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笑いの本質はどこにあるのか

非常に長い文章になるが、ご容赦いただきたい。

☆ ☆ ☆ 

①「笑い」とは何か

笑いとは何なのだろうか?

端的に説明しよう。私は、全ての笑いの本質は「正常と異常の区別」にあると考えている。
私たちがいる社会には「正常」の概念が存在する。そこに、私たちは「異常」をあてがう。「正常」と「異常」が作られる時、私たちは面白いという感情を得る。この一連の営みを「笑い」であると定義して全ての基準とし、以下の議論を展開していく。

例えば、身近で具体的な例で考えてみよう。街の道端で、私が突然人に聞かせるように歌いだしたとする。人によってはこの光景を笑う人がいるだろう。この場合、笑った人々は、街道を静かに歩いている人を「正常」、大声で歌声を響かせている私を「異常」にあてがっているのだ。私が歌わずに他の人と同じように「正常」に歩いていたとしたら、それを笑う人はいないだろう。

また、私の顔が人に比べて2倍ほど大きかったとする。これに関しても、私のことを笑う人がいるだろう。この場合、私の顔を見た人が平均くらいの大きさの顔を「正常」、2倍の大きさの私の顔を「異常」に置いている。私の顔の大きさが「正常」の平均くらいであれば、少なくとも顔の大きさに関して私が誰かに笑われることは無いだろう。

これは、日常生活における笑いだけでなく、お笑い芸人が織りなすボケにも当てはまる。すなわち「正常と異常」は、そのまま「フリとオチ」の関係に呼応している。

例えば、EXITの平場でのボケを考えてみよう。兼近は明石家さんまのことを「シーフードパイセン」と呼ぶ。さんまは兼近にとって大先輩なのだから、兼近はさんまのことを「さんまさん」や「さんま師匠」と呼ぶのが「正常=フリ」なのである。ところが、兼近はさんまのことを身近な先輩のように「シーフードパイセン」と呼んでしまう「異常=ボケ」を見せる。ここに笑いが発生する。兼近がさんまのことを「さんまさん」と呼んだら、この部分において何も笑いは発生しないのである。

日常生活の会話からより乖離していると言える「漫才」でも考えてみよう。私が霜降り明星の大ファンなので霜降り明星の漫才の中の有名な1くだり、「野党!」を例に取ってみる。

せいや:僕カラオケ好きなんですよね、人が歌っているのも好き
   (粗品に)なんか歌ってみて、俺が合いの手で盛り上げるから
粗品:駐車上の猫はあくびをしながら~
せいや:何の話だよ!
粗品:今日も一日を過ごしていく~
せいや:どういうことだ!
粗品:何も変わらない~穏やかな街並み~
せいや:言動の意図が見えないぞ!
粗品:野党か!

せいやは「カラオケが好き」と言い、粗品の歌を盛り上げようと提案する。それに対して粗品は、ゆずの「夏色」を歌う。するとせいやは、合いの手を入れて盛り上げようとせずに、国会中継で見るような相手の足を引っ張る罵声を浴びせる。カラオケで合いの手を入れて盛り上げるのは「正常=フリ」、カラオケで罵声を浴びせるのは「異常=オチ」なのである。ツッコミとは、「正常」と「異常」を説明する装置に他ならない。

②「笑い」と「差別」「人を傷つける」こと

以上のように、「正常」と「異常」に線引きをして両者を区別することで、例外なく全ての笑いは生まれている。どんな構造の笑いでも「正常」から「異常」を切り離して提示することが核になっているのだ。よく「笑いとは緊張と緩和である」という言説を目にするが、「緊張と緩和」を作ることは笑いを大きくする手法であり、笑いを生むメカニズムの本質とはややズレる。

しかし、「正常」と「異常」を区別することは、様々な問題を孕んでいる。「正常」と「異常」の置き方によっては、「区別」は「差別」になり人を傷つける。例えば、LGBTの例を考えてみよう。「差別」と「笑い」の話を取り扱う際に避けては通れないテーマであるが、人によってはトピックとして読みたくない方もいると思うので注意していただきたい。

かつて、ゲイは「男なのに男っぽくない言動をする」として笑いを生んでいた過去の事実がある。この場合、生物学的に男であるものは男っぽい言動をするということが「正常」、男なのに男っぽくない言動をするということが「異常」として扱われていたからこそ笑いが生まれていたのだ。しかし、このように「先天的な性質」や「本人が提示しようと思っていないこと」を他者が勝手に異常に設定してしまうことは、本人にとっては不本意なこともあるだろう。誰かの性質について、本人が「異常」を提示すれば「笑わせている」、他者が「異常」を設定すれば「笑われている」となる。ここに「差別」が生まれてしまう。

差別が区別の延長戦上にあるならば、笑いと差別は表裏一体のものである。「正常」と「異常」を何に設定するかによる「人を傷つけにくい笑い」から「人を傷つけやすい笑い」へのスペクトラムはあっても、断じて「絶対に人を傷つけない笑い」など無い。
ぺこぱの漫才の笑いを生むポイント(=「異常」)は「ツッコミが入るところでツッコミが入らず、相手を優しく受け止めてしまう」という点であり、普通の漫才が「正常=フリ」になっているからこそ成り立つものである。つまり、「人を傷つけない笑い」と言われるぺこぱも「区別」を行っているのだ。区別を行っている時点で差別へと続くレールに乗りあわせているのであり、その本質は他の種類のお笑いとなんら変わらない。お笑いをやっている限り、1つボタンを掛け違えればぺこぱも人を傷つける可能性がある。ぺこぱに「絶対に人を傷つけないお笑い」とかいう何かを背負わせ、勝手に期待して勝手に失望するのはぜひとも辞めていただきたい行為だ。

ただ、ぺこぱを始めとした今のお笑いがそういった部分に対して細心の注意を払っているのも、また事実である。どういった切り口であれば、多くの人を傷つけにくいのか。個人攻撃にならないのか。安易な一般化にならないのか。そういった部分を考え抜いて、世の中に提供されているお笑いが増えてきたことは望ましいことである。そういったことを全く考えないお笑いは社会の自浄作用によって、自然と淘汰されてしまう。繰り返すが、「人を傷つけない笑い」と「人を傷つけにくい笑い」は大きく異なるのだ。

③「正常」と「異常」のルール

ここで、重要なことを補足する。「正常」と「異常」は、更なるルールを伴う。
A)「正常」と「異常」は個人の主観で設定される
B)受け取り手が「異常」を理解できなければ、笑いは生まれない
C)「正常」と「異常」の関連性が薄いと、支離滅裂なボケになる

A)これまでこの文章で用いてきた「正常」と「異常」は、どこまで行っても個人の主観によるものである。「正常」と「異常」の絶対的な区別など無く、個人ないしはある集団が「これが普通である」と考えていることが「正常」になるだけのことである。日本で靴をはいたまま玄関を上がるということは「異常=ボケ」になるが、アメリカでその行為をしても「正常」であると言えば、やや分かりやすくなるかもしれない。

「正常」と「異常」が個人の主観によるものだからこそ、個人の感情や熱を乗せることで両者のコントラストがより浮き上がり、笑いの量は大きくなる。これが「すべらない話」が面白い理由だ。しかし、個人の主観を乗せた話は全体の総意ではなく、言ってしまえば「偏見」なのである。個人の偏見を「一般的・普遍的」であると捉えると、大きな相違が生じてしまう。これは絶えず情報の受け取り手が注意せねばならないことだろう。

B)発せられた「異常」を理解できなければ、受け取り手は笑うことが出来ない。何が「正常」で何が「異常」なのかが分からなければ、面白くないだろう。例えば、元ネタを知らなければモノマネを笑うことは出来ない。あるあるネタに共感できなければ面白くない。

ちなみに、「あるあるネタ」は、その対象自体を「異常」にして共感の輪を作っているのである。「宿題を写す時、わざと数問間違える」というあるあるネタは、普通に問題を解き正解を目指すことが「正常」、写す時に間違えようとすることを「異常」としている。つまり「あるある」という「正常」を提示しているように見えて、「異常」を提示しているに過ぎない。

同様に、「異常」が振り切れすぎていても、笑いが生まれてこない。あまりにも過激な発言や理解の範疇を超えることに対しては、人々は逆に引いてしまうだろう。「異常」は、受け取る人が理解できる適切な範疇に存在しなければならないのである。

C)「正常」と「異常」にはある程度の関連性が必要である。あまりにもかけ離れすぎている(ように見える)と、支離滅裂なボケになってしまう。ハリウッドザコシショウの芸がその最たる例だろう。どう聞いたって、「古畑任三郎のテーマ」は「ハンマーカンマ―」には聞えない。注意しなければならないのは、支離滅裂であることと「笑い」の量は関連性がないことである。何故ならば、ハリウッドザコシショウの支離滅裂なボケは面白いのだから。

④ 自分のnoteについて

それでは、笑いの本質を自分なりに噛み砕いて理解した上で、自分はnoteにおいて何をしているのか。

自分は、noteでは主観を強く出した文章を意識的に書いている。理由は単純で、その方が文章を面白く見せられるからだ。先の章で述べた通り、主観を強く乗せることで「正常」と「異常」のコントラストが浮き上がり、引き込まれる文章になると私は考えている。「どんなことに面白さを感じるのか」を通して、自分のキャラクターを見せ切ることが出来る文章は強度がある。

しかし、主観の一辺倒では、どうやら偏った文章になってしまうことにも気付き始めた。例えば、noteにも書いたが、私がバンクシー展に行った時に隣のカップルがドーナツが書かれている風刺画を「かわいい~」と言っていた。私の感覚では、バンクシーの風刺を読み取ることが「正常」、単に「かわいい~」という感想のみを得ることが「異常」なので、その考えを強く乗せた文章を記事に書いた。

しかし、客観的に見れば、「私がバンクシーの風刺画の見方を固定すること」こそがおかしいのだ。私はバンクシーでもなければ、バンクシー自身が自分の作品群の見方を説明して固定化している訳でもない。究極的には、バンクシーの絵に対して誰がどんな感想を抱こうが自由なのである。私がおかしいと思うことは構わないが、それを一般化しようとすると途端に私がおかしくなってしまう。誤解を恐れずに言えば、私は「偏見」によって「差別」を助長しかねない文章を書いているのだ。

そこで、私は「フラットな視線」を付け加えることにした。この「かわいいドーナツ」で言えば、「だが ここまでの話は」以降の一節である。noteで文章を書く限りは、不特定多数の人に見られる可能性がある。そして私は、文章を書く者として、自分の文章に責任を持たなければならない。そういった責任の取り方の一つとして、「自分の主観」と「フラットな客観」を自分が分ける訓練、読者に分けさせる訓練を行っているのだ。最後に付け加えられた「フラットな視点」は、勿論、悪意を過剰に読み取った読者から粘着質な絡み方をされないための「魔除け」としての役割も果たしているが、それ以上に「自分が実際に主観と客観の2つの考えを合わせ持っている」ということに起因して書かれている部分が大きい。つまるところ、文章に書かれた「二面性」こそが本当に私が思っていること そのままなのだ。

私は、「人を傷つけにくい笑い」という新たな笑いの形を目指すために、「笑い=主観」と「フラット=客観」を両立させるというチャレンジを自分のnote上で行っている。誰に頼まれた訳でもない、孤独な戦いである。だが、こういったことを考えている人は増え始めている(と思っている)し、自分もお笑いを愛している者としてチャレンジをしていかなければならないと思っている。仕事でもないのに何故これほど責任感を持っているのかは私にも分からないが、気付いてしまったからには目を背けることが出来ないのだ。

孤独な戦いを応援してくれる人、一緒に戦ってくれる人、少しでも思う所がある人が増えてくれれば、私にとってそれ以上のことはない。ここまで読んで何かを考えてくれただけでも、私は嬉しい。

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