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殺し屋にサンリオを

危機感

今、勝手に危機感を抱いている。恐ろしい未来の予感に震えている。

僕たちは日常的にインターネットを使っている。何かを購入するにしても、何かの情報を仕入れるにしても、どの業界でも最近は在宅での仕事が増えたこともあり、仕事であっても仕事以外であってもネットには常時接続な人が増えてきた。Amazonは常に僕の興味のありそうな本を紹介し、一つか二つある趣味や、一つか二つある次の計画のことも、ネットで検索し、ネットで予約する。ネットフリックスは次に見る番組をお勧めしてきてくれるし、録画予約しているテレビ番組も、流れてくるYouTube番組も、全てが僕の興味のありそうなものばかりだ。
友達は同じ業種がほとんどで、その中でも普段LINEのやりとりをする友達は限られている。そのやりとりもいつものようにいつものやりとりで、便利なことに、一文字打てば、僕のよく使う言葉が予測され、それが当たり前に心地よく使い勝手が良い。こんな話も聞いた。AI婚活。AIで趣味や嗜好の合いそうな男女をマッチングするサービスを行政が検討しているという。現代では知らない間に自分の趣味嗜好が分析され、僕の目に入るものは徐々に僕の好きなものに埋め尽くされ始めている。
ターゲティング広告や、自分向けにカスタマイズされる画面、予測検索。もちろん自分で付けたブックマーク。それらはモノを売りたい人にとっても、消費者にとっても、効率的で無駄がない。気の合う友達といれば楽しいし、好きなものに囲まれて、煩わしいものから解放されれば、生活のクオリティも上がるだろう。

一見して良いことしかここではおきていない。しかし、この日常の行き着く先を想像したことがあるだろうか?

適者生存

こんな言葉を聞いたことがあるだろう。「適者生存」。これはこの地球上で、時代や場所でさまざまに変化する過酷な環境に対応できた者だけが生き残り、その遺伝子を次の世代に受け継いでいくというあれだ。そしてその「適者生存」には必ず「突然変異」が必要なんだということももちろん知っているだろう。環境の変化に対応しうるため、生物は自身の遺伝子に「遊び」のようなものを組み込んでいる。それが生物の「進化」の正体で、あらゆる生物の遺伝子は、「突然変異」のおかげで、過酷な自然環境を生き抜いていった経歴がある。もし「突然変異」が起こらなかったとしたら、既にその種はここにはいないはずだ。

ターゲティング広告と「突然変異」。そして本稿の「殺し屋にサンリオを」のタイトル。一体何を言っているのかわからないという人も多いだろう。次の段落でもう少し詳しく説明するが、この恐ろしい未来予想図を思い浮かべるのは僕だって怖いのだ。

大好きなあの服、あの食事、僕たちだけにカスタマイズされた人間関係。スマホからは知りたかった情報たちが労せずに手に入る。近い未来はこれからもさらにはっきりと強固にその方針を貫いていくはずだろう。
具体的に言えば、恋人のいない男女にはペアリングの情報は入ってこないだろうし、殺し屋にサンリオのキャラクター総選挙の情報は一切入ることはない。たとえば映画だって、同じような結末の同じような俳優の映画しか紹介されなくなる。

僕はこれこそが、すぐそこにあるディストピアだと思う。適者生存と突然変異の話を思い出してほしい。僕たちあらゆる生物は、「突然変異のおかげで」生き延びてきたことを思い出して欲しい。その上で想像してみて欲しい。ターゲティング広告と自分専用にカスタマイズされ、販売と購買、需要と供給が極端に効率化された世界とはどんな世界だろうか、この世界は「突然変異な出来事」や「突然変異的にあらわれる発見」や「突然変異的なアイデア」を排除していないかと。

効率化という略奪者

そんな大袈裟な、という人もいるだろう。今はまだ、日常に「突然変異」は転がっているだろう。しかし、この稿は、今だけではなく行き着く先の話をしている。
好きなものだけに囲まれたい!なんて好きじゃないものが周りにあるからこそ言える戯言だ。僕はカレーが好きだけど、インドを旅行していたときは、流石に朝ごはんにカレーを食べようとは思わない。ジェイソン・ステイサムというアクション俳優が好きでも、主演映画を数本見たらしばらくあの顔を見る気にはなれない。好きなものだけの世界は意外と単調で、場合によっては胃もたれだって引き起こす。

思い出して欲しい。今まで聴くことのなかった音楽の中に何かを見つけた経験はないだろうか。友人の車から流れてきた音楽に「これ誰?」と聞いたことはないだろうか。書店をうろうろして、突然目に飛び込んできたアイドルのエッセイ集のタイトルに心奪われたことはないだろうか。ふと立ち寄ったカフェで、まったく興味のなかった縄文時代をテーマにしたフリーペーパーを手に取ってしまったことはないだろうか。

普段出会う事のない人との会話や、考え方の違う人との議論を経ることが、自分の考え方や振る舞いを見直す機会になる。自分自身も知らなかった自分の好きなものだって自分の中にまだ転がっているのかもしれないのだ。
日常の「突然変異」が減れば減るほど、人の機会と可能性は確実に目減りしていく。それを効率化という名前の略奪者が奪っていくのだ。

日常の「突然変異」は常に突然だ。日常の「突然変異」は今の自分には必要がないことの方が多い。日常の「突然変異」は良いことばかりでもない。日常の「突然変異」は効率化社会ではノイズでしかない。それでも僕たちの日常には「突然変異」が必要なのだ。

効率化と突然変異の妥協点

少し脱線するけど、ローレンス・ブロックというミステリー作家がいる。彼の代表作である酔いどれ探偵マット・スカダーシリーズは全部で17作も書かれている人気シリーズだ、しかし、当初は常時酩酊状態の探偵シリーズで人気だったのが、シリーズの中盤よりも前にあろうことかスカダーは禁酒を始め、断酒会に通いだす。そして不思議なことにそこからがさらに面白くなる。「殺し屋ケラー」シリーズでは、主人公のケラーは老後の趣味のために切手収集を始めてからさらに面白くなる。だから僕は思う。旅行に出たことのない人に秘境の宣伝をするインターネットが必要で、甘いものが苦手な人に人気のあんみつ店の情報を進めるAmazonが必要なんだと思う。殺し屋がサンリオキャラクター総選挙でケロケロケロッピに投票したって良いじゃないかと本気で思う。

効率化は避けられない社会の流れだ。それに対して戦いを挑んでも勝ち目はない。しかし、完璧な世界を求めることは、その完璧さゆえにいつか必ず破綻する。インターネットやAIはいつか必ず知ることになる。社会には「遊び」や「綻び」や「無駄」が必要で、それらを含めて社会を設計する必要があるんだということを。
効率化と突然変異の妥協点は必ずある。人為的にでもなんでもその小さな世界に小さな穴を開けるだけでいい。たとえばターゲティング広告に一定の遊びを加えることはプログラミング上できないことではないだろう。突然変異な出来事を一定の乱数でおこすことだってできるだろう。もしかしたら、日常の突然変異的な出会いを作り出すことだって一つのイノベーションになるかもしれない。冗談ではなくて、これらのことを考えれば、ターゲティング広告に突然変異的な情報を混ぜ込んだら意外と広告効果が上がる可能性だってある。

だから僕は思う。効率化に本当に必要なものは「無駄」なものなんじゃないかと。

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