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日記 地図

小学生の頃、目がキラキラの女の子の絵が表紙のアナスタシアっていう名前のお姫様が出てくる本を読んでいた。百数十ページぐらいはあるいちおう活字、児童向けの活字のハードカバー、そこでは氷の魔女が鏡で覆われたお城の中に住んでいて、アナスタシアは魔女にうばわれた大切なものを取り返すために城に入るんだけど、その大切なものがなんだったのか?物語の中でそれがなんだったのかを思い出せない。
昔、
あらゆる物語が、輝いて本当のことみたいになっていた時期があった。今もある意味ではそう、でも、あまりにたくさんこの世に物語があってそれをいくらでも好きに買ったり拾ったりできる立場になってしまったものだから、物語の享受に際限がない。
小学生のころは、お金にも時間にも、自分の受け取りの幅(語彙や、理解力)にもセイゲンがかかっていたので、物語を受けることがもっとトクベツだったように思う。だからこそすべての物語が真実だった。今では、さまざまな、ほとんど(あらゆる)物語を割と手間をかけずに手に入れられることが実感として根づいてしまっているから、たとえ物理的に入手したとしても鑑賞体験に着手ができないこともあって、最近は、小説を手に入れたまま読まずに、ツンドクになっている。その代わりに毎日エイガを観てる。小説も変わらず面白いけど、それよりも映画を観たいなーと最近思う。詩集を読まなくなったからこの機会にみんな売ってしまおうかと思う。でもその時私はいもしない、自分の子供のことを考えて、そのためにやはり本棚にしまっておこうかなと思ったりした。ツンドクってツンドラみたい。



日記

 一人で恵比寿に行った。写真美術館の映像祭を回って、やっぱり面白かったけれど肉体を持つ鑑賞体験は苦しいものがあるなと思った。透明人間になれればもっと気軽に澱みなく美術館を回れるのにな。外に出て、ブルーシールのホットクレープをテラス席で食べた。テーブルは四人掛けで、私は駅の方向を向いていたのでガーデンプレイスにやってくる人々と迂闊に目が合ってしまいそうになるので眼鏡を外して左側の席に置いた。右側にはリュックサックを置いた。そうすると私は一人で四人掛けのテラス席を占領している風から、まだ店で注文しているだれかを待っている風を装う感じになった。550円のホットクレープにはソーセージとツナが入っていたが全部食べてもお腹いっぱいにはならなかった。昨日テレビでチュロス特集を観たのを思い出し、無性にチュロスが食べたい気分になってきたが、恵比寿駅にはよいパン屋がなかった。カフェでチュロスを出してくれるところも時々あるが、私は食べ歩きでしかチュロスを食べたくないと思った。
 昼過ぎまではよく晴れていたのに、電車に乗って眠ったあと、最寄駅で目覚めるともう曇り空の夕方になっていた。
 野菜ジュースを飲んで携帯で『籠の中の乙女』を観ながら家までの道を歩いていると自転車に乗った女性に「すみません」と話しかけられ、公園への道を訊かれた。Googleマップで調べてみると複雑な住宅街の抜け道をいかねば辿りつかない妙な場所にその公園があることが分かったので、「一緒にいきましょうか」と言って二人でその公園へ向かうことにした。彼女は嬉しそうにお礼を言ってくれたが、こういう時に、目的地にたどり着くまでに「ここを曲がります」「ここはまだ曲がりません」「ここをまっすぐです」以外に他人と何を話せばいいのかがわからず私は黙ってしまった。携帯を持たないらしい彼女は私のGoogleマップを覗き見てはしきりに「それは良いわねえ」と感嘆していた。
 複雑な道を進みながら彼女の質問に身を任せぽつぽつ喋るうちにどうにか公園に着いた。私はてっきり彼女を待つ人がいるものかと思っていたが、小さなその公園には誰もいなかった。遊具はなく、枯れ草がまばらに生えている地表にベンチが3つあるだけの簡素な公園だった。「ああ、良かった」と心底喜んでいそうな彼女に「何か書くものを持っていませんか」と訊くと、「ありますあります」と言って自転車の前カゴを覆うカバーのジッパーをびりびり開き、清潔なビニール袋に包まれたノートとボールペンを手渡してくれた。意外にも俊敏な動きだったのに少し驚いた。ノートには1ページにつき2つの“場所”の見出しがあり、その下に地図らしきものが描かれているページもあれば空白のページもあった。彼女が「ここなんです」と指差すページには、見出しに黒いボールペンの字で“〇〇公園”とあり、その下に細い紺色のペンで描かれた地図があった。地図はかなり簡素で、定規で引いたような真直ぐの線が4、5本引かれているだけで、おそらく“道”を表しているであろうその直線のどれにも接しない空白の場所に目的地のマークがしてあった。これではさすがに誰も辿り着けないだろう。「これじゃわからないわよって家族にも言われちゃって」と彼女が笑う横で私は携帯のマップを見ながらノートに絵を書き足そうとしていたが、もうそのページに余地は無さそうだったので、自分のリュックサックから写真美術館で今日貰ったハンドアウトを取り出してそこに地図を描いて彼女にあげた。彼女はとても喜んで、何かお礼をしなければならないから、差し支えなければ住所を教えて欲しい、と言う。私はハンドアウトの余った隙間に下宿先の住所と名前を書いた。さらに、「じゃああなた、その紙をぴっと破ってちょうだい」と彼女は言う。その通りにハンドアウトを真っ二つに破ると、白紙の方に彼女が自分の住所と電話番号と名前をさらさらと書いた。綺麗な字だった。
「本当にありがとうございます」と彼女は言って立ち上がった。この人はどうして私なんかに敬語をずっと使うのだろう。自転車を押す彼女の頬は広く赤かったが、もともと紅潮しているのか、それとも化粧なのかよくわからなかった。郷里の話、学校の話などを簡単に受け答えしているうちに我々が出会った道に戻ってきた。
「バレンタインのチョコなんかが余っているから、贈ります。私も一つ二つ食べるのはいいんですけど、あんまり食べすぎると胃がむかむかしちゃって」
「とても嬉しいですけど、本当にお構いなく」
と言ったが、彼女は「私クリスチャンなんですけどね、優しくしてくれた人には優しくしないと神様に怒られちゃうんです。」
と言って笑った。
「実は、今年は誰ともバレンタインをもらったり贈ったりしてないんです。だからもしいただけたらすごく嬉しい」
 打ち明けるような言い方になってしまったのを悔いる暇もなく、私が言い終わるより先に彼女は自転車の持ち手から右手を離して宙にそっと置いた。私は差し出された右手を自分の右手で握った。薄く暖かい手だった。

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