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『土偶を読む』を読んだけど(番外編)ーー僕も土偶の謎を解いてみた。

『土偶を読む』という本が売れている。本noteでは、この本の説には妥当性が全然無いよ、簡単に鵜呑みにしないでね。ということを再三に渡り警告してきたわけですが、その甲斐も虚しく順調に売れ、巷には目からウロコを落とした人が増えているようだ。

とはいえどんな本が出版されようが、または売れようが、別に構わないし、人がどんな本を楽しもうが意見するつもりはない。そんなことは余計なお節介でしかない。ただ、『土偶を読む』を読んで、無邪気にその説を信じてしまう人があまりにも増えてしまうと、今まで地道に研究し、縄文時代についてわかっていることを説明してきた人たちの苦労が一歩も二歩も後退してしまう危険性もある。だからこそここであらためて、ちゃんと否定しておこうと思う。ーー以前の一連のnoteは最後にリンクを貼っておく。

『土偶を読む』が売れるのは当然で、養老孟司さんをはじめ、中島岳志さん、いとうせいこうさん、などなど多くの人文系の著名人がこの本を絶賛し、書評を書いた。これらの著名人に読んでもらうだけでもすごいことなのだけど、さらに書評をもらうことも決して低いハードルではない。著者か編集者サイドに人的な関係性が無いとできない場合も多い。しかも発売前からNHKでも特集が組まれ、発売前からツイッターでバズるという幸運(戦略だったらすごい)もあり、版元である晶文社はウキウキなんだろうと思う。

ただ、いわゆる「保守系(ヘイト大好き)雑誌」である『WiLL』にデビューしてしまったのは本当に良くなかったと思う。書評が載ってしまうのは避けられないにしても、12ページにわたる対談はほんとうにどうかとおもう。たとえば僕個人も雑誌の編集長として、または著者として、産経新聞から赤旗、週刊文春からブルータスまで、右も左も実にさまざまな雑誌や新聞に書評を出してもらったり取材を受けたりしたけれど、『WiLL』や『Hanada』から話が来たら絶対に断ると断言できる。そちらの読者は信じやすい人が多いだろうから結構売り上げにはつながるだろうし、版元がそれで喜んだとしても、長い目でみたら研究者として竹倉さんにプラスになるだろうか? 竹倉ファンの人文系の方々もそういった姿は望んでいないのではないだろうか。ーーこれは完全に余計なお世話でした。失礼しました。

しかし、これら強力なパブリシティ以上にこの本のキャッチーさがすごいことは認めざるをえない。写真数枚でわかり易く読者を説得する。しかも読みやすく、話は出来すぎているくらいドラマチックに謎に迫る。

しかし、そのわかりやすさや説得力とは(歯に衣を着せずに言えば)「騙し」のテクニックに近いものと言ったらどうだろうか。だからドラマチックに謎に迫れるし、だから縄文時代にあまり詳しくない人はコロリと信じてしまうのだと思う。表紙の写真からその恣意的な見せ方が炸裂しているのだが、それは「『土偶を読む』を読んだけど(1)」に書いたのでそちらを読んで欲しい。

正しい情報と説得力は時には比例しないのです。

あ、「土偶=食物祭祀」という仮説を立てることに対してはなんの文句もないですよ!

コロナも考古学も、専門家の意見には耳を傾けましょうね。

『土偶を読む』の本文中では、この説を何人かの考古学者に見せたが、まるで凡百の「オレの土偶論」のような扱いを受けて、著者である竹倉さんは考古学界への対決姿勢を露わにしている。それはまるで「固陋な考古学界と新しい知性の対決」のような書きぶりだ(全然考古学の界隈、固陋ってわけじゃないですよ。真面目な人は多いけど、いろんな人がいる)。その上で本としてこの説が表に出れば、この説の妥当性は必ず認められ、いつか教科書に乗るようになるはずだと怪気炎をあげている。

しかし、竹倉さんを絶賛する人文系の著名人たちとは対照的に、残念ながら縄文時代の研究者でこの説を肯定している方は今の所誰一人もいない。

例えば、高橋健(白鳥兄弟)さんという考古学を専門とする学芸員さんは、日本経済新聞社から『土偶を読む』の企画へのコメントを求められ、取材を受けた時のことをnoteに書いている。

記事は、『土偶を読む』についてかなり肯定的なニュアンスに切り取られているが、実際、高橋さんのコメントは相当に厳しい。

また、発売前に特集されたNHKで『土偶を読む』についてかなり肯定的コメントを出していた考古学者の原田昌幸さんも、後日、別件でお話ししたときに、番組にありえない切り取り方をされてしまったと嘆いていた。原田さん曰く、「この論は個人の妄想みたいなもので、学問的に見るところは全くないのだが…」これが番組に切り取られた正しい評価の部分だ。NHKも日経新聞も、専門家の「意見」ではなく、「名前」だけを利用するという姿勢は本当に良くないと思う。

コロナも考古学も専門家の意見にはちゃんと耳を傾けましょうね。

といっても、一度『土偶を読む』の「土偶植物説」に説得され信じてしまった人はなかなか耳を傾けてくれないかもしれない。『土偶を読む』は見た目のインパクトもあるし、読んでて面白いし、やっぱり考古学界は頑迷固陋で排他的で新しい知性を受け入れないタコツボなんだ!と、竹倉さんの主張を鵜呑みにしてしまうかもしれないので、なぜ、『土偶を読む』を信じてはいけないのか、もう少しわかり易くするためにある実験をしてみようと思う。

以下の文は、『土偶を読む』の手法で『土偶を読む』で扱った土偶と植物を素材として、あえて土偶の謎を解いてみたものである。さてさてちゃんと解けたかな…。

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ついに土偶の謎を解きました!

130年間、縄文時代の研究者が解けなかった謎を解きました。土偶とは一体何をモチーフにして作られていたのだろうか、その謎は実に身近な食物だったのだ。

検証するのはこの縄文後期のハート形土偶。特徴はもちろんこの平面でハート形の輪郭。それから胴体から飛び出たような顔の付き方も特徴だ。

『土偶を読む』では竹倉さんが山を歩いたときに見つけた「オニグルミ」の断面にこの顔のモチーフを求めている。(下の写真)

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しかし、この説では写真に角度によっては似ている部分はあるけれど、ハート形土偶の顔はクルミと違ってペラリと薄い、クルミをこのように半分に割ったとしたら横から見れば半円形となり、角度によっては何一つ似ていないと言えるだろう。写真はサイズと角度を合わせ(ご丁寧に明度とコントラストも調整している)ているけれど、実際には大きな差がそこにはある。これではダメだ、他に何かないだろうか。

ーーヒントは意外なところに転がっていた。

そう、『菊次郎の夏』だ。

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『菊次郎の夏』とはもちろん北野武監督の傑作映画だ。

そしてこの北野映画で印象的なものといえばこの頭につけたサトイモの葉っぱだ。ハート形の形はそのままハート形土偶と一致する。そして驚くべきことに菊次郎はこれを頭に付ける。まさにその様子はハート形土偶。なにしろ土偶とハート形の顔のサイズの比率と、サトイモの葉っぱと人間との比率が完全に同じなのだ!

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(この佇まいの類似!)

そして次の葉っぱの茎を頭の後ろに結んだ横向きの写真を見て欲しい。まさに完全にハート形土偶と一致している。長年不思議に思っていたハート形土偶の胴体から飛び出したような顔の理由はまさにこういうことだったのだ。

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しかし、これだけでは似ているというだけでしかない。本論考はイコノロジープラス考古学、考古学的な知見の面からもこのハート形土偶サトイモの葉っぱ論を見てみよう。

サトイモはタロイモの一種で、元々暖かい場所で育つ食物。よく育つのは南東北から西、北東北以北ではサトイモは寒すぎて育たない。そして調べてみるとサトイモの分布はこのハート形土偶と矛盾しない。この土偶は東北南部から北関東あたりまで作られていた土偶だったのだ。

しかも元々日本に自生した植物ではないサトイモが日本に伝わった時期も縄文後期頃という説が有力だ。同じく縄文後期に成立したハート形土偶。その時期もピッタリと符号する。

(余談:『土偶を読む』ではサトイモは縄文晩期の遮光器土偶のモチーフであるとしているが、残念ながら遮光器土偶の中心地である岩手北部と青森県ではサトイモはほとんど育たない(『土偶を読む』ではその北限を北海道南部に引いているが、それは現在の北限である。古い民俗事例でサトイモを調べるとその北限は岩手県の遠野市以南となるようだ)。遮光器土偶の作られた縄文晩期と現在では気候の差はほとんどない)

こうなるとハート形土偶とサトイモの葉っぱの見た目の類似を単なる偶然とするのはもはや適当でない。少なくともこの類似を議論するべき必要がある。

さらにいえばこれは土偶祭祀のあり方にもつながる。縄文人は菊次郎のようにこの葉っぱを頭につけて、葉っぱには目と鼻をつけ、サトイモの成長と豊作を祈ったのではないだろうか。その様子はどことなく雨乞いの儀式のように現代人の「儀式感」にもマッチする。

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「儀式感」ーー実際このような一般的な感覚こそが本当は大切なのではないかと私は考える。研究室や、論文の中にいるとどうしてもこういった視点が欠けてしまいがちになる。ある時は当たり前の感覚こそが最も確かな証拠なのだ。

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ステレオタイプな雨乞いの儀式でハスの葉やサトイモの葉がよく使われるのにも理由があって、ハスやサトイモの葉はその表面の微細構造と化学的特性で決して汚れることがない。いわば天然の撥水加工をされた状態にある。これを「ロータス効果」と呼ぶ。

上の写真の水滴のように水は綺麗な球体の粒となり葉の表面を滑り落ちる。この水滴が可視化されることもまた雨乞いの儀式の重要な要素であったと私は考える。そして、実はこれも土偶のデザインに関係があると私は睨んでいる。上の写真と下の写真を見比べて見て欲しい。通常、葉に落ちた水滴はサトイモの葉のロータス効果により綺麗な球になり、葉の茎のついているハートの割れ目の部分から下部のハートの先端に滑らかに落ちて行く。そう、そこに土偶の口が小さく(まるで水滴にように丸く)付いているのだ。雫を最後に受け止めるように。

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他にもこの説を支持する要素がある。やや上を向いたハート形土偶と、サトイモの葉の角度はほとんど同じ。また、胴体に施された文様はまるで水溜りに広がる波紋を表したように見えないだろうか。一見関係のないように思えたハート形の顔と、胴部の文様が雨乞いというキーワードで見事に繋がるのだ。

もちろん雨乞いと食物祭祀は密接に繋がっている。人類は古来から天候に振り回されてきた、食物を育てるため、生きるために、なかなか言うことを聞いてくれない空の気、天の気を引く為に、この土偶は必要だったのだ。

以上の理由で私はハート形土偶はサトイモの葉の精霊だと結論づけるのである。


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どうでしょうか。冷蔵庫の残りものだけで夕飯を作るベテランの主婦のように、『土偶を読む』に登場する「素材」だけを使って、別の説を組み立ててみました。ほら、土偶をきちんと立体的に見れば「ハート形土偶=オニグルミ」よりも「ハート形土偶=サトイモ」説の方が説得力がありませんか?しかも飛び火させて「遮光器土偶=サトイモ」説も同時に否定するというなかなかの離れ業だったと自画自賛しています。もちろんここで提示したデータや説は本当に存在する。一つも「嘘」はついていない。

しかもこの説は『土偶を読む』と同じ構成で土偶を読み解いている。

イコノロジーと称する単なるインスピレーションから土偶と食物を結びつけ、似ている画像を対比させ、その上で自身の論に都合の良いものだけを探して「当てはめて」肉付けしていく。現代のかわいいイラストも、考古学の知見というものも、結局のところその「当てはめられた一つ」に過ぎない。その上で、やや飛躍のあるけれど「そうだったらいいな」という想像を追加して一つの論を締める。

「ハート形土偶=サトイモ」ちょっと上手く出来すぎちゃったので、どうしようかと思っているし、なんならちょっと合ってるかも…くらいに思えているし、自分で構築したものの穴を突いていくのはなんだか変な気分だけど、冷静に考えればこの「ハート形土偶=サトイモ」説にはいくつも致命的な穴がある。特に大きいのは「ハート形土偶の形態変化を考慮に入れていない」点だ。

特に土偶の形態変化はそのモチーフを考える時には一番といってもいいくらい大切な要素だと僕は考える。このデザインがどのように生まれてどのように変化していったかこそ土偶のモチーフの解明に大切な要素だと人類学者じゃなくても誰にだってわかる。多少聡明なら中学生だってわかるはずだ。もしピンポイントで似ていると直感しても、その前後の変化や周辺の土偶を見れば、オニグルミもサトイモも「だいぶ違う」。『土偶を読む』と「サトイモ説」にはその視点が圧倒的に欠けている。というか、『土偶を読む』に至っては完全に無視している。

また、『土偶を読む』と「サトイモ説」では当時の食物の分布と土偶のモチーフを照らし合わすことを考古学の知見と考えているけれど、扱っている食物は縄文時代の「メジャー」な食物ばかりでその分布範囲は各土偶の分布範囲よりも断然広く、土偶がその食物である必然性には全くつながらない。だからそれが重なることをもっても何も証明したことにはならないはずなのに、「〇〇と〇〇の見た目の類似を単なる偶然とするのはもはや適当でない」と言い放つ。

そりゃないぜ、これじゃあ何にでも当てはまることを言うインチキ占い師となんら変わらないじゃないか!

結局のところ『土偶を読む』から恣意的な情報と、何にでも当てはまりそうな知見を抜いたとしたら、竹倉さんの「直感」だけしかそこには残らない。そもそもこの本の土偶、竹倉さんの直感が全ての出発地点になっているけれど、それが全部正解に繋がっている。これはもう研究者というか神がかった預言者に近い。

ただそんな絶対的に足りない説を多くの読者や人文系の著名人がコロリと信じてしまう理由もわかる。ある程度、縄文時代のことが好きで追いかけていなければ、土偶を(ネットや本で)目にしたとしてもほとんど場合、土偶はピンポイントで代表的な優品しか見ることはない。その土偶にいたるまでの形態変化などのストーリーや、分布の変化、周辺、類例なんて能動的に調べなければ見ることはないだろう。なまじっか知名度だけは高い縄文時代だけど、鉄道と同じように、いや、鉄道以上に深く底なしの専門性がある。信じてしまった人たちには全く罪はない、あまりにも縄文時代に対して無垢すぎただけで、ただただ自分の時間を無駄にしただけだ。

時間を無駄にしたのは僕も同じだ。反論を書くのはなかなかカロリーを使う。

「『土偶を読む』を読んだけど(1)」で、こう書いた。

「『土偶を読む』を読んだけど(1)」で、こう書いた。「〜もし知っていて触れなかったとしたら、あまりにも恣意的な資料の選択と言えないだろうか。結論ありきでデータを探していないだろうか。センセーショナリズムのために何かを売り払っていないだろうか。ーー日本の考古学は過去に、あるセンセーショナリズムのために大きな傷を負い、その傷はいまだに癒えていない。だからこそ冷静に、慎重にモノを見て発言する必要がある。」

自分の論を証明するために恣意的な資料を出すのは、まあ一般書なら少しくらいなら許される(学術書であれば少しでもダメ)だろう。しかし『土偶を読む』は最初から最後まで恣意的な見せ方、その姿勢は一貫している。そのやり口はただただ読者に誤解を生じさせるだけだ。

繰り返すがほとんどの人は「縄文時代」についてあまりにも無垢だ。恣意的に資料やデータを出されたらそれが全てだと思ってしまう人がほとんどだろう。いまだに土偶と埴輪の区別がつかない人だって大勢いるのだ。

ショッキングなことを言えば、売れてしまったばかりに『土偶を読む』は縄文時代に対する誤解を振りまいている状態にある。竹倉さんは考古学界に正解を出してあげたとばかりに、「感謝されるかと思った」とトークイベントで言われていたけれど、残念だけど本が売れれば売れるほど、今まで正確な情報を知ってもらおうと努力してきた人たちを困らせるだけだ。

だからこんな個人のnoteで、みんな、しっかりして!と草の根の声かけ運動とばかりに反論を載せている。

読者がどんな本を読んでどう楽しむかなんてことは各人の自由で、そんなことに意見したいわけではない。ただ『土偶を読む』を読んで、考古学界ってそんなにタコツボなんだ、とかやっぱり人類学に比べて古い体質があるんだなとか、思わないで欲しい。竹倉論は説得力があっても最初の段階から破綻している。目からウロコを落として信じてしまった人には残念だけど、そのウロコは早く拾ってもう一度目に入れたほうが良い。

最後に前出の高橋さんのnoteからのコメントから引用する。

「私にいえることは、おそらく本書は考古学界では評価されないということ、そしてその理由は本書の内容が不十分なためだということである。」


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追記)竹倉さんはどこかで、反論があるなら公開討論をしてもいいと言われていたけれど、本気だろうか? もしやるならアイヌに古くから伝わる「チャランケ」と言うラップのフリースタイルバトルのような討論はどうだろうか。集まった人たちが囲炉裏の囲いを拍子木で叩いてリズムを取り、その中で交互に意見を戦わせる。いやあ楽しみだ。僕も誰かのセコンドでヤジを飛ばしたい。

てゆうか、竹倉さんこの本で考察した土偶の本物ちゃんと全部見に行ってる? なんか平面的にしか見ていない気がするんだよなぁ。写真で見てわかることって結構限界があるのは当たり前だし見てないなら流石に土偶に対しても不誠実だし、フィールドに出て「縄文脳をインプット」とか本に書いてるけど、その前に考古館に行って土偶に語りかけたほうが良いんじゃないだろうかと思うけど…。

まあ、トーハクの縄文展もあったし流石に見てるか。見てるよね?

  了


『土偶を読む』の個別の土偶についてはこちら!3本もある!


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