉄で帰った。今回と逆だったな。

 帰路、田丸城が駅からすぐにあるのを見かけて、田丸城→松ヶ島城を巡る北畠具豊ウォークなんか良さそうに思ったので、また機会作って来よう。


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