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日本と文化とRock and Roll

 若干18歳の女性シンガー「Ado」の「うっせぇわ」が、YouTubeの動画再生回数が1,000万回を突破し、Billboard Japanのランキングでも1位を獲得するという、昨年末から破竹の勢いで快進撃の大ヒットしている。
様々な芸能人がパロディをしたりと、ちょっとした社会現象の1つとなっている。
歌詞の主な内容としては、我々大人や日本のある種独特な慣例を面白くもあり、荒々しく風刺している。

 日本で生まれ、日本国内固有の文化の中で育ち、日本国内をメインとして働いてきた「本質的な異文化」を知らない人達の手によって作り上げられた、この国の「社会の当たり前」。
私達が容易に受け入れていた「社会人のルール」と言う名の奇妙な「慣例」は、国際結婚が増加し、また海外での長期生活経験の機会が多くなった時代の今の若い世代の人達の目には、際立って奇天烈に感じる筈だ。
ただ、こういった独特の「慣例」は、今後必要であれば残るだろうし、不要であれば徐々に風化していくだろう。

 いつしか私も気がつけば、今ではお酒を注いでもらう側になって、大皿の料理を取り分けてもらう側になっている。
しかし、基本的には自分の飲んでいる物は、自分で注ぐようにしているし、自分で食べる物は自分の食べたい量を、自分で取り分けるようにしている。
もちろん、良かれとしてやってくれる善意の気持ちを踏み躙るほど頑なでは無いが・・・。
ただ、私の心情としては「みんなが楽しければ良いじゃないか」というのは趣旨一貫している。
各自、注文があるならそれぞれのタイミングで言えば良いし、寧ろオーダーする時は社内の上司や先輩に対してではなく「店の人や周りの客に対して気を使って欲しい。」という方向に私は先に気が行く。
しかし、「うっせぇわ」の中で歌われている内容はだいたいこうだ。
酒がなくなったグラスがあれば直ぐに注ぐ。
(ビールの場合は、液体と泡との比率に決まりがあり、瓶ビールの場合グラスに注ぐ時のはラベルの向きまで決まっている。)
串カツや焼き鳥などの串を外して、皆が食べやすいようにする。
注文は下座に座ってテーブルを注意深く見て、食べ物が少なくなったり飲み物を伺ってオーダーの先陣を切る。
幹事は新人が行い、店の場所や雰囲気やメニュー内容と価格帯を十分に考慮し会計はもちろん幹事が行い、簡潔に可及的速やかに支払いを行う。
こういった「慣例」は、従わせる「権利」があるなら当然「義務」が発生する筈だ。
 高度経済成長期において、日本は終身雇用制度の名のもとにおいて行われていた年功序列型賃金や新卒一括採用が行われ、終身雇用制度と年功序列型賃金がセットとなっていた。
年功序列で終身雇用ということは、長い間一緒に働く社員同士の理解や絆が深める必要があり、むしろ必然となる。
その為、社員旅行で理解を深めて距離が縮まり、社員同士の理解が深まれば深まるほど連帯感が強くなり、帰属する会社に対する当事者意識も高まりやすくなる。
また、勤続年数が長く経験豊富な先輩社員が多くいることで、若手社員の育成の際に自社の現在の状況での強みと弱みを同時に伝え、若手社員に強みを後押ししてもらい、若い力とアイデアで弱みを打破出来るように協力し合うシナジー効果がもたらされていた。
若手を、自社にジャストフィットさせた形で育成し、先輩社員・後輩社員の双方向からそれぞれの良い点や悪い点については理解し合い、お互いにリスペクトするリレーションシップがそこにはあった。

 バブルが崩壊しリーマンショックが起こり、まして2020年5月14日現在は、コロナショック下の真っ只中だ。
幸いにもまだ、半数の企業は年功序列で終身雇用を採用しているが、残りの半数は欧米諸国の「成果主義の改悪版」の導入と、「非正規雇用の増加」、加えて経団連が終身雇用の見直しを発表したことによって拍車がかかり、雇用者側が労働者側に対して突きつけた「アンバランスな雇用条件」の結果、労働者を消耗品のごとくに扱う「ブラック企業」という会社が、雨後の筍の如く現れた。
労働基準法は元より、そもそも憲法で守られている人権すらも遵守しない企業までが現れ、飲食業界やIT業界を中心に大きく広がった。
社長は椅子に座っても良いが、それ以外の社員は椅子はなく立ちっぱなし、廊下は決められた秒数内で通過しなければ警報がなるという奇想天外な企業も実在する。
超大手企業下であっても同様で、賃金の未払い、不当解雇、自殺示唆(ノルマ未達の為)、過労死などが横行し、残されたご遺族や同志の声が数多くの人々に届き、国会で取り上げられるほどの社会問題にまでとなった。
徐々にではあったが、パワハラやセクハラの取締りの法整備が年々加速し、モラハラやマタハラ等、隠れた闇の悪意の下で涙を流していた労働者に対しても救いの手が差し伸べられた。
今から10年前と比べてみれば、完全には駆逐はされていないにしても、労働基準監督署は仕事をする様になり、かなり働きやすい職場環境が漸く整ってきたと言える。
 事実、10年程前に大手司法書士法人ホールディングスに勤めていた私の妻は、1人目の息子を妊娠した事を、女性代表に「産前産後休業」の申し出をした。
妻の入社面接時には、今後の出産に対して最終面接管だった女性代表と話した際に、妻が想像する以上に寛大な対応を取っていく方向性を示唆し、家庭と仕事の両立を応援すると話していたことから、妻は「産前産後休業」の申し出を信頼していた代表に、真っ先に直接その旨を伝えた。
しかし、その女性代表は、苦虫を噛み潰したような顔に豹変し、渋々に了承した後、ぶっきらぼうな口調で「まさか、この先に二人目があるとか言わないわよね!」と語気を強く妻に言い放った。
それまで妻は仕事に打ち込み、業務評価も高くその代表者にも評価されていた。
にもかかわらず、「産前産後休業」の申し出をした瞬間に掌返しとなった。
その態度と心無い言葉を聞いた妻は、酷く落ち込み悲しんでいた姿を今も忘れない。
法律に長けた司法書士有資格者が、労働者の「人権」を取り上げられる時代になってしまったと確信した瞬間だった。
 ブラック企業で勤めている人々は、インターネット大型掲示板やSNSでいつしか、「社畜」と自虐し始める様になった。
就職難を逆手に取り、売り手市場の極みに採用された「バブル世代以前の人間」が人事権を掌握し、正社員雇用のハードルを高く上げ自らの地位を上げた。
(東日本大震災直後の際、某大手文具メーカーの人事担当の対応は、もはや鬼畜の所業と言えるレベルだった。)
「バブル崩壊後の世代」は就職(転職)が困難を極める中、活路を見出し切り拓くべく、国家資格を取得したり、海外で留学し卓越した語学を学んだり、中には就職せず自ら起業し活路を切り開いた。
 有名小説のタイトル通りに、就職氷河期世代を生き抜いてきた「ロスジェネの逆襲」が、今も静かにそして荒々しく水面下で行われていると考える。
もちろん、私は終身雇用・年功序列の全てを肯定するつもりは毛頭ない。
ただ、「うっせぇわ」の歌詞の内容で歌われている「慣例」を行って貰う為には「ある一定のリスペクト」が必ず必要となる。
そもそもが、新入社員が先輩社員達に「ただ媚びへつらう為」に行われていた「慣例」では無いからだ。
先述のパワハラ、セクハラから派生し、ハラスメント狩りも今も行われており、些か過剰反応気味にも感じられる。
若者のアルコール離れも加わり、より一層「慣例」に対して否定的となっており、このコロナ渦で会社での飲み会が軒並みオフィシャルでキャンセルになった事を心から喜ぶ声がSNS上で書き込まれた。
企業がブラック企業化していった結果、大きく失った物は「ロスジェネ世代の戦力」だけではなく、終身雇用と年功序列の中で築き上げられる先輩社員と、後輩社員のシナジー効果を生み出す「リレーションシップの損失」が、実は一番大きいのではないかと思う。

 私達が幼い頃は、高齢者に対して敬意を払い労るのが当たり前の行為だったが、いつしか高齢者達が世代交代するとこちらもまた本質的な事をごっそりと見失い「そうしてもらうことが当たり前」と考える様になっていった。
 登山の準備をし元気そのものにも関わらず、我先に電車の座席に座りに行き、座れなければとたんに足腰が痛そうな仕草で若者の良心につけこみ、座席をしっかりと確保し登山に向う。
中には、若い妊婦を押しのけ優先座席に座り、挙句の果てに第三者のサラリーマンに注意されトラブルになるというケースもチラホラとみられるようになった。
全ての高齢者が、そうだと主張するつもりはない。
しかし、そのほんの一部の高齢者がこれまでとは異なり、「残念な最近の高齢者」は少しづつ数を増やしアチラコチラでも、チラホラと目立つようになってきた。
そして、自分たちよりも若い世代に対して、一方的に威張り散らし我よりも偉いものはいないとばかりに自由に振る舞う。
このコロナ渦の中であっても、近所の団地内の公園は「新型コロナ感染拡大防止の為に閉鎖」しておきながら、自らは同じ団地内の広場で、ゲートボールに集団で勤しみ、コロナに感染したらいち早く病床に運ばれる。
話題のワクチンも、もちろん最優先で摂取できる恩恵まである。
交通事故や重疾患で運ばれる若い世代に与えられるベッドは、ほぼ全て高齢者によって抑えられているのが現状である。
彼らほど偉い者は、彼らの中には存在しないのだ。
そして、彼らの醜態の事を「老害」といい、いつの間にか高齢者は忌み嫌われてもいる。
もちろん高齢者の多くがそんな人達ではないし、今でも高齢者を労る精神はもちろんまだある。
しかし、高齢者は敬い尊敬される者と忌み嫌われる者に分かれてしまったのが今の状態だ。
こんな酔狂でカオスな状態が当たり前となり、現在の社会問題の一つとなっている。
「敬う」事は自発的に行われるものであって、決して「敬う」ということは、強制で行われる事ではない。
尊敬され、敬われるのにはそれ相応の「日々の行動」と「結果」が伴わなければならない。
それは、年齢や性別や国籍、そして時代などは一切関係ない。
アフガニスタンの地で、医師としても多くの人の命を救い、井戸や用水路を建設し砂漠の地に緑をもたらした中村哲氏はその最たる例だ。

 話は再び曲に戻るが、私はこの曲の本質は「内向的な人の心の中の叫び」と受け捉えている。
そして、この感情むき出しの歌い方とのミスマッチなギャップがなんとも中毒性を作り出しているのだと思う。
僕たちの頃は、こういった手の曲といえば「尾崎豊」が代表格だった。
校舎の裏で煙草を吹かして、窓ガラスを割って、盗んだバイクで走り出し、朝夕のラッシュアワーの酒浸りの中年たちのサラリーマンなんかにはなりたかねぇと歌われた。今では歌詞の一部が不適当だと言われかねない過激な内容だが、尾崎豊が当時、十代で書いたこれらの歌詞にはとても強烈な情熱と熱い思いが込められているのが判る。
その他には、「忌野清志郎」「泉谷しげる」「エレファントカシマシ」「サンボマスター」と名前を上げればキリがない。
真っ直ぐな反骨精神と、社会の当たり前に反旗を翻す曲、それが「ロック」だと僕は思う。
歪んだエレキギターが主体の楽曲がロックだとは私は思わない。
実際に「尾崎豊」は主にピアノで構成されているし、「泉谷しげる」はフォークギターだ。
オアシスのリアム・ギャラガーが、自殺したくなるくらい暗い曲とも言わしめた「コールドプレイ」も、もちろん「ロック」だ。
もちろん、「Ado」の「うっせぇわ」は十分に「ロック」している。

 海外のラジオ番組では「No Rock, No Rap」というのもある。
その意味合いとしては、過激な表現は全て規制してしまうということだ。
「THE BLUE HEARTS」の「終わらない歌」は放送禁止用語が入っているので、その部分はボーカルは下げられノイズが加えられている。
「忌野清志郎」の「カバーズ」という、洋楽の名曲に日本語詞をつけたアルバムだが歌詞の内容が原曲とは大きく違い、反原発や政治や社会情勢に対してダイレクトなメッセージを歌っている為、放送禁止になっている。
しかし、東日本大震災以降、本アルバムで反原発を歌っている「サマータイム・ブルース」が再注目された。
先述の、現在の日本におけるカオスな状態を唄っている「うっせぇわ」の大ヒットは、寧ろ健全であり自然な流れだろう。

 今、この「うっせぇわ」を子供に聞かせたくない、と考える親の声をネットで散見する。
その理由は簡単だ。
親や先生に対して、歌詞の一部分を引用しやすいからだ。
まして、友達に対しては冗談でとても使いやすいが、些細な勘違いからトラブルの元になることも容易に予想できる。
親は、この曲に関して、特に子供に対しては、幾分かは注意が必要かもしれない。
ただ、思い出して欲しいのは、私達が子供の頃「ザ・ドリフターズ」が「ストリップ劇場のマネ」や「うんこちんちん」とテレビのゴールデンタイムで連呼していたり、古谷一行や津川雅彦が素っ裸で女性と事に及んでいる姿はチャンネルを変えれば当たり前に映っていた。
問題は、それらを耳にしたり目にすることではない。
無理に意味を教えなくても良いし、家の中で目くじらを立てて規制することでもない。
私達の親は、私達の年齢に応じて残酷や卑わいなシーンの時は目を覆ったりチャンネルを変えたし、一方では親も一緒になって志村けんや加藤茶のモノマネを一緒にしていたりもした。
トリガーは人それぞれによって違うが、感情として「うっせぇわ」という気持ちは大人であっても普通にあるしそれは抑制出来ることではない。
楽曲自体も聞くことを規制する事ではないし、恐らく完全に規制できない。
重要なのは、子供に使い所を間違っている事を注意するなり、是正するなりすれば良い。そして、親も一緒になって聞いて歌えば良いと僕は思う。
子供達にとって本当に良くない事は、子供達の通う学校や付き合う友達や、大きくなって大人になったその先には山ほど転がっている。
(私達も、事実そこで四苦八苦している。)
全くの無菌状態で育つより、予防接種の様に子供の頃に予め少しづつ色々な事を知っておく方が、成長する先で躓くことが少なくなると信じている。
今回の「うっせぇわ」が子供に良くないと危惧するくらいなら、笑福亭鶴光の「うぐいすだにミュージックホール」の方を心配すると良い。
こちらの方が、「うっせぇわ」より「攻めている楽曲」なのだから・・・。

率直に申し上げます。 もし、お金に余力がございましたら、遠慮なくこちらまで・・・。 ありがたく、キチンと無駄なく活動費に使わせて頂きます。 一つよしなに。