「観光」を考える

 9月。大学4年生の私にとって、夏休みはまだあと1カ月。様々なところへ若いうちに夏にでかける最後のチャンスといっても過言ではないかもしれない。

 私は旅行を「趣味」と位置付けている。そんなこと、他の人からしたらどうでもいいかもしれないが、「これは趣味だ」と思って出かける旅行と、「リフレッシュが必要だ」と思って出かける旅行、この二つを明確に分けている。ただしいざ旅行がはじまってみると、そんなこと忘れるくらいの絶景や絶品に出会うこともしばしばあるのだが。

 旅先では「観光」をしなくちゃ、と思っている人は少なくないだろう。「いやいや、旅はリフレッシュのためだからホテルでダラダラしたり、適当な喫茶店で本を読むのもいい」というタイプの人もいるのは知っているが、私は前者に属する。
 誰と旅をするかは私は気にしないが、できれば「旅のタイプ」が合う人がいい。始発列車に乗っての長時間の移動を苦にしない、昼ご飯か晩ご飯を奮発、お酒を酌み交わせる、トイレはどこでもできる、でも宿が最低限清潔であるためにお金を出せる......などなど。「注文が多いな、なら一人旅でもしてろ」と言われそうだが、一人旅は案外制約が多いため(特に資金面)、あまり頻繁にはできない。2~3人での気の合う人との旅が一番である。

ないがしろにされる観光

そろそろ本題へ。「観光で町おこし!」などと謳う自治体は少なくない。なるほど、城跡や名勝、絶景に名物のごはん、温泉など。それぞれの土地には何かしら、観光してもらうための「売り」があるだろうし、観光地として町おこしするには「売り」が必要である。
 私は先日、とある銀山へ行った。山の中なので公共交通機関でのアクセスは決して良くない。往路はバスが鉄道に接続していたが、帰りの便を確認すると列車が発車した8分後に駅に到着するのである。おいおい、列車は毎時一本なんだぞ。しかもこのバス、一日に5本程度しか運行されていないではないか。しかたない、レンタサイクルでも使うか、と思ったが、山道を電動なしで登る必要があるらしい。しかも駅には常時2台しかない。「誰が使うんや......。」

 この例はここに限ったことではない。列車のダイヤ改正に合わせたバスの時刻表改正がなされていないことや、そもそも公共交通機関を利用しない地元の人々の考える「利便性」は、まったく機能していないことが多い。休日でもがらがらな観光地の駐車場をなぜか拡張し、草が生え放題の「第三駐車場」などを設けてしまうのだ。

自己満足な「名物」

 「名物に旨いものなし」という言葉がある。これは何も食べ物に限ったことではなく、観光地にも言えるだろう。その最たるものが城跡だと考える(お城好きな人には別かもしれませんが......)。多くの観光客は天守閣を「展望台」と考えているはず。城主が誰だとか、この門は唯一の現存するものだとか、多くの人は天守閣から眺めた景色を見れば忘れてしまっている気がする。もう少し、一般の人向けに分かりやすい案内があれば、と思うことは少なくない。なにせ、その地元の人間にとってそのお城や城主は「名物」として誇らしげかもしれないが、外部の大方の人にとっては「全国のお城のうちの一つ」なのであるから。せっかく山の上まで登ってきたのに、あるのは再現された天守閣だけで、わかりにくい薄れた説明書きだけでは、多くの人の記憶からは消えてしまうだろうから。観光地として価値を見出してもらうには「ユニバーサルデザイン」的に、より多くの人にその情報が伝わる努力は最低限すべきである。その上で、その「価値」自体については個々人が考えるものであり、地元の人や自治体が主観的に口を出すのはあまり賢明ではない。「文化」の継承とは案外もろいものなのだということは、歴史が語っている。

「観光で町おこし」って何?

 やや散漫にはなったが、最後に私なりの意見をまとめておく。結局、観光資源を通して町おこしすることで、その自治体や地域は何を得たいのだろうか?「活性化」なんて曖昧な言葉を使うからいけないのだ。「お金」「リピーター」「歴史的遺産の継承」など、様々な目的があるはずなのだ。文化的な遺産が人に与える影響ははかりしれない。だからこそ、自治体が保護し継承する必要があるのだ。ヒトがそこに価値を見出さなければ、やがて衰退し、継承されなくなる。多様な地域において、多様な文化や風景・風土を伝承・継承することそのものに価値がある。そのために「観光」を利用すべきなのである、というのが私の「観光」についての視点の一つだ。近年ではMaaSなどを活用し、観光地への至便性を高めるといった議論や実験もよく目にする。そうした取り組みがツーリズムの柔軟性を高め、より多くの「観光地」に光が当たることに私は期待している。


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