文学理論訳が分からん

とりあえず現代文学理論、文学とは何かを読み始めてみた。物語にかかわる主体として、作者、読者とありそれぞれの分析のようなものがのっている。
物語にあるイデオロギーとか精神分析的な部分とかいうのも出てきた。確かに精神の状態が物語で現れてくるのはわかるが、世界の一部なのであって精神分析の手法がそのまま適用されるのはおかしい気がする。
精神医学における精神分析的な部分は過去の反省から主流ではない。そういうのはなぜ反映しないのだろうか?観念の遊びのような印象を受ける。
言葉遊びの変種として精神分析のイディオムを使っているのだろうか?心理学は科学としてはよくわからないが、そういうあやふやなものを扱うきっかけとして導入しているのだろうか?
聖書もテクストとして見れば、物語の構造から理解するということもありうるだろう。ただ、チョムスキーの仮説のほうがしっくりきているのでどうすればいいのかはわからない。
そこにジェンダー的な見方とか、ポストコロニアルなどというものも加えられている。侍女の物語はそういうのに似ているのか?
意識と言語活動とか言語の構造、計算論的な言語解釈などが触れられていないのに疑問が残る。そもそも言語とは何か、共通の物語とはなにかという観点があったかどうか。
最近10年くらいの小説、審査員が書いたような小説を読みながら文学理論のことを思い出してみても、主体が状況の中にあり、状況とともに動き、結末があるというだけで違いが分からなかった。どこにどのように理論を展開すればいいのか?文学は状況説明を昇華し、思想性や共通の物語、知識、時代性を伝えるなんらかのプラットフォームなのだろうか?
そもそも物語を描くというのがよくわからない。トマスモアのユートピアはその時代の状況に対する批判や提案だった気がする。なら現代ではどうするか?
感情を記号化するきっかけとしての文学、創作という観点も面白いかもしれない。

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