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赤、紙を折る手/Sample

*同人誌のサンプルです

            一


 純度の高く整った両手は確かに存在するが、その一部分だけで美しさは完成しないと南朋は考えている。背丈における両腕の長さ内訳や、両脚との比率。骨格の端整さ。そして肩から腕へ、腕から指先へ流れるライン。彼女が誰かの手を美しいと感じるには、そういった細々な要素が必要だった。
 このように人間の手については彼女自身でうんざりするくらいに、南朋はかなりのうるさ型になる。王様でも神様でも何でもないくせに、とても偉そうだ。だから彼女が心からこれと認める手を持つ人物は、ずっと一人しかいなかった。十年もの長いあいだ、つい半年ほど前までは。
「この度は本当に申し訳ありませんでした」
 ベッドの脇に座っている男が、深々と南朋に向けて頭を垂らす。左巻きのつむじと倒れた上半身の合間からは、膝の上で軽く曲げられた指が覗いている。ほどよく日に焼けた白い指だ。色白過ぎず、かといって焼けすぎてはない。そんな色合いの指だ。
 しおらしい姿勢を見せつけた、いささかの後に男は不意に顔を上げる。目が合う瞬間、胸の中に懐かしさが湧き上がる。
 確かに筋肉の目立つ壮健そうな体つきは、男性の持つものだ。あの彼女とは違う。しかしどこか面影がある。鉛筆で撫で書きしたような切れ長の目じりや鈍色の瞳、焼け灰を連想させる明るい髪の色合いとか、そのようなところに。やはり兄妹というもの(少なくとも彼と彼女のあいだにおいて)は、よく似るものだと南朋は思う。
 今、ベッドサイドにいる男――逸島儀隆は逸島礼の兄にあたる。逸島礼は南朋の高校時代の先輩で、折り紙の名手であり、そして彼女の知っている限りにおいて一番美しい手を持つ人でもあった。しかし二人がこのように顔を合わせたのは、まったくの偶然に過ぎない。
 ある日のこと、南朋が勤務するホテルに会食の予約が入った。三十人ほどの団体客で、法要の後の精進落としであるとのことだった。その団体客というのが儀隆を始めとした逸島家で、南朋は彼らの給仕を担当するサーバーの一人だった。
 催事の参加人数から計算して、逸島家にはホテル内で最も大きな広間があてがわれた。用意された何脚のテーブルの全てには消毒済みのテーブルクロスがかけられ、その上に磨き抜かれたカトラリーや動物や花の形に折られたナプキンなどが置かれた。そのように宴のための準備は何もかもが順序正しく、マニュアル通りに行われていた。

 そしてそれは人間に対しても同様で、約束の時間になると係員に案内された団体がぞろぞろと入ってくる。その先陣を切って室内に入ってきた男の姿を注視してしまう。
 どこか予想とは外れた体格をした男だった。肩幅は広くがっちりしていて、でも両脚は筆で刷いたように妙にすっと細く長い。その姿に南朋は反射的に、昔お寺で拝観した幽霊画を頭に思い浮かべた。立体的な上半身と、霞のような下半身の、アンバランスであるがゆえに存在感が際立つ関係性がまるっきりそっくりだったのだ。
 各テーブルにウェルカムドリンクを配膳する合間、南朋は幾度か男の方へ視線をやる。彼は入り口の脇に立ち、広間に入ってくる他の客の一人ひとりに頭を下げていく。腕に喪章がついているので、どうも彼はこの法事における喪主であるらしい。伏し目がちの表情に、南朋はどこか見覚えがある気がした。
 全員が揃うと、短い挨拶と献杯の後に誰もが席につく。
 祭事はつつがなく行われた。そこに欠けたところはなく、また過剰さもなかった。すべてが順調に進んでいた。そうして空いた皿を下げていると、南朋はふと、誰かが広間を覗き込んでいるのに気づく。
 薄く開いた入口の扉の向こうに立つ、その何者かはハイカラーかハイネックの、首元まで隠れる白い服を着ていた。遠目からなので、それ以外の相手の特徴を彼女は判別できない。わかるのはせいぜい細身の体躯であるということと、おそらくスタッフではないという二つの事柄だけだった。どんな部署であれ、南朋が勤めているホテルにはこのような制服の者はいない。
 なんだろう、遅れてきたお客様だろうか――? はじめのうち南朋は考えていた。だが幹事や上司からは、遅刻や欠席の報告は聞かされていない。全員が揃っているはずだ。となれば、残された可能性はごくごく少なかった。それも悪い方に。現場リーダーに事の次第を報告しようとインカムに触れた、そのときだった。
 ぎゃっ、とどこからか悲鳴が上がる。まるで楔を体に打ち込まれた吸血鬼を思わせる、地を這うような低い悲鳴だった。声が聞こえた方へ顔を向けると、壁際のテーブル席で正装した男の子が、背もたれに首を預けて大きくのけぞっていた。
 おぉぉーん。重く低い唸り声をあげながら、まるで太鼓を叩く猿のおもちゃみたいに、男の子は激しく手足をばたつかせる。だが、それは少しのあいだだけのことに過ぎない。ある瞬間、急に糸が切れたように動かなくなる。
 子どもが意識を失ったのを皮切りに、広間にいる客たちが次々と倒れていく。ある者は椅子から転げ落ち、ある者は額で皿を叩くように突っ伏した。またある者は突如としてわけのわからないことを叫びながら、胸を激しく掻きむしって苦しむ仕草をする。だが、すぐに床に伏して凍りついたように黙り込んだ。
 助けを求めているのか、それとも脱出しようとしているのか、床の上を這って入り口に向かう者もいる。しかしその誰もがいくらもしないうちに、そのまま力尽きて二度と起き上がることはない。
 広間は確かに阿鼻叫喚の絵図だった。ただしそれは南朋が元来思い描いていた惨禍とは違い、奇妙な静けさを孕んでいた。誰かが悲鳴や叫声を上げても、次の瞬間にはその人物がばったりと意識を失ってしまうからだ。まるで電池や充電の切れた機械みたいに。
 応急手当! 救急車を呼べ! 多くの人間が床に倒れ伏し、その合間をスタッフが走り回るなか。おもむろに一人の客が立ち上がる。喪主の男だ。そうしてふらふらと、おぼつかない足取りで入口に向かって歩いていく。
 お客様――。その場に留めようと、南朋はゲストのもとに駆け寄る。だが、男は彼女の腕を振り払う。その力と勢いがあまりにも強かったらしい。落雷のような大音響の後、南朋は近くにあったテーブルに背骨をしたたかに打ちつける。
 反射的に掴んだテーブルクロスが滑り落ち、卓上の食器が床に落ちてばらばらと砕け散る音があたりに響いた。その中で、彼女は男が何者かに向かって大声を張り上げたの聞く。
「礼!」
 刹那、白い人影がふっと掻き消えたのを南朋は確かに見る。唇が弧を描いて、笑っているように思われた。
 まもなく彼女の意識は途絶えて、気がつくと病院のベッドの上にいた。医者の説明によれば、なんでも背骨のみならず頭部にも衝撃を受けたらしく、数日のあいだ意識不明であったそうだ。
「今回の事故はもちろんとして、あなたの怪我に関してもこちらに責任があります」
 逸島はベッドサイドから、南朋に向けてそう口にする。拳を固く握りしめ、小さく肩を落とす様子や、眉を下げた面持ちからは本当に心から申し訳ないと思っているのが伝わってきた。少なくとも今、ベッドの上から彼の顔を眺めていると、そのように感じられる。
「同じ病院に入院していたのに、そんなにかしこまることは――。入院費を負担していただけるのは大変助かりますけれど、でも、お金をもらうのは少しだけ怖いです」
「すべて身から出た錆です。償わせてください」
 あなただけに何もしないというわけにはいかないのだ、と男は決定的で、断固とした強い調子で言い切る。
「聞けば、礼……妹の知り合いだと伺いました。それならば、なおさら捨て置くわけには参りません。まさか身内のみならず、友人まで手にかけるとは。妹の恥を始末するのは兄としての責務です」
「本当にそう思ってるんですか?」南朋は訊ねる。
「なんです?」
 男は答える。
「先輩が、彼女があんな事態を引き起こしたと――妹さんが誰かを平気で傷めつけたり苦しめたりする人だと、あなたは本当に思っているんですか?」
 二人きりの病室に沈黙が降りる。逸島は唇をまっすぐに結んだまま、じっと南朋を見つめている。紅を差したみたいに眦にうっすらと朱が滲んでいく。こちらに送ってくる視線も鋭い。まるで眼差しだけで、心臓を射抜けるかもしれないと思わせるほどに。同時にそれは苛立たしさと、剣呑さを含んだ眼差しでもあった。
 加えて、手をさらに強く握りしめているらしい。てのこうから突き出た関節が白く染まっている。とても緊張しているようだ。それを見た南朋は彼の手のひらに爪が食い込んで、傷つくのではないかと心配になる。不完全さの存在もまた趣はあるけれど、やはり何もないことの方が一番だ。
 しかしそんなことはおくびにも出さずに、南朋は逸島に向かってこう続ける。
「どうしても私のために何かしたいというのであれば、ぜひお願いがあるんです。お金以外に」
      *

 それから数日後のこと。南朋は荷物をまとめて、入院費を清算して病院を出た。予想していた通り、請求書に記された数字の桁は片手の指の数よりも多い。後から を口座振り込みでもらうことになっているので、さほど落ち込むことはなかった。けれども、心臓がどきどきする。どれだけ遠目や薄目に見ても同じだった。
 看護師が祝いの言葉をかけてくれる。どうにも南朋があの事件における、最後の患者であるらしい。彼女以外に病院運び込まれた者は特に後遺症はなく、多くはその日か次の日のうちに回復して家に帰ったのだという。そんな中で南朋だけが長引いたので、気にかかっていたらしい。後日菓子折りか何かを贈ろう、と玄関前で南朋は思う。
 荷物を膝の上において、彼女は待合所のベンチに座り車が来るのを待っている。時間になれば、迎えが来る手はずになっていたのだ。そうしてイワシ雲が伸びた青空をぼんやりと眺めていると、車寄せに軽自動車が滑り込んできて南朋の眼前で停車する。
 やってきたのは左ハンドルの車で、フロントグリルにはMのアルファベットをかたどったエンブレムがついていた。そのエンブレムが何を意味するのかを、彼女は知っている。マイバッハだ。勤め先でゲストが乗り降りしているのを、二、三回ほど見たことがある。
 解錠される軽い音が辺りに響く。まもなくドアが開いて、中から背広を着た男が姿を見せる。しかしそれは逸島ではない。今、南朋の前にいる彼の肩や胸は、彼のものよりも圧倒的に薄かった。何より“両手”の純度が明らかに違う。
 運転席側のドアが彼女のすぐ正面にあるので、相手が座席から立ち上がればおのずと南朋と向かい合う格好になる。男の顔色に彼女は息を呑む。まるでおしろいを塗った以上に、本当に白かったのだ。
 それは熟練した職人が製作した男雛を連想させるような色合いと質感だった。男の風貌があまりにも作り物じみているので、彼にも温かい血が通っているという事実が、南朋にはあまりしっくりこなかった。
 岡本様ですか――? そう相手が問いかけてきたので、南朋は頷く。
「私は逸島の執事を務めております、久世と申します。今日は岡本様をご自宅までお送りするよう、逸島から仰せつかいました」
 どうぞ、と男は言いながら後部座席のドアを開く。滑らかで、嫌味や無駄のない動作だ。誰のために扉を開けるという行動自体が肉体に馴染んでいて、充分に訓練されているのがわかる。おそらく、他人に仕えることに慣れているのだろう。
「このたびは本当にご愁傷様でした。当方としましても、今回の件は全く恥じ入るばかりです」
 ハンドルを握りしめながら久世がそう口にする。エンジン音に紛れた声は、いかにも気の毒がっているみたいに聞こえた。けれどもバックミラーを見れば、ちらりともこちらに眼差しを寄越してはいない。ただ、ひたすら前を向いている。絶え間ない車の流れや道を歩く人々の姿、切り替わり続けるビジョン広告などの街のにぎやかさをじっと目の当たりにしている。
 南朋はそんな男の姿から視線を外し、手元にある名刺に目を落とす。片手に収まるくらいの、さらさらとした質感の紙には久世利光、と名前が記してある。
「ご依頼の件につきましては、どうかご安心を。ご滞在のあいだは誠心誠意、対応させていただきますので」男は続けて口にする。
「ずいぶんと手厚い心遣いですね。むちゃなお願いをしてしまったと思っていたのですが」
 南朋は言う。急に唇を動かしたためか、あくびが出そうになる。眠たいのだ。揺れる車のゆりかごじみた心地よさに、座席のクッションの柔らかさが眠気に拍車をかけている。彼女は噛み締めてやりすごす。ここで弱みを晒してしまうは好ましくはない。
「この度の不始末は当方の責任ですので、全ての関係者の方に対してしかるべき補償をさせていただいております」
「そんなことを言っても、実際には大変なんじゃあないですか? お支払いとか根回しとか」
 病院で目が覚めてから、南朋はすぐに新聞やネットニュースを片っ端から調べてみた。だが、例の事件に関する記事はどこにも見当たらない。また舞台になったホテルも何の処分を受けた形跡はなく、事件が起こった日から途切れることなく営業を続けている。集団食中毒の発生が疑われてもおかしくない事例であるのにもかかわらず。
 お見舞いに来た同僚にもあのあとはどうなったかと話を聞いてみたが、今一つ要領を得なかった。『もういいじゃあないか、済んだことは』というような、おためごがしさえ口にしない。ただ、歯切れの悪さだけがそこにある。何も不思議なことは起こっていない、と誰もが信じ込みたがっているみたいに。
 おそらく逸島が『補償』と称し、裏から手を回しているのだろう。そしてその根回しはとても見事なものだった。学生並みの調査能力しか持たない南朋には事件の鱗片さえ見つけられず、存在するのは完全で、完璧な空白と沈黙だけだった。こんな風に身内に対しても(あるはだからこそ)そうだが、企業や行政の口を塞ぐのは並大抵の金額や手腕ではない。
 含みのある南朋の言葉に対して、運転席の久世が依然として目線を前方に向けたまま、短く笑い声をあげる。それはワルツを踊るときに翻ったスカートを思い起こさせる軽やかで、上品な笑い声だった。
「人間関係で肝心なのは事象が発生した時点や前ではなく、事が起きてしまった後です。ここで対応をしくじれば長く尾を引きますが、うまく立ち回ればリターンが倍になって返ってきます。たとえるなら投資と同じですね。時機を見誤れば、大きな傷を負うことになる」
「なるほど、とても切れ味の鋭いロジカルな考えですね。よく研いだカミソリみたいにクールでシステマチックだ」
「……――しかし犯人を出したことは、本当に遺憾だと思っているんですよ。それはおそらく逸島も同じかと」
「やはり、あなたも信じているんですか?」
 あの事件の犯人が彼女だと――そう南朋は久世に問いかける。しかし相手はすぐには答えない。少しだけ開いた窓に風が流れる音やコンクリートに擦れる音、他の車のクラクションや鳥の声だけが耳につく。
 しかしそんな沈黙はいつまでも続かない。たっぷりと を取ったのちに、やがて男は口火を切る。
「物事の帰結としては理解できるところもあります」
 帰結? おうむ返しをするつもりがなかったが、思わず口について出る。そう、帰結です。行く手に顔を向いたまま相手は答える。
「何か、心当たりがおありなんですね? あれだけの人たちをひどい目に遭わせなければならなかった理由が」
 そう問いかけた、次の瞬間だった。黒板を引っかくような不愉快な音が耳に入り、がこん、と車体が大きく揺れる。座席に預けていた南朋の背中がふわりと空に浮き、体がクッションの上でゴム鞠のように跳ねた。シートベルトをしていなければ、すぐ手前の座席にぶつけていたかもしれない。
 ――失礼、踏み込み過ぎました。赤信号になったもので――そんな男の言葉が終わらないうちに、南朋はハンドルを握る男から助手席側へ目線を素早く移す。久世の言うことは本当で、確かに信号は赤になっている。
「私は逸島の秘書です。彼の利益になるように立ち働いて、月々のお給料を得ています。その意味はおわかりになりますね?」
 わかる、と南朋は答える。しかし彼女の関心を惹いたのは権力構造ではなく、逸島儀隆という男に秘密があるという事実だった。今、彼女にとって重要なのはその部分だけだ。
 車の中は沈黙で覆われた。それは高く、硬い壁を思いこさせる沈黙だった。やがて信号が青に変わり、車は再び目的地に向かって進み始める。

 マイバッハは着実に街から離れていく。人々の喧騒が次第に遠ざかり、静けさにとって代わる。コンクリートビルが櫛の歯が抜けるように風景から失われ、街路樹と一軒家が増えていく。しかし新しく現れた家々も進むにしたがって徐々に姿を消していき、辺りの景色はキンモクセイやイチイガシなどの鬱蒼とした樹々でいっぱいになる。そして薄暗い日陰の下を車がひたすら駆けていくと、不意に大きな石造りの門が進行方向に現れた。
 アーチのある門は生い茂った樹々の中に埋もれるようにして建っている。初めのうちその扉は硬く閉ざされていたけれど車が距離を縮めるにつれて、門はゆっくりと内側に開いていく。だから車が入口を間近にするころには、すっかり門は完全に開ききっていて、何事もなく無傷でアーチをくぐり抜けることができた。
「ここからもう少し走ります」
 門を越えたところも、外と同じように広葉樹の森になっている。木々の合間を貫くように、道路が真っ直ぐに伸びていて、南朋たちを乗せた車がその上を疾走していく。
 手持無沙汰にじっと窓の外を眺めていると、揺れる梢の……茂った青葉の合間から、何か黒いものがちらちらと覗いているのを南朋は捉える。注意深く正体を窺っていると、それが建物の屋根らしいのが彼女には理解できる。
 あれが――そんな考えが浮かんだ刹那。いきなり視界が白くなり、窓から侵入した日差しが車内を明るく照らし出す。強く、激しい光だった。そして気がつくと、南朋と久世が乗った車は広い場所に出ている。
 どうやらここは前庭らしい。広大な面積を持っている。舞踏場とまではいかないか、ちょっとしたパーティーか何かができそうだ。その庭の中央部に噴水があり、それを背景にしてレンガ積みの洋館が絶壁の如く厳然と聳えている。
 三階建ての洋館だった。しかし形が帆柱のように真っ直ぐなので、お屋敷であるよりかはマンションかアパートのように見える。それも住民が一人二人と欠けていって、もはや暮らしているのは置き去りにされた家具と空気ばかりという風情の。そのように何だか不吉さを感じさせるものが、建物には存在した。そこに風化したレンガの色合いが、陰鬱な印象にさらに拍車をかけている。
 この建物が竣工したのは大正時代だと聞いた。そこの頃はきっとこの館も洗われたように奇麗で、組み上げられた石材やレンガももっと鮮明な色をしていたのだろう。だが長いあいだ雨風を一身に受け続けたせいで、外壁は薄汚れて色つやも失われすっかり変わってしまっていた。
 そんな壁には子どもの上半身くらいある大きな窓が、いくつも張りついている。おそらくゴシック様式を模しているらしく、窓枠には複雑で精密な装飾が施されている。その意匠の贅沢さや豪勢さが、建物自体の第一印象とあいまって、窓ガラスにどこか怪物じみた雰囲気を纏わせていた。
 これからこの洋館の中に入らなければならないという事実は、南朋の気持ちを重たくさせた。古くて、重厚な住宅であるとは話には聞いていた。しかしこれほどまでの圧迫感あるとは思わなかったのだ。あまつさえこれから何日間も逗留しなければならないと思うと、自分で決めたことであるはいえど及び腰になる。
 逸島邸とはそのような屋敷だった。


            二

 集団昏倒事件の犯人と目されている逸島礼は、南朋の高校生時代の先輩だ。また彼女にとっては、世界でとびきり美しい手を持つ女性でもある。
 二人が初めて顔を合わせたころ南朋は高校一年生で、彼女が二年生だった。よく晴れた四月の、入学式の日の朝。学校の正門を入ってすぐのところに在校生が一列に並んでいて、新入生に祝福の言葉をかけながら胸花を渡していたのを今でも覚えている。その中の一人に礼がいた。
 長く切れ込んだ鈍色の二つの目、焼け灰のような明るい色のショートカットの髪。そして何より南朋が惹きつけられたのは、胸元に造花を飾りつける彼女の両手だった。
「おめでとう」
 よく通る声でそう言いながら、礼は白薔薇の造花を、南朋のブレザージャケットのフラワーホールに差し込む。大きすぎず小さすぎない手のひら、シャベルやスコップを握ったことがなさそうなほっそりとした指。血色の良い桜色の爪、淡く黄色みを帯びた肌。誰かの胸に花を運ぶ動作。それらの全てが、涼やかな声質や伸びやかな手足のバランスと見事に調和していた。まるで職人が緻密に計算し、慎重に作り上げた彫刻みたいに。
 素晴らしかった。溜息すら凍りつくくらいにとても、とても。あんなに美しい手は南朋がこれまで生きてきたなかで見たことがなかったし、目の当たりにしても生きた人間のものだとは到底信じることが出来なかった。確かに胸にあったのは昂りだけだった。あの人の指が、私の髪を掻き上げたなら自分は一体どうなってしまうだろう――?
 だから学生寮の同じ部屋に暮らすことになったときには、すごく胸がどきどきした。
 学校の教育方針により寮に属する在校生は、新しく入寮する生徒の生活指導にあたることになっていた。その組合せはくじ引きで決められており、厳正な抽選の結果、逸島礼が南朋の指導役となることに決まったのだった。
「これから、よろしくね。岡本君」
 こちらの思いはつゆ知らず、礼は南朋に向かって右手を差し出してきた。そのときの光景を南朋は、十年以上たった今でもときどき夢に見ことがある。南朋は必ず、彼女の手を握り返す。するといつも、ほんのりと温みを感じる。

      *

 車が中央に設置された噴水を半周すると、車寄せを兼ねた玄関ポーチが現れる。その庇の下、屋敷の正面玄関の前に誰かが立っていた。
 何者かは自分の方に車が寄ってくることに気がつくと、こちらに向かってにわかに手を振り始める。お互いの距離が縮まるにつれ、相手の容姿が次第に鮮明になっていき、やがて誰かの正体がわかってくる。逸島儀隆だ。
 儀隆と車の距離がある程度近接すると、彼は車の行く手をふさぐように前へ身を踊り出て、マイバッハを車止めに停車させる。そうして車が完全に動かなくなると、すぐに彼は早足でこちらに近寄り、車窓を叩いて南朋の顔を覗き込んでくる。
「お加減はいかがですか」
 儀隆がそう訊ねてくる。問題ない、と南朋が答えると彼は微かに息を吐く。安心した、あるいは緊張が解けたというみたいに。反射的に南朋の口元に笑みがこぼれた。小さく溜息を吐いて目を伏せる様には、確かに彼女の面影があったのだ。思えばあのころの礼も課題が終わったり、折り紙が完成したりしたときにこんな顔つきをしていたものだった。
 目的地に着いたので運転手をしていた久世とは、ここで一端お別れになる。南朋は逸島邸内に案内され、久世は車庫に車を入れに行く。
 では、またあとで。そう男が言い終えてすぐにマイバッハが発進し、車止めを抜けて玄関から遠ざかる。そして、やがて南朋と儀隆の視界から姿を消す。
 そろそろ行きましょうか。車が去ってからいささかの後に、隣にいる男がそう口にして踵を返した。振り返ると両開き扉があって、それを儀隆が風のように勢いよく開く。
 時間経過が的確に反映された外観に反して、邸内は整備されていた。もちろん彫刻のある直階段の手すりや、スズランに似たシェードランプのシャンデリアなどのデザインは時代を感じさせるし、廊下に敷かれた絨毯や壁紙もそれなりに色褪せてはいる。だが、頻繁に手入れがされているのだろう。ある程度の美観と清潔さは維持されていた。
「一見すると時代がかって見えますが館内の照明は全てLEDですし、水回りも手を入れています。耐震工事もばっちりです」
 舐めるように南朋があたりを眺めている(談話室がある家なんて初めて訪れたのだ)と、儀隆がそんなことを言う。
「災害や戦争を経て現存する貴重な建物なので、こちらとしてもなるべく建築当時の状態を維持したいところなのですが……いかんせん日々暮らしていく上では限度がありますので」
「住人が生活しやすいようにするのが一番なのでは?」
 住宅であるのだし、と南朋が口を挟む。すると儀隆は笑みを浮かべる。それは月の砂のように温度の低い、乾いた微笑みだった。そんな顔つきをしながら男はこう続ける。
「そうですね。しかし、どうにかして後々にまで遺さなければならないものもあります。人間がしょせん遺伝子の乗り物でしかないのと同じように」
 ついで会話に区切りをつけるように、儀隆が手を叩く。次の瞬間、どこからともなくふらりと使用人が姿を現す。どうやら荷物を使用人に運せるつもりらしい。別に大した量や重さではないから、南朋は少し迷うが、せっかくなので持って行ってもらうことにする。ちょっとした見栄や気遣いに似たものが、誰かの仕事を奪ったり増やしたりする形になるのを、職業柄彼女は身をもって知っていた。
 荷物を預けてしまうと、南朋はひとまず玄関横の応接室に通される。休憩がてら、お茶でも飲もうということになったのだ。おそらく南朋が病み上がりの身体だから気を使っているのだろう。ソファで楽にしてくれていいとまで言った。
「まさか、妹にあなたのような友達がいたとは知りませんでした」
 黒革のソファの上で足を延ばして寛ぎながら、南朋はテーブルの向こう側にいる儀隆の声を聞く。しかし今の彼女には相手の言葉を、主があるものとして受け取ることができない。男の言葉は暗い洞窟で反響するこだまように、ただ左に耳から右の耳へ通り抜けていくばかりだった。やはり疲れているのかもしれない。
「友達、なのでしょうか。私と彼女は。あの人が、そんな風に思ってくれていたら嬉しいのですけれど」
 少しの間を置いて南朋はそう答える。腕枕の上から向かいの男を見遣った。口元には先ほどと同じように笑みが浮かんでいる。
「どのような根拠であれ、あなたは礼の無実を信じている。そういう人は友達と評しても足りないくらいだと私は考えますが」
「……やはり逸島さんにとって、彼女は何の理由もなくあのようなことをする人間なんでしょうか」
 すっ、と男の顔から笑みが消える。まるで煙が空気に溶け込むように。けれどもそれはほんのわずかなあいだだけのことで、すぐに元の表情に戻った。それから南朋に向かって、儀隆はこんなことを問いかけてくる。あなたはどうなんですか?
「はっきりいって彼女のことは無実だとは考えてはいないです」
 南朋は答える。
「私は彼女があの場いたのを見ましたし、どのような形であれ事件と関わりがあると感じています。けれど何か、理由があるはずです。どうしても、行動を起こさなければならなかった理由が。私はそれを確かめに来たのです。私が知る、逸島礼は理由のないことはしない人だから」
 そう南朋は言い切った。ついで儀隆の唇が動いて、何かを言おうとする。しかしその言葉を彼女が耳にすることはない。次の瞬間にはノックの音が響き、ティーセットを持った久世が応接室に入ってきたからだ。
 食器を配膳していく久世の手を、南朋はじっと見る。長すぎず短すぎない、伸びやかな指。荒れていない、瑞々しい皮膚。角が出来ないように丸く磨かれた桜色の爪。特段目を惹くところはない、しかし陰日向で人を支えるのには相応しい手だった。
 長いあいだ――。クッキーの乗った皿などがテーブルに置かれていく様をじっと眺めていると、不意に儀隆が南朋に向かってそう口を開く。
「長いあいだ共に暮らしていたので、僕はあいつのことは誰よりも知っています。礼の持つ苦痛、礼の持つ哀愁、礼の持つ憎悪――おそらく全てを。もしかしたら、あれ自身よりも詳しいかもしれない」
「お兄様だからですか?」
「そう、僕は兄ですので。こいつだって同じです」
 一瞬、久世の手が止まる。
「僕らと彼とはこの家の中で育ちましたから、ほとんど兄弟妹のようなものですね。まあ、今では主従の間柄ですが。しかし蓄積された情報量と質は、おそらくこちらと引けを取らないはずです。きっと、あなたのお役に立つと思いますよ」
 何なら一晩二晩、これをお貸ししてもかまいませんが。如何でしょう?
 そんな男の問いかけに対し、南朋はいささか考え込む。物事に協力的であるというのは基本的に良いことだ。喧嘩は起きないし、色んな手続きがスムーズに進む。だが、今回に限ればその方向性が何だかおかしかった。下手をすれば家族の恥部が第三者に露わになるかもしれないのに、こうも平然としていられるものだろうか。南朋は行きの車の中で、久世が口にしたことを思い返す。
 ――私は逸島の利益になるように立ち働いて、月々のお給料を得ています。その意味はおわかりになりますね?
 彼女は口火を切る。ただし、雪が降り積もった道を歩くみたいに慎重に言葉を選んで。
「確かに私はあの人の……逸島礼の人となりを見極めたいと思い、そのためにこの場所に来ました。しかしそれは私が私自身を納得させるためだけであって、けしてあなた方とお友達になったり、弱みを握ってどうこうしたりしたいわけではないのです。そこのところは、お含みおきいただければ」
「ええ、承知しています」儀隆が言う。
「そんなことはあなたでは無理だ。光に満ちた庭で生きてきた人間に、そのような後ろ暗い意志は到底完遂できない」
「なら、どうして」
「だって、あなたが」
 儀隆が続きを紡ごうとする。横であ、という久世の声が遮った。次の刹那。耳をつんざくような音を立てて、室内で何かが破裂する。金属質で硬質な何かが。南朋には正体がわかる。ガラスだ。
 ちらちらと光を反射させながら、砕かれたガラスが粉雪のように空を舞う。方々に飛散した破片が引っ掻いて、南朋の腕を傷つける。反射的に庇っていなければ、顔や首がズタズタになっていたかもしれない。
 目蓋が落ちてくる瞬間――あと少しで視界が真っ暗になる刹那、窓を破ったものの正体を見る。鳥だ。鳥が頭から窓に突っ込んできたのだ。
 しばらくすると、室内は水を打ったように静かになる。大丈夫ですか?いささかののちにそんな久世の叫び声が耳に入り、南朋はこわごわと目を開く。
 一瞬のあいだに室内は様変わりしていて、雪が吹き込んだように周囲は真っ白になっている。身じろぎをする。するとかさり、と足元で渇いた音が鳴る。白い何かが指先に触れる。紙だ。それは鳥を象った折り紙だった。
 とはいえそれは鶴ではない。くちばしがあり翼を大きく広げている、そんなありふれたイメージの集合体としての“鳥”だ。その折り紙がガラス片と一緒にテーブルや床、ソファの上に落ちている。室内を埋め尽くさんばかりにいくつも、いくつも。大量死、という語句が南朋の頭に過った。
 これは――と、儀隆が絶句する。怪我をしたらしい。左目を抑えている指の合間から血がだらだらと流れ落ちて、シャツの赤く袖を汚していた。
 久世が手近にあった鳥を拾って、折られた紙を開いて形を解いていく。そうしてかれはある事実を二人に告げる。
「紙の裏側にしるしがあります、お嬢様のおしるしです」


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