たましい、あるいはひとつぶんのベッド 3‐7

※タイトルは哉村哉子さんによる。

 恵一の提案が実行に移されたのは、焼き肉店での会談から一月が経ったころのことだった。その日はとりあえず晴れてはいて、しかし雲が多くて日差しが翳りやすい、良いような悪いような、何だかあいまいな天気だったのを覚えている。

 プランの内容は基本的に提案者である恵一の主導で決まった。次いでノボルが意見をすることが多く、場合によっては彼の提言にしたがって計画がその都度修正された。ミチルは特に何も言わなかった。正確にはけして口を出さなかったわけではないけれど、どうも二人が醸し出している雰囲気と彼女とでは肌が合わないらしかった。そもそも彼女自身、恵一が言い出したことにあまり気乗りしなかったからかもしれない。

 そういうわけで秋が深まったころに三人は秩父にあるキャンプ場で、トレーラーハウスを二泊三日の予定で借りた。十一月のキャンプ場はオフシーズンであり宿泊客は少なく、いささか安価な価格で施設を利用することができた。また都心から車で二時間ほどというのも、恵一の関心を惹いたようだった。

 旅行当日は雲一つない素晴らしい青空だった。彼らは渓流で釣りをし、夕食時になると屋外の炊事場でカレーライスを作って食べた。そのとき調理過程の一部に炊飯器を使用したので、米の炊き加減について不満は出なかった。しかしカレールーに少しとろみが足りなかった。それ以外には文句のつけどころはないと言えた。

 食後に洗い物や片づけをしていると、間もなく日は大きく傾いて夜になった。いささかの休憩ののちにそれぞれが入浴を済ませれば、後は寝るだけとなった。

「見てごらん、あれが琴座だよ。その近くで一番青く光っているのがベガ。織姫の星だ。全く素晴らしい瑠璃色だね」

 入浴と就寝の準備(そこにはクリスチャンである恵一の就寝前の祈りの習慣も含まれていた。彼はいつも何かに祈っていた)が終わって、ベッドに寝転んでいるときのこと。天井に投影された銀河を指さしながら、隣にいる恵一がミチルにそういった。その指先をじっと見つめていると、不意に目の端で流れ星が現れて消え去っていったのが何となく彼女の頭に残っている。同じ瞬間に、腰に回り込んでいた恵一の手の感触がわずかに強くなったからかもしれない。あるいはノボルが抱いていた肩に爪を立てたからかもしれなかった。

「どういうことなんだ、これは」

 ミチルを挟んで恵一の反対側にいるノボルがそう呟く。

「プラネタリウム、一万千八百円」

 恵一が簡単に答える。そんなことはわかっている、と相手が返す。その声量がやや大きいのと、ノボルの唇が耳元にすぐ傍なのとので煩わしかった。ミチルはうるさいと横から口を挟むと、彼はこんなことを言う。

「やめてください。これ以上、俺のことを嫌いにならないでください」

 懇願するような調子だった。

「嫌いになんかならないさ。ただ君と結婚とか、したくないだけだ」

「じゃあ、やっぱり嫌いなんじゃあないですか!」

 どうしてそうなるんだろうかとミチルは思う。思っただけで口には出さなかった。下手に考えたことを表に出してしまえば、話が滅茶苦茶になったイヤホンのコードみたいに複雑になりそうだった。

 それからややあってから彼女は相手に、こんな風に切り出した。

「今だってこうやって一緒に食事をしたり、隣で眠ったりしていられるじゃないか。それって本当に好意がなければ出来ないことだよ」

 それの何がいけないのだろう、とミチルはノボルに訊ねた。そうすると、お前がこの男と結婚するからだと彼は答える。

「この男と、俺と何が違うんですか。一体、あなたは俺の何が気に入らないんだ」

「前にも言ったように、そんな風にいちいち問い質してくるところが素敵じゃない」

 ミチルがそう言い返すと、彼は彼女の肩に手を回し自分の方に引き寄せた。割合に勢いよく引っ張られたために、はからずも腰を している恵一と取り合う形になって、体に痛みが走る。

 女を抱き寄せた男は相手を己の胸に凭れさせるようにして、唇をミチルの耳元に近づける。彼の口元が耳介のすぐ傍に迫ると、産毛が吐息に吹かれてなかなかくすぐったかった。そのうえノボルが耳元で喋り始めたので、こそばゆさがいっそうに増して、何だか背筋が粟立つような感じがした。

「いいですか。この男は。わざわざ人を満天の星の下に連れてきたというのに、偽物の星を見せるような男ですよ。一歩外に出れば本物の星がそこにあるのに、部屋の中に閉じ込める。そういう男なんですよ。わかりかますか」

「何を意味の分からないことを」

 これ以上、君が誰かを侮辱するのを認めないと彼女は口にする。を強く、一音を確かな調子で。すると、ホント言うよねえ――そう、恵一が呟いたのがミチルの耳に入った。その言葉の端々に上ずっているところがあるので、彼が小さく笑っているのがわかる。

「でもさ、ときどきこういうことなあい? 本当の星が見たくないってこと」

「馬鹿な。偽物が本物よりも勝ることなどあって良いはずがない」

「そんなことは言ってなんだけどねえ。ただ、本物に似せた方が実物より綺麗に見えることってないかな。あるいは君がいう偽物の中に本当のものあるってこと」

 何も言わなかった。いささか待って相手が動き出さないのを確かめてから、恵一は再び話し始める。

「ごらん、あの空を。確かに作り物かもしれないし季節外れではあるけれど、実際にこの宇宙に在るものだ。唯一無二のものだ。それはプラネタリウムだろうと変わらない価値じゃあないのか」

「そんなものは詭弁だ。本物の星は絶えず動き続けている。同じ時間に、同じ人と同じ風景なんて二度と見られない。その再現性のなさこそに価値があるんだ」

 断固とした調子でノボルがいう。

「なるほど。君は思い出を大切にする人なんだね」

 本当にしみじみとした風に恵一はそう口にした。同時にミチルの方へ身体を寄せる。結局ノボルの方が狭くなんだけどなあ、と二人のあいだにいる彼女は思う。彼がミチルを自分の方へ引き寄せれば、恵一が寄ってきて開いた距離を詰めてくる。しかしベッドの面積には限りがあるので、いつまでも同じことは繰り返してはいられないだろうというのは明白な事実だった。そのことに彼が気づいているかはさておいて。(でも実際、このあとにノボルは縁に追い詰められて転落した)

「しかしね、偽物とか本物とか、そんなシンプルな区別には僕はあんまり意味がないと思うんだよ。大事なのは何を見るか、あるいは誰とみるか――じゃあないかな」

 恵一は相手が話し出すのを少し待つ。でも、ノボルは何も言わなかった。その代わりに、ミチルを自分の方へ引き寄せる力がさらに強まった。しつこいな、とミチルは思う。けれども別に痛くもないし不快ではないので、あちらの好きにさせていた。それから距離が開いた分だけ恵一が彼女の傍に寄ってくる。

「僕はね。偽物がどうとかなんて、どうだっていいんだ。こうやってね。ミチルさんとミチルさんが好きな君いれば、それで良い」

 それきり部屋の中は静かになった。

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