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押熊と戦のあと (K-01 / smc PENTAX-DA 12-24mmF4)

 今週は、登美ケ丘から南東の方、押熊あたりを歩いてきた。

街路樹の迷子

常光寺

 ならやま大通りを西から押熊町に入ったあたりで、ちょっと南の集落に入るとあるお寺。
 現地にあった由来によると、古くから常光寺というお寺が押熊にあり、延宝元年(1673年)に正洞律師が時の太守本多殿に願ってこの地に寺を移した、とのこと。

 1673年だと、郡山藩を本多政長が治めていた時期。
 政長がわずか6歳の頃に父・本多正朝が亡くなり、一旦、従兄の政勝が本多家と郡山藩を継いでいた。政長が成人したら返すはずだったけど、政勝は返さず我が子の正利に相続しようとしていた。
 その政勝が亡くなった1671年、政長が幕府に工作して、政長に9万石・正利に6万石の分割とさせた。
 そして相続分を横取りされたと思った正利が、1679年に政勝を暗殺してしまった。正利はけっこうやばい人だった(ことになっている)ようで、結局その後は圧政や狼藉で除封、死罪は免れたものの狂気とされて岡崎城に幽閉されて一生を終えた。

 本多政長も、家訓を破って藩主の座を横領する従兄の問題をどうにか片付けたと思ったらその子供も胡乱で、継いだばかりの領地の統治にも忙しかっただろうところに、田舎の押熊の小さな寺の移転話くらいはハイハイ勝手にやって、くらいで流しちゃったのかもしれない。
 正洞律師はここに小さな庵を建てた程度だったそうで、藩主から景気よく広い寺領など貰えたわけでもないらしい。
 6年ほど後に、円海道珍という律師が宝山寺からやってきて、寺を栄えさせたという。

 この池は古くからあるものらしい。

 お堂は小さく密に建ててる感じだけど、敷地はゆったり使ってきれいに整備してある。もともと押熊の地は、奈良の都のうるささを逃れる静かな土地だったそうで、住宅街と化した今でも寺は自然豊かにしているそう。
 実際美しいお寺だ。

 江戸時代末には門前市を成す寺になったらしいけど、明治の廃仏毀釈で潰されることになってしまった。
 住持の正戒律師が建物や寺宝の多くを存続する大寺に寄進し、跡地は小学校として教育者になった。が、仏像、仏画、経典などは個人で保管していて、戦後、1953年に常光寺が再興されて収蔵された。
 仏像・仏画は、常光寺より古い鎌倉平安の作のものも多数あるみたいだけど、これはなにかの事情で集まってきてたのかな。江戸時代に栄えてた頃に譲られたか、廃仏毀釈で潰される他の寺から預かったか。

願心寺・西方寺

 近くはお寺が集まってるようで、すぐ近くにいくつもあった。

 おしくま観音、と幟を立てていた願心寺
 見ての通り、小さくて真新しい。全面建て替えして10年と建ってない感じ。葬儀やお布施の相場までウェブサイトで明示する現代風、ペット供養もやってて時代にキャッチアップしている。

 西方寺。見ての通り閉門していて、ふらっとお参りする感じではなかった。

極楽寺

 西側からアプローチしたら、明らかにお堂の裏手が見えてるのに塀がない不思議な状態で、でもそこから入るのもなんだな、と思って表に。

 浄土宗のお寺、とはあるけれど、それ以外は特に由来の掲示などは見つからず。

 小さいながらもなんだか作りの趣味が良い感じに思ったんだけど、それでいて参道左手には特に和風でもない戸建住宅があっておそらくご住職のお宅かと思われ、不思議なちぐはぐ感。

 この鐘楼もいい感じ。

 すぐ近くの蛭池という農業用水池、切実な看板。
 水を抜いてあったけれど、まさかホテイアオイ駆除のためにそうせざるを得なかったんだろうか……。

 蛭池地蔵尊に祀られていた、これまた歴史がありそうな仏像。

押熊八幡神社

 押熊の氏神であろう八幡神社。
 境内の由来によると、元禄の頃の「八幡宮四座次第押熊宮座衆」なる古文書が残っているらしい。それで、少し南の中山にある八幡神社と行事が似ているとのことで、おそらく元禄年間(1688~1704)に中山から勧請されたんじゃないか、とのこと。

 右手が社務所、左に拝殿があって。

 拝殿の向こうに本殿。小さい社殿に灯籠が多数並ぶ。

 ずいぶん上寄りの八なのはなんだろう? よく見ると嘴がある、烏なんだろうか?

 拝殿から右手の奥にこんな簡素なお社があり、八大龍王社とのこと。
 もともと押熊にはこちらの龍王神社があったところに八幡大神がきちゃったので、そっちに乗っ取られる形で主祭神の座を追われ、こちらは末社になっちゃったらしい。
 中山の八幡神社そんな偉そうなのかな。こんど見に行こう。さらに、中山八幡神社よりさらに南東、秋篠川の向こうにまた龍王神社があるみたいで、八幡大神と龍神が縄張り争いをしてるんだろうか。

 この写真手前の石灯籠が天保二年(1831)と享保六年(1721)のものらしく、境内案内地図にわざわざ描いていた。

 境内摂社はもうひとつ、「こうずいさん」と呼ばれているらしい雷鳴神社。これでいかづち神社と読むそう。
 この階段を下りた向こうには小さな池があるのだけど、旱魃が来たら御神体を池に沈めて雨乞いをしたと。柘榴の日出神社と同じこというとるな。
 元々ここにあったものじゃなくて、神功五丁目にニュータウンができたときに移転してきたとのこと。とすると元はもっと北、山田川に多少近づくけど、御神体鎮める雨乞いは山田川流域の流儀だろうか?

忍熊王子社

 うっかり撮り忘れてこんな変な写真しかないけれど、右上の小さな屋根見えてるのがそれ。

 仲哀天皇の皇子である麛坂王忍熊王の兄弟を祀る。
 応神天皇の異母兄弟にあたるので、かなり継承順位の高そうな皇子なんだけれど、三韓征伐に向かう間に仲哀天皇が崩御、そして神功皇后が筑紫で誉田別尊(後の応神天皇)を生んだ。
 それで皇位はそちらに行ってしまうと思った麛坂王・忍熊王兄弟は反乱を企て、帰国してきた神功皇后に軍を向ける。
 ところがこの乱がうまくいくかと狩りで占おうとしたら、麛坂王が猪に襲われて死んでしまった。忍熊王はともかく軍を起こしてしまっているので、戦う前から後退を繰り返しつつ結局宇治で戦って破れ、瀬田川まで逃げていって身を投げた。

 というのが記紀に書いてる話だけど、押熊やカゴ坂などの地名はかなり古くからあって、実際にこのあたりに勢力を持っていた実在する豪族だろう、と現地案内板による。
 うぃきぺには、むしろ麛坂王・忍熊王の方こそ奈良北部に勢力を持った当時の大和政権の主流派で、河内に勢力を持っていた神功皇后・応神天皇のほうがクーデタを起こして政権を乗っ取ったのだという説も書いている。

 上からの景色。
 直径16m・高さ2mくらいの円墳になってるそうで、古くから忍熊王を祀ってると伝えられてきた、とは八幡神社の由緒の方に記載があった。


 今日はちょっと歩いただけで、八幡大神と龍神が戦い、神功皇后と忍熊王が戦い、ヒトとホテイアオイが戦った跡にぶつかった日であった。


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