【おてがみ】2024年上半期おつかれさま
今日で6月も終わりだね。静岡市は連日真夏のような暑さで、ひさしぶりの雨にほんのすこし救われたような気持ちもあるぐらい。もう気持ちは夏休み、のんびりゆったりまたnoteともお付き合いできるとうれしいなあ。
2024年をはんぶんこにしたら、今日が最後のひと口。最近パピコにハマっているから、最後に名残惜しい気持ちでぎゅっとぺたんこの容器を握り締めるあの瞬間を思い出す。
わたしってば月報を書く書く詐欺が続いていたんだけど、今までの月報の書き方だと満足できていなかったから、やり方を変えてみる。多分、最後のひと口の後味が書きたかったみたい。
ということで、2024年の上半期を振り返ったときに思い浮かんでくることを書き起こしてみる。みんなもそのうち教えてほしいなあ。
結局、愛ってなんなんだろう。愛が欲しい愛が欲しいと言い続けているけれど、じゃあそれってなんなのかは全然わかっていないような気がする。
無条件の愛が欲しい、無償の愛が欲しいと思っている。「メイクをしていたら好き」とか「料理を作ってくれるから好き」とか、そんなのはわたしのこと見てないじゃんと思ってしまう。
けど、自分は無条件にひとを愛せているのかと言われるとよくわからない。どこまでが無条件の愛?どこまで許せたら?愛って我慢するもの?それって幸せなんだろうか。そんなようなことをぐるぐる独りで考えているといつもだんだん気持ちが萎んでしまう。
それでも誰かと一緒に人生を歩んでいきたいわたしがいて、どれだけ悩んで苦しくてやめたくなっても、結局やめることはなくて。今日までのわたしに、な〜んにも無駄なことなんてないんだからねって言ってあげたくなる。ちゃんと自分のことを幸せにしてあげようと思ってすこしずつ進んでいるから、大丈夫って言ってあげたくなる。
こういうときに本屋さんに立ち寄ると、ふと手にとった本に「あなたをわかってくれるひとと一緒にいることで幸せになれる」とか書いてあったりする。じゃあ、このひとは違うか。じゃあ、このひとか?そんなふうに選り好みして生きていきたいんだっけ。どうなんだろうね、どうやったら幸せになれるんだろう。
こんなに考えているんだから結局人間が大好きなんだろうね。窮屈だなあと思ったり縛られている気がしたりもするけれど、なんだかんだ大好きだからこうやってひとと繋がれる場から離れない。なんでもほどほどに、なんてわたしには一番難しいことだけど、ちょっとずつまたやってみるよ。
仕事、と呼ぶのをやめたいと何度も言い続けた2023年。「ナリワイ」ということばに救われはしたけれど、まだまだ自分のなかで「仕事」に区分しているものをたくさん抱えていたんだなあと思う。
「仕事」だと思わずにできるもの、やりたいものだけを手のなかに残してすこしずつ手放していったら、結局最後まで握りしめていたのはコーチングだった。よかった、ちゃんと握っていたいものがあったじゃん。
コーチ仲間と相互セッションしていても、力が抜けたねとか雰囲気が変わったねとか言ってもらえてうれしい。うまくなりたいと素直に思える、もっとちゃんと学びたいとまっすぐに思える気持ちがうれしい。
わたしは、何度考え直してもやっぱり大事なひとを大事にしたい。どうやったら大事にできるのかずっと考えていたらコーチングに出会えて、これだったらきっとわたしの大事なひとを大事にできるんじゃないかと思って、今のところ大正解だったと思っている。
わたしはわたしのことを知ってくれていて、人柄を好きになってくれたり、noteを読んで「のぞみさんのことばが好きです」と言ってくれたり、わたしのなかみを好きになってくれるひとにわたしを発揮したい。
だから、コーチング受けてみたいよって思ったらいつでも声かけてね!いつでもお迎えするね!わたし、もっともっとうまくなるから。ずっと最高のわたしを更新し続けるからね。いつでもここにいるよって伝えたいな。
ばあばのデイサービスがやっと決まった。長い長い試練だったなあ、こんなに嫌がられるとは思っていなかった。まずは週に一日から始めているけれど、ばあばの身体のことを考えても家族の精神的負担を考えても、早く日数を増やしたい。
すこしずつできないことが増えていくのを、どんな気持ちで見ていたらいいんだろう。何度も何度も同じことを聞かれたり、言ってもいないことを言いふらされたり、突然不機嫌になる波に掻き乱されたり。
こどもがえりだなんて言うけれど、こどもはこれからどんどんできることが増えていくでしょう?ひとつずつできなくなっていくのを見ていくのが、どうしてこどもだなんて思えるんだろう。わたしには無理、死に向かっているようにしか見えないよ。
昨日今日と大学の親友が実家に泊まりに来てくれていて、ひさしぶりにあんなに笑顔のばあばを見た。もともとコミュ力おばけだから、よそのひとと話すときにはちゃきちゃきしている。普段は声をかけても無視される日も多いのに、今朝は「おはよう〜!」とにっこにこの笑顔で挨拶をしてくれた。
なんだか、うれしいのに切ない。わたしじゃだめなんかなあ。この子がよその子だからしっかりしなきゃと気を張っているのはわかる。普段から家族にずっと気を張っているなんて本意じゃない。けど、この笑顔はわたしには向かないんだよなあ、もう向くことはないんだなあと思ったらなんだかわたしの好きだったひとは既にいないような気もしてしまった。
相変わらずクリミナルマインドという海外ドラマを見ているんだけど、アルツハイマーのお母さんが「この日をわたしが忘れたとしても、今日は確かにあったのよ」と言って微笑むのを見て泣いた。
覚えているのがわたしだけだったとしても、今朝の笑顔は本物だった。ばあばが元気になるからまた来てねってちょっぴり嫉妬を隠しながら友達に伝えたけれど、またすぐ会いに来てくれるだろうか。
6月22日はお兄ちゃんの命日だった。お兄ちゃんの亡くなった年齢を通り越して、初めて迎えた命日。不思議と去年までのような絶望感がなくて、やっといろんなしがらみが解けたのかもしれないと思った。
お兄ちゃんが生きていたほうがよかったんじゃないかと、誰かに思われている気がしてずっと怖かった。わたしでよかったのかな、賢い長男がいたほうがみんなよかったんじゃないかって、7年も縛られ続けていた。
26歳になってみると、意外と世界はきれいで驚いた。まだ生きていてもいいかなって自然と思えた。お兄ちゃんが亡くなった朝の6時頃、眩しい朝日がうざったいぐらいで、なんだかわたしちゃんと生きてるなあって笑けた。
のんちゃんが勝手に思ってただけじゃん!俺なんにも言ってないのにひどい!ってちょっとしょげた顔で言われそうだけどね。ああ、こんな表情ひとつとっても思い出せなくなってきていて嫌だなあ。先に死んじゃったのが悪いんだから、わたしに怒るのはやめてよね。
去年の6月はTHECOACHの応用Bコースで「お兄ちゃんが亡くなったことを空元気で抑え込むのをやめたい」と言っていたのをよく覚えてる。丸一年経ってまた同じ月に応用Bコースのカルチベーターを担当させてもらって、びっくりするようなご縁だった。
わたし、空元気じゃなくなってるんじゃない?先に死んじゃったこと、まだ怒ってるよ。これからも電話で恋バナとかするつもりだったのにさ、あのアザラシのかわいいLINEスタンプ、見るたびにお兄ちゃんのこと思い出して寂しいよ。
怒ったり泣いたりまだ落ち着かないけど、これでいいじゃんって思えてるからもういいの。お兄ちゃんが26年とちょっと生きて、その間わたしのお兄ちゃんでいてくれたのは確かなんだから。またそのうち会えるから、それまで好きなように生きようと思うよ。
7月が楽しみだなあ。7月のGoogleカレンダーを真っ白にしておいてくれた春のわたしに、心からのありがとうを伝えたい。夏休み、満喫するね。残りのはんぶんも大事に楽しもう。
ことばを学ぶ修士卒、コーチングとブランディングをナリワイにしています。いただいたサポートは、ナリワイをアップデートする学びや、毎日noteを心地よく書き続けるための暮らしに投資します。最後まで読んでくださってありがとうございます💌