自分をフィクションにしてはいけない

禅談のおさらいを込めてなにかかいてみる。
世の中にはあの人が持っているからほしいという者がいる。あの人はこれくらいの所得で、あのひとはこんなにもきれいな人を配偶者にしていて、この人はこんな車を持っていて、自分も欲しいというのだ。その欲は本物だろうか?他人の行動に引き寄せられたなにかよくわからないものなのではないか?もし自分も同じように手に入れたとして、そこに独自性はない。自分で生活を創造しているというのでもない。ただ単に出荷数が増えただけだ。消費者になって金を払っただけだ。労働の対価として報酬をもらっただけだ。他人の機会を奪って配偶者を運良く手に入れただけだ。手に入れたとしてもなくなってしまう。諸行無常である。
この本の著者は自己に親しめといっている。現在の自己に集中し、全力でそれぞれの本分を果たす。それを忘れずに続けること。観念ではなく為すことを、頭だけで終わるのではなくすべてが修行であること、形式をそのまま心を虚しくして実行するのではなく、反省して実行すること。
もし他人が生み出した欲やそのまがいもののような我欲もどきを真似ているだけだとしたら、その人の人生ははっきりいって無駄だろう。自分の人生を、道を修めなくてはならない。自分の人生をやれということだろう。

人間に生まれたのだからそこにまず感謝しなくてはならない。仏と同じ人間に生まれたというのは奇跡に近い。それなのに自分の人生は報われないだの、人から評価されないだの、楽なだけでいいだのと言うのは感謝がないし、自分をバカにしている感じさえある。自分の人生を愚弄すればはっきりいって何もなくなってしまう。フィクションのようにあやふやで書き換えられるような存在になる。

というのを禅談を問うして思ったことだ。

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