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時の子どもたち/sample

「宜しい。そんならお前に任せて置く。あの男の霊を、その本源から引き放して、お前にそれが出来るなら、お前の道へ連れて降りて見い。だがな、いつかはお前恐れ入って、こう云うぞよ。『善い人間は、よしや暗黒な内の促しに動されていても始終正しい道を忘れてはいないものだ』と云うぞよ」
ゲーテ『ファウスト』(森鴎外訳)より

            1

「行き詰りますよ」
 当麻が振り分けられた書類に目を走らせていると、不意に通りがかった後輩が衝立の陰からひょっこりと首を伸ばして、自分の耳元でこんなことを言う。ついでここ、とそろばんの一番枠に近い下の部分を指で示す。彼の指先を辿って見てみると四つあるはずの一玉が一つ、足りない。
「本当だ。いくら計算しても、これでは無駄だな」
「気をつけてくださいね。統合した後に、計算し直すのは大変なんですから」
 相手の言葉に当麻が肯くと、後輩は彼の肩を叩いた。通路を挟んで反対側にある自分の持ち場に去っていく。そうして衝立に隠れて姿が見えなくなり、足音が次第に遠ざかって消えてしまうと、そろばんを弾く音だけ耳につくようになる。まるで炭火が爆ぜる音によく似ていた。そんな音を聞きながら当麻は少しのあいだ思案顔をする。立ち上がり、仕事場から出ていこうとする。
 当麻が身を置いている仕事場はちょっとした講堂ほどの広さを持っていて、空間がいくつもの白い衝立で細かく区切られている。きっと上から見ると田の字が沢山あるように見えるはずだ。その小さな部屋が、それぞれの職員に一つずつ割り当てられている。
 当麻は部屋同士のあいだにある通路を歩いてゆく。落ち着きのない忙しない心持で歩を進めると、白衣の裾が大きく膨らんで踊るように翻った。その薄い布地がはためく下端に視線を流せば、おのずと同僚たちを横目にする形になる。
 精密に面積が定めされた二畳半程度の衝立の中。同じような服を着て、同じように筆を走らせ、同じようにそろばんを弾き、同じように猫背になっている男たちがいる。まるで箱詰めにされた人形か何かみたいだ――。彼らが各々仕事に励む姿を眺めながら、当麻はそんなことを思う。そして、何だかとても切なくなった。
 なるべく音を立てないように慎重に出入り口の扉を開けて、当麻はそっと部屋から出る。ニスが塗りこめられた木造の廊下は照り光っていた。そしてとりとめのない夢のようにどこまでもまっすぐに伸びている。彼はそんな長い廊下を抜け、中庭に出た。
 今は八月の頭で庭中に張り巡らされた迷路じみた生垣や花壇には、白い花が実をつけて咲き誇っている。カスミソウや月下美人、そんな小ぶりの可愛い花々だ。それらを前にして当麻は屈みこんで、植物の根本やその影を覗き込む。始業前に、ここでそろばんを叩き落としたのだ。
 夏の厳しい陽射しを受けて、花壇に茂った瑞々しい葉が青々と照っていた。微風に吹かれて青葉や、淡く光を放つ花の首がちろちろと揺れる。なかなか情緒に溢れる風景だった。けれども当麻はそんなものには少しも目を向けることはせず、無くした一玉を追い求めてひたすら地面を這いずり回っている。
 白衣の裾が汚れて黒く染まろうが、磨かれた革靴が砂埃で曇ろうが気にも止めなかった。その姿はまかり間違って地下の奥深い所から、太陽の下へ出てきてしまった奇妙な生き物を思わせた。傍から見たらさぞ薄気味悪いことだろう、と当麻自身も思う。
 しかし醜態を晒しても、どうしても欠けた一玉を見つけ出さねばならなかった。そろばんは当局からの支給品、ひいては天皇陛下からの賜り物だ。それを破損させたとなれば、何と言われるか。軍隊にいたときのようにおおっぴらに制裁を受けることはないだろうが、おそらく始末書は避けられない。それだけはなるべく遠ざけておきたかった。
「いたっ!」
 うなじに何かが当たる。ちくっ、と針を突き立てられたみたいな感触だったがそれほどの痛みはない。辺りを見回してみると、自分から少し離れたところにある――花壇の陰に、何かが落ちているのがわかる。
 その何かは手のひらと同じくらいか、それよりも一回り小さいくらいの大きさで、周りにあるたくさんの花びらと同じくらいに白かった。当麻は目を細めてじっと眺め、物体の正体を掴もうとする。折り紙式の紙飛行機だ。
 当麻は身体を低くした姿勢のまま、前に進み折り紙を拾い上げた。手にしたものを、まじまじと見つめる。
 紙飛行機は中心線が正確になるよう極めて丁寧に折られていて、折り目は一ミリのズレもなく、ぴったりと合わさっており、左右の主翼は過不足のないシンメトリーになっていた。その対称性を、彼はとても美しいと思う。
 上から覗き込んだり、回転させてみたり透かしてみたりと、様々に角度を変えて当麻は機体を眺める。本当に見事な造形だったのだ。そうしているうちに当麻は初めてこの飛行機を作って、ここまで飛ばした人間がいることに思い至る。
 当麻は顔を上げ、天を仰ぎ周囲を見回す。
 彼の職場がある建物は、ロの字の形になっている。中庭は文字どおりにその真ん中の空間にあるので、おのずと幾つもの窓に取り囲まれている格好になる。
 当麻はゆっくりと四方を振り返って、窓々を確かめてゆく。すると、不意に二階にある部屋の窓辺に立っているのが彼の視界に入った。
 高さと距離があるために、その何者かの顔つきは遠目からはぼんやりとして判然としない。どうやら白いシャツを着ているらしいが、全体として何だか霧か霞みたいに見える。しかも当麻と目が合うと、相手はすぐにその場から離れてしまったから、それが具体的に誰だと見当をつける間もなかった。
「その飛行機、僕のだよ。返してくれる?」
 次の刹那、いきなり後ろから話しかけられる。ぎょっと心臓が飛び出しそうな心持ちのままに勢いよく振り返ると、すぐ傍に自分と同じ年くらいの青年が立っていた。
 白いシャツと乾パンみたいな色の洋袴を着た青年だった。背丈から自分と同じ年頃だと思われた。だが、さきほどの子どもっぽい言葉遣いのせいか、もしくは服の採寸があっていないのが原因だろうか。顔つきはどことなく幼く見える。だぶついて余った着物の両袖や両裾を折り曲げるのは、当麻が幼いころにもやっていた記憶があるから、直感的にそう思われたのかもしれない。
 あるいはお互いの体格差のためかもしれなかった。袖から覗く手首の細さや、ベルトの絞り具合で相手が肉つきの薄い、お世辞にも頑丈そうとは言い難い、腺病質な体つきをしているのが服の上からでも見て取れた。それに加えて寒気を覚えるほどの象牙色の肌が、なおさらひょろっとした印象に拍車をかけている。
 青年は当麻の隣に来てしゃがみ込むと、彼の手元から紙をすっと引き抜いてしまう。それは強制力や嫌味が感じられない、自然で滑らかな動作だった。まるで月が満ち欠けするのと同じように、自分はそうするのが当たり前だというみたいに。
「あなた。さっきから何か、探してるでしょう」
 ずっと見てたよ、と紙を折り直しながら青年は口にする。当麻は訊ねる。見てた? どこから? すると彼はあそこ、と言って指をさす。つい先程まで当麻が眺めていた二階の窓を――。
 指し示す方へ視線が辿り着いた、その瞬間に当麻は得体のしれない動きをする芋虫でも見たみたいに割り切れない、据わりの悪い心持になる。心臓がしんと冷たくなって、鳥肌が立つようなそんな心地に。しかし相手の胸中などには全くかまわずに、青年は続けて言う。
「見つけてあげようか? お礼だよ、飛行機を拾ってくれた」
「ご厚意は有り難いが、遠慮しておこう。他人の手はあまり借りたくない性分なんだ」
 そう当麻は答える。ただ申し出を断るだけなのに、非常に強力な抵抗と疲労を感じていた。たとえるならば、それは流れの速い川の中を歩いたときによく似た感覚だった。早く対岸につきたいのに、なかなかたどり着けないという手合いの。
 何もかもが早く終わってしまえばいい、と彼は考える。俺には手助けなんてちっとも欲しくないし、ここには手を差し伸べるに値する者はいない。だからとっとと元いた場所に帰ってはくれないか。
「でも親切にされたらちゃんとお礼を言え、そしてそれで嬉しく思ったのなら同じことを誰かにしなさいって先生が言っていた」
 その言葉に当麻は奥歯を噛み締める。
「君はその先生に言われたから、俺を助けるっていうのか」
「うん。そうだ」
「なら、なおさら君の助けなどいらない。俺一人だけで十分だ」
 言いながら当麻はにわかに立ち上がり、相手に視線を向ける。するとおのずとこちらを上目で見遣っている青年を眼下にする格好になる。彼の瞳は黒に近い青色をしていた。
「初めて顔を合わせた人間にこんな言うのは無礼千万だがな、俺は他人から突っつかれて身の振る舞いを決めるような奴が一番嫌いなんだ。そういう連中は誰一人として、自分のしていることの責任を取ろうとしない。そして思いもよらないことが起こったときには、そいつらはきまって自分以外の何者かのせいにする。本当のことは知らなかった、騙されただけだと言って。そういうのには俺に――」
「一体、誰に向かって物を言っているんだ?」
 なおも続けようとすると、青年がぴしゃりと遮ってしまう。小数点以下の端数を切り捨てるみたいに機械的に、無慈悲に。そしてその語調は先程までのような子どもっぽいものではなく、威光と威厳に満ちていた。
 それは完膚なきまで相手を打ち負かすような、圧倒的で絶対的な力――。そして同時に、世の中の男という男の全てにすべからく求められているような力でもあった。
 純度の高い、と青年の顔を目の前にして当麻は思う。体躯こそ当麻の方が勝っていたが、このような精神的な面においては、この青年の方が遥かに純然たる『男』だった。
 青年はこちらから視線を逸らさずに、下の方からじっと見つめている。それは月が写るくらいに磨き抜かれた刃物を思い起こさせるように一定の攻撃性を孕んだ、強迫的な眼差しだった。その視線は繰り出された言葉と相まって、見入られている当麻をひどく息苦しくさた。けれども、彼はどうしても答えなければならないことがある。
「あらゆるものにだ。君にも、誰にも。そして自分にも」
 頑として当麻は口にする。
「じゃあ、あなたは嫌いな人やものでいっぱいなんだな。世の中にあるたくさんのものが憎たらしいから、とても苦しそうに見えるんだ」
「君には僕がそんな風に見えるのか」
「見えるよ。でも、あなたが本当にそう感じているのかは僕にはわからない」
「君が真実だと思うなら、そうなんだろう。だが、それは所詮君の目に映った物事でしかない。君ごときに僕のことをわかってもらうつもりはないが、勝手に邪推されたり同情されたりするのは不愉快だ」
 青年はにわかに立ち上がる。しかしそれはかつて当麻がしたような勢いに任せた性急な動作ではなく、余裕を感じさせるゆったりとしたものだった。そうして二人は向かい合うと、再び目を合わせる。
「あなたみたいな言い方をする人を知ってる。そしてあなたが言ったことはその人が昔、僕に話してくれたこととちょっと似ているよ。僕はその人が嫌いじゃなかった」
「それで?」
「これは僕の勝手な気持ちだから、勝手なことをする」
 手を出して――。青年はそう言って己の左の手のひらを、当麻の眼前に差し出した。当麻は戸惑う。だが結局相手の言う通りにして、右手を彼の手のひらの下に差し伸べる。するとその上で、青年はぐっと拳を作った。
 握りしめている手の甲に青い血管が浮き上がって、象牙色の肌の上に網のように走っている。そんな腕が細かに震え、ぐっと力が加わった関節や種子骨がことさら白くなった。
 そのままの状態で幾らかの時間が過ぎた。十秒か、百秒か。あるいは一秒にも満たないようにも感じられた。いずれにしても当麻はそのあいだ、ずっと相手の様子を窺っていた。そしてある刹那、青年はふっと拳を緩めて手を開く。
 同時に当麻の手の上に何かが落ちてくる。人差し指の先くらいに小さくて、黒い何か。その正体を理解した途端、彼の体を冷たいものが走った感覚がした。――そろばんの玉だ。
「僕が勝手にしたことだからね」
 声が耳に入る。我に返って顔を上げると、目の前にはもはや青年の姿はなく、ただ当麻だけが四方に囲まれた庭に取り残されている。あたりには白くて、可愛い花の首が音もなく揺らいでいた。

      *

 持ち場に戻ると当麻はそろばんを組み立て直し、再び仕事に臨んだ。席を外しているあいだに仕事を溜め込んでしまったため、用足しを除いて休憩する時間は無くなって昼食も抜きになってしまった。おかげで残業はせずに済んだけれども、退勤するころにはすっかり気息奄々という有様になっている。その様子を見かねたのか、それとも面白がっているのか篠原が酒を一杯、と誘いをかけてきた。当麻もとくにこれといった予定も異論もなかったので、その提案に乗った。
 彼らは職場のある建物を出て、電車の通過音や行き交う人の声を耳にしながら坂道を下りてゆく。当麻と篠原の職場は偕行社の近く――遊就館のすぐ裏手にあるので、仕事に行くには九段坂を上らなければならないのだ。
 坂の上は御一新以前には武家屋敷が軒を連ねていたところで、その名残を昭和になっても引き継いるために、どこか官僚的で堅苦しい雰囲気が残っている。だけれど、一度下の町に戻ってしまえばもう平民である二人の領域だ。その境目に彼らの行きつけの即席料理屋がある。
 料理屋は猫の額ほどの小さな店で、横町の奥まったところにあった。価格や立地のために富士見町に立ち並ぶ店のような華やかさはないが、そこのところを当麻はかえって気に入っている。
 時刻は六時を少し回ったところだったため、店内にはまだ、さほど客は入っておらず閑散としていた。当麻と篠原は席取りにおいて、早い者勝ちの勝者となった。彼らは奥まったところにある、二人掛けの席を選んで向かい合って座る。
 そうしてお通しや注文した品に箸をつきながらビールで流し込んで、そうしてようやく空腹が落ち着いたころのことだ。何となく例の青年が二人の話題に上った。
「大人なら、ちゃんとお礼は言わなきゃ駄目でしょう」
 中庭での出来事を話すと、篠原は開口一番にそんなことを言う。対して当麻はそうだよなあ、と肯きながら手にした麦酒を一気にあおる。そうして空のグラスを見ると、何だか変な気分になった。篠原に言われるまで、こんな至極当たり前のことに今の今まで思い至らなかったからだ。
「また会えるたら良いのだけどな」
「それはどうでしょうね」
「ここは嘘でも、そうですねって言いたまえよ」
「だって彼のどの部署にいるのか、知りようがないでしょう」
 当麻が把握している限り、あの建物の中には少なくとも三つのセクションがある。まず自分がいる何かを計算をする部署、篠原後輩が属する各所で計算されたものを統合し整理する部署、さらにそこでまとめられたものが収められる部署だ。
 他にももっと様々なセクションがあるのだろうが、当麻はこれら以外にどれくらいの数の、どのような部署が存在しているのか彼は知らない。各セクションで取り扱われる任務内容の機密性が、それぞれ異なっているせいだ。そこには当麻が職務上把握してしかるべき情報が多く含まれていたが、同時にそうでない(とされる)ものも膨大に存在しているのだ。
 また職員には自らの能力と与えられた業務に応じて、上から順に『伊・呂・波』の三つのうちいずれかの階級が設定される。階級が上がるに従って仕事の難しさや機密性の高さ、情報の取り扱いの重大性も異なってくる。当麻と篠原はこの中で一番下層であり、同時に身軽である『波』の階級に属していた。
 基本的に他の階級の職員とは関わり合いにならない。別に表立って交流が禁止されているというわけではなく、訓示やマニュアルで示されてわけでもない。でもいわゆる暗黙の了解やらで、何となくそうなっている。それは当麻たちにとって水が上から下へ流れるように、胸中がどうであれ受け入れる外ないくらいに当然で自然なことだった。
 だからそれぞれのセクションがどのような繋がりがあり、最終的にはどんな絵が描かれるのか。また自分のしている仕事にどういう目的があって、全体の中でどんな役割を果たしているのかは彼にはわからないし、あえて理解しようとするつもりもなかった。それは当麻の知るべきことではなく、このような状態でも自らの仕事に支障が出たことは一度もなかったからだ。
「まあ過ぎてしまったことはいくら言っても仕方ないですよ。同じ建物にいるんだから、またばったり会えるのを待てばいいんじゃないですか。罪を背負ったぐらいのつもりで」
「その比喩は、何だか重たすぎないか」
「妥当だと思いますけどね」
 それとも自分の罪がそんなに小さいとでも思ってるんですか。言いながら篠原はビール瓶を手にして、注ぎ口を当麻のグラスに傾ける。しかし一滴も出てこない。
「目には目、歯には歯という言葉があるだろう。物事には相応に釣り合う重さというものがあるんだ。たとえ罪とか、罰でも」
「じゃあ、金を借りたみたいな気持ちということで。――すみません、ビールをもう一本! あと、揚げ出し豆腐も!」
 篠原が声を張ればはあい、と離れたところから給仕が応える。その声を当麻は氷ついたように、じっと身じろぎもせずに聞いている。そうして空のグラスを握り占めたまま、今日起こった出来事について考えていた。
 あの青年に返礼をしなかったことを篠原は罪だという。もちろん助けてもらったのなら、礼を言うのは当たり前だと当麻自身にもわかっていた。けれども頭のどこかに割り切れない気持ちもある。あのとき自分に何ができたというのだろう。彼はあんなにすぐにいなくなってしまったのに。
 また当麻は探し物を受け渡されたときの、青年がした手品のような仕草を思い出す。あれが見つけ出された仕組みが、彼にはどうしてもわからない。そのことも気にかかっている物事の一つだった。どうして彼がそろばんの玉を持っていたのか。自分が中庭に来る、ずっと前にあらかじめ拾っておいたのかもしれないとも考えた。
 だがその考えは、あまり上手くない気もする。具体的にどこがとは表現が出来ないけれども、何となくそう感じていた。そしてその混乱した感情は、なおさら据わりの悪い心地にさせた。
 一方で、いささかことを難しく捉え過ぎているのかもしれないとも彼は考える。もっとシンプルに与えられたことを、そのまま受け止めればいいのではないかという気もする。困っていたところを助けられたから、感謝の念をしめす。ただそれだけのことなのに、どうして難しいなのだろう。
 ふとグラスを握っている手のひらに刺すような冷たい感触が走った。気がつくと、篠原が自分の麦酒を注いでいる。ついでに目の前にはさらに乗った、揚げ出し豆腐が湯気を立てていた。大根と大葉のすっとする香りと、醤油の香ばしい匂いが一緒に立ち上って鼻をくすぐった。
 おもむろに篠原はこう口にする。
「ここまではまあ軽口でしたけど、でももう一度お互いに話した方が良いと思うのは絶対に善いというのは本当です。礼を言われて、悪く思わない人はいないですよ。知らないけど」
 さきほど彼が言ったように、再び青年と対面できる可能性はないわけではない。それがいつのことなのかはわからないが。けれどもまた顔を合わせるまでに、青年に対しての態度を決める必要があるのは知っていた。そして同時に本当に求められてしかるべきことであるのならば、当麻はどうしてもあの青年を自分で探し出さねばならないというのも理解していた。
 でなければ正義とか清廉とか、そのような言葉の全てが当麻にとっては嘘になってしまう。それは彼が避けるべき、最も嫌悪する事態だった。
 なので、当麻はおのずとこんなことを言う気分になる。心にはかけてみよう――。それがいいですよ、と向かい側にいる篠原は答えた。その静かな声を聞きながら、彼は注がれた酒をあおった。手の内の熱が伝わって、ややぬるくなった麦酒はますます苦みを増しており、どこか鉄を思わせるような味がした。

      *

 そのときは当麻が考えていたよりも、早くにやってくる。篠原と即席料理屋で呑んだ日から数日が経ったころのことだ。
 青年との邂逅の日以降、彼は勤務前や昼食後の休憩などの空いた時間に、つとめて施設内を歩き回るようにしていた。組織の内部において下層階級に位置している当麻が、立ち入ることの出来る範囲は極々小規模に限られている。そうして建物の中をあちらへこちらへとさまよっていると、自分に許された行動範囲がどれほど狭小なものなのかが、改めて身に染みて感じられた。その偏狭さや息苦しさに対して、もはやある種の感嘆すら覚えるほどに。そして何より驚いたのはそれらがこの組織にある多くの決まりごとと同じく、一切の信憑性や根拠に由来していないことだった。
 それはともかくとして。青年との再会までの数日のあいだ当麻は中庭の迷路じみた生垣や花壇の中をくるくる歩き回ったり、同じ通路の端から端を繰り返し行ったり来たりして、彼と相対するときを待ち続けていた。そうしてその日はとうとう訪れる。
 それは当麻がかの青年と最初に会った日から七日経った水曜日の午後のことだ。そのとき彼は弁当後の昼休み中で、建物内の階段を三階から一階、一階から三階まで降りたり昇ったりしていた。
 一階の東廊下の隅――行き止まりにある階段は、光源から死角になるところにある。また踊り場にも窓がないために薄暗く、行き場のない空気がこもってどこか陰湿な印象を与えた。そんなところに当麻は独りきりでいた。
 薄闇の中。階段の上に座り込んで、当麻はぼんやりと物思いに耽っている。例の青年のみならず、篠原後輩や仕事のこと、数式や微分積分のこと、そして遠く離れた故郷こと。あるいは仕送りの日や下宿代の支払い日のことなど、雑多な考えが泡のように次から次へと頭に浮かんでは消えていく。
 ひたすら内に向かってうつうつとしていると、不意にうなじにぴりっと痒みのような感覚が走った。ついで汚い手で髪の毛をかき乱されるような不快感が湧き起こる。……明らかに、誰かに見られていた。
 敵意に任せて勢いよく振り返ると、上に続く階段の手すり壁から何者かが身を乗り出して、こちらを覗き込んでいるのが目に入る。
 はじめは相手がこちらに降りて来るのかと思われたが、一歩も踏み出すことはせずに、その場で立ち尽くして当麻の方を眼差している。階上は当麻がいるところよりもさらに暗いし、遠目なのでそれが誰なのかがすぐにはわからない。けれども闇に目が慣れてくるに従って、次第に相手の容貌が判然としてくる。その正体が明らかになったとき、当麻は思わず、うわっと小さく声を上げてしまう。あの青年だ。
「僕をずっと呼んでたしょう。会いたいって」
 出し抜けのことに当麻が面を喰らっていると、青年が頭上から事も無げにそう口にしてくる。けれども当麻には相手の言葉を上手く受け止めることが出来ない。彼にとっては彼の言葉は知らない国の言語ように聞こえたからだ。だから、だた狼狽するばかりだった。――呼んでいた? 俺が、君を?
「わかるよ。あなたの声が聞こえていたから」
「確かに、俺は君に会いたかった。しかし、それを言葉にして表した覚えはない。特に、君に対しては」
「でも、僕にはあなたが呼び掛けているのがわかった。だからこの場所に来たんだ」
 青年が口にしていることは当麻を納得させるどころか、さらに戸惑わせた。状況を受容するべきなのだというのは頭では理解している。けれどもその事実を自分の中に迎え入れるのには強い違和感がある。それは決定的で見逃しがたい不調和だった。
「あなたは僕に会いたくて、僕はそんなあなたに会いに来た。それが物事の全てだし、それでいいじゃないか。一体、何の問題があるというの?」
 先程とは打って変わって青年の声色が剣を含んで、とげとげしいものに変わる。同時に青い火が走って、髪の毛の先が逆立ったように見えた。どうやら青年は苛立ち始めたらしかった。もしかすると自分の考えや感情が、露骨に顔に出ていたのかもしれない。もしそうならば申し訳ない、と当麻は思う。もしも彼の言う通りなら、こちらから呼び出しておいて、すげなくするのは礼儀に反している。
「突っかかるような言い方をして悪かった。俺に会いに、君はわざわざ出てきてくれたんだよな。それを手の平を返すみたいなことをして、すまなかった。本当に、ごめんなさい」
「僕に何かして欲しいの? 許して欲しい?」
「それは俺が決めることではない」当麻は言う。
「君が許すにしろ、許さないにしろ俺はその結論を甘んじて受け入れる。悪いことをして謝るというのは、そういうことだと俺は思う」
「……なら、いいよ。もう」
 落ち着いた声音になっている。逆さまになった髪がふっと、元に戻った気がした。彼は続けてこう口にする。――僕は心が広いから許してあげる、と。ありがとう、と当麻は応える。
「ずっと、君にお礼を言いたくて探していたんだ。あのとき君が手を貸してくれて、とても助かった。本当にそう思っている。だから……」
「そんなに大事なものだったのに、ゴミみたいに扱ったのか?」
 その瞬間当麻は息を呑み、声を詰まらせる。胸の中を溶けた鉛が流れ込んでいくような、重苦しい感じがした。すぐにでも違うとか、そうじゃないとか言いたいのに唇が痺れたみたいに動かない。
「別に怒っているわけじゃないよ。ただあなたが自分の持っているものを投げ捨てたとき、何だかとても苦しんで――まるで世界中のありとあらゆる怪我や病気を背負い込んでいるように思えた。だからあなたの頭を抱えている姿を僕は遠くからずっと見ていて、とても気になったんだ」
「気になった?」
「気になった。とっても」
 今でもそうだと、青年は言う。しかしいきなりそんな言葉を掛けられても、当麻はどうしたらいいのかわからない。こめかみや額の筋肉がこわばって、眉間に皺が寄っているのが自分でもわかる。不可解さとか羞恥心とか、そのような感情がない交ぜになって胸の中で渦を巻いている感じがした。そうして当麻が乱雑とした心持ちに感じ入っているうちに、ふと気づいたことがある。
 君、名前は? 当麻はにわかにそう訊ねる。すると、青年はこう答える。史郎、葉崎史郎――。
「あなたは誰?」

            2

 当麻春生は二十世紀が始まる前の年に埼玉県にある、小作人の家に生まれた。両親ともに少なくとも三代は続いている由緒正しい水呑百姓の家柄で、地主から田畑二反を貸してもらって米を作っていた。
 稲作農家という気候に左右される商いである上に、高額な小作料や、毎月の炭とか薪木とかのツケの支払いなどのせいで、一家の暮らし向きは到底良いとはいえなかった。けれども父親が博打はせず、酒も人付き合いもほどほどに済ませる性質だったから、他の家々と比べて群を抜いて悪いということはならずに済んでいた。――……というよりも一部の例外を除けば村民はみな平等に金がなかったので、村内のだいたいが同じような経済状況なのだった。
 だからこの村に生まれた子どもたちは両足が立ち、口が利けるようなって、物心がつくとすぐに畑や家の中で仕事をしなければならなかった。地主の家の子などごくごく少数を除けば、村のどの子どもも学校にいるとき以外は(あるいは学校には行かないで)、大人に混じってずっと何かしら働いていた。学校にいる時間を除けば日の出ないうちから、日が沈んで真っ暗になるまで。当麻の二人の兄や姉も、三人の弟や妹たち、そして彼の幼馴染たちも同じような生活をしていた。
 そんな生活の中では学校で授業を受けているときや、宿題をしている時間が当麻は一等好きだった。出題された問題を上手く解けたときに、自分が自分自身のためだけにそこにいるような気がしたからだ。
 中でも特に算数が彼のお気に入りだった。問題文に従って式を作ったり、計算をしたりしているときが一番心地良かったのだ。だからひたすら問題を解いていた。そうしているうちに級友たちの中でも抜群の成績になり、とうとう進学について訓導や校長のお墨付きを戴けるくらいにまでになった。
 しかしいくら当麻の頭の出来が良くとも、そのことで彼の父や母はあまり良い顔をしなかった。二人は己の仕事には勤勉だったけれど、そのほかのことには頓着をしない人たちだったのだ。労働の成果が自分たちの生死に直結しているのだから、この冷淡な態度はある意味では致し方がなかったのかもしれない。けれども合点のいかなそうに首をかしげて、不可解な目で自分を見る度に、当麻は得体のしれない感情を覚えた。
 だが、それよりも問題だったのは三番目の兄だった。どうも弟の評価が上がるごとに、兄である自分の体面や存在意義が脅かされていると考えていたようだった。その卑屈さと年上の見栄や傷ついた自尊心が混じり合い、当麻に対する嫌悪感たるや両親を遥かに上回ることになった。
 だから彼は弟を何かと目の敵にし、当麻の方も兄弟の中ではこの男をひときわ軽蔑していた。それは天動説支持者と地動説支持者のように決定的で致命的な断絶だった。そして緊張関係はある日を境に最高潮に達することになる。
 その日は晴れているんだかそうでないんだかはっきりとしない、ぐずぐずの天気で、朝から雨が降ったりやんだりを繰り返していたのを今でも彼は覚えている。(どうしてそんなことをしていたのかはわからないが)このときの当麻は学校からの帰り道――あぜ道を、教科書の頁を広げながら歩いていた。その途中、兄が茂みから路傍にいきなり飛び出してきて行く手に立ち塞がった。
 あんまりにも急なことだったので当麻は状況を上手く呑み込めないでいると、兄は素早く彼の手の中にあった本を取り上げてしまう。そうして野球投手のように、教科書を空高く放り投げた。
 兄の手から離れた教科書が空中で弧を描いて、水溜まりの中に落ちていく。その様を(あまりに突然に起こった、あまりの出来事に)当麻は言葉もなく眺めていた。
「恥知らずが、身内の面の皮を剥いで被りよるわ!」
 水浸しになった教科書を踏みつけながら、兄はそんな台詞を吐き捨てる。そうして満足すると、早足でその場から立ち去った。当麻は泥水が染み込んでゆく教科書の頁を目の当たりにしながら、その背中をただ見送ることしかできなかった。
 汚れた教科書はちゃんと乾かしたはずなのに、一晩経っても依然として泥っぽい臭いが残っていた。それが兄の執念がまとわりつくようで、度に背筋が凍りつくようなぞっとする心持ちがした。それと同時に、自分はどうしても勉学で身を立てなければならないと決意した。
 村の子どもは小学校を下がると、大抵はそれ以上の勉強はしない。あとはひたすら家の田畑を耕したり、あるいは丁稚奉公に出されたりしてしまう。そこに個人の意志は反映されることはないし、誰もこんなことがおかしいなんて思わない。当麻の兄たちや両親、祖父母やそのまたおじいさんおばあさんも、ずっとそんな風に暮らしてきたのだから。そして兄の言動も、きっとその習慣に由来しているのを当麻は肌に感じ取っていた。
 だから自分はたくさん勉強して、良い学校に行って、都会で職を得るのだ。そうしてこんな卑屈さと嫉妬心に満ちた場所を抜け出して、両親や兄よりも愉快に暮らすのだ。そう当麻は幼心に決めた。幸いなことに目的を遂げるに足る能力が自分に備わっているのを、彼は知っていたからだ。
 そんな努力の甲斐あってか、当麻の優秀さは地元の素封家(当麻家が土地を借りている地主でもある)の目に留まり、彼の援助を受けて当麻は東京の中学へ行くことが出来た。ついで商業学校を経たのちに兵役につき、そのときの上官の誘いで今の職場に籍を置くことになった――。
 差し障りのない範囲で『当麻春生』という男の経歴を紹介するのなら、こういう次第になる。しかし彼という人間を手短に語るためにはあまりにも冗長になってしまう。だから今、当麻が出来るのは自分の名前と、その漢字を告げるのがせいぜいだった。
「当麻春生」
 手帖に万年筆でそう書いたのを、葉崎が謡うような調子で読み上げる。その声音がちょっとばかり楽し気に聞こえて、名前を呼ばれている本人はむず痒いような、くすぐったいような変な心持ちになった。きっと綺麗な名前だと褒めてくれたのもあるせいだろう。
 いささかのあいだ相手は他人の名前を呼びあげて、楽しそうにはしゃいでいた。けれどもある瞬間これは何だ、と声色を変えて指先で紙面を叩く。差し出された手帳を一緒に覗き込むと、前の頁に書いてあるものが薄っすらと透けて見えるのが当麻の目に入った。文章は流れるような筆記体の英文で記されている上に鏡文字になっている。そのままでは難しいが、頁をめくるとちゃんと読めるようになる。
『Veritas Temporis filia dicitur, non Authoritatis.(真理は時の娘であって、権力の娘ではない)』
「英語の文法とは違うね。独逸、いや仏蘭西語か? なんて書いてある? どういう意味だ?」
 自分の好きな言葉だと答えると、葉崎がやけに食いついてくる。その様子に当麻は目を見開いて、ひどく驚いた。まるで飢えた人が水や食べ物を求めているのを連想させるような感じがあったからだ。
「ある哲学者がラテン語で書いた言葉だ。内容としては二通りの解釈ができて第一にはどんなに隠し立てしようとしても、本当のことはいずれわかってしまうという意味だ」
 どこかおたおたした気持ちのまま、当麻は相手の問いかけに答える。
「もうひとつは?」
「第二には真理とは不変で普遍的なことだから、今を時めく権力者が自分たちの都合の良いように利用することは出来ないし、するべきではないという風も解釈できる。俺はこっちの方が好きだ」
 そう言い締めると、あたりはにわかに静かになる。それは綿雪が天から地上へ落ちていくように、また溶けた氷水が土の中を染み込んでいくみたいに胸の中にじんわりと入り込んでゆくような沈黙だった。
 当麻は黙り込んだまま、手帖に書いてある文字に目を落とす。この文章は中学にいた頃に、英語の教師に書いてもらったものだった。
 彼がいた学校では卒業する生徒に手帖が送る決まりになっていた。その最後のページに各生徒に相応しいと思う言葉を担任が選んで贈るという習わしがあり、このとき当麻に捧げられたのがこの文言だったのだ。
「どうか、あなたには誰かの役に立つことをしてほしいのです」
 当麻にこの言葉を贈ったのは数学の教師で、手帖を渡されたときにそう言われたのを彼は確かに覚えている。
「人の役に立つというのは電気のない場所に電気を通したり、経済のないところに経済をもたらしたりすることだけではありません。もちろんこれらも重要な仕事に他なりませんが、私はあなたにもっと細かく、小さなことに目を向けて欲しいと思います」
 しばらくのあいだ当麻は紙面に書かれた文字をじっと見つめていた。そうして文字列を指先でそっと撫でる。当然のことながらインキはとっくの昔に完全に乾いているので、どんなに擦っても肌に付着することはない。何てことのない事実だったけれど、今はそれがとても心苦しくまた悲しかった。
 彼はその教師のことをとても尊敬していたので、彼の言った通りになろうと思った。けれども今では自分がこの言葉から、もはや遠いところに来てしまったかもしれないという心持ちが存在する。その気持ちが手帖の文字を目に入れる度に彼を苦しめた。
 内側に沈み込んでいると不意に、葉崎史郎がこんなことを口にするのが当麻の耳に入ってくる。あなたのことが好きになれそうだ、と。

       *

 それから二人は何とはなしに、度々会うようになる。場所は中庭のとか階段とか人目のつかない物陰で、昼休憩のあいだの短い時間だけ顔を合わせた。どちらとも葉崎の要望で都合によった。葉崎は基本的に誰かに自分の顔や姿が見られるのが好きではないらしく、(出会った経緯から考えると不思議なことだけれど)当麻以外の人間とかち合うのをひどく嫌がった。
 また当麻に仕事があるのと同じように、彼にも何か重要な用事を抱えているようだった。それがどのようなことなのかを当麻は知らない。幾度か話題を振っても相手は固く唇を結んで話そうとはしなかったので、彼もこれ以上訊ねないことに決めた。でもそれは例外的なことで、たいていの事柄は口の端に上った。
 時間を経るに従って彼らは親しみを深め、お互いのことについて色々なことを知っていった。例えば詩人はどいつが良いだとか、音楽は何が好きだとか。なんとかの花の匂いが嫌だとか、誰それという作家の戯曲は面白くないとかそういうことを。
 そのような話をしているとき、二人にはときどき笑みが起こることがある。冬の午前中にふと垣間見られる春の雪みたいな、あるいは薄氷のような彼の静かな微笑みが当麻は好きだった。そういう瞬間が彼には嬉しく、そして楽しかった。しかし、それが気に入らないらしい人間が一人いる。
「僕の先輩が取られた」
 葉崎と別れた後。午後の仕事をこなして、もう退勤する準備に入ったというころ。パーテンションの陰からひょっこりと顔を出した篠原が、さも恨みがましそうな口ぶりでそんなことを言う。その調子があまりにも芝居がかっているので、当麻は思わず苦笑いしてしまう。
「俺はお前の何なんだ」
「それはね、あなたの後輩ですよ」
 しかし所詮、僕は二番目の男。いかにも神妙そうに篠原が呟く。もちろんそれが冗談であるというのは当麻にはわかっている。ただ、最近はそんなに顔を突き合わせることがなかったのも事実だった。もちろんそこに他意はなく、それぞれの仕事量やその時々のお互いの忙しさなど、様々な巡り合わせの中でそうなってしまっただけなのだが。
 もっともそれは当麻だけの事情で、篠原にとってはまた違う見方があるのかもしれない。そこに思い至ったとき、彼は篠原に対して若干の申し訳なさと非常に強い憐れみを感じた。
 青い色から、赤銅色に移ろった空や雲の下。熱を帯びた風が緩やかに流れる中。人の行き交う夕方の坂道を、当麻は長く延びた影を引きずりながら歩いている。その少し後ろに篠原はついてくる。仕事場を出てから絶え間なくずっと色んなことを話し続けているが、とくにうるさくも邪魔にも思わないので当麻はそのままにしておいた。
 町に向かう道を下へ下へと進みながら、当麻は相手が繰り出してくる言葉にひたすらに耳を傾けた。葉崎との投げては返してくるキャッチボールのような交流とは違い、篠原との会話は話題の回転と勢いが早いので、こちらから話をするよりも相槌を打っていることの方が多い。けれども辟易してしまうということはない。彼の話は聴いていて面白いし、葉崎といるときとは別の楽しさが確かにある。
 このあと、お互いにどこへ行くとは言わなかった。例の料理屋へ誘おうかとも考えたけれど、それで手打ちにしてくれといっているようであまり気が進まなかった。何だか彼を馬鹿にしているようだったし、相手の自尊心を傷つけるのが当麻には怖かった。
 ずっと喋り通しだった篠原が、不意に凍りついたように黙り込む。最初は顎が疲れたのかと当麻は思ったのだけれど、それにしては話が中途半端なところで区切られていて何だか不自然な感じがした。
 どうした、と声を掛けても何の答えも返ってはこない。少しばかり待ってみたけれど一向に返事がなかった。振り返ってみると当麻から少しだけ離れたところで、篠原は足を止めてあたりを見回している。そのじみた目つきが何だか針のように鋭くて、当麻は首筋が冷たくなるような心持がした。こんな彼は今までで見たことがなかったのだ。
 それでも、彼らはしばらくのあいだ一緒に歩き続けていた。次第に篠原の歩調が緩やかになり、靴音が遠く離れて小さくなっていく。そうしてやがて完全に足を止めてしまう。これは、いよいよ雲行きが怪しくなってきた。
 おい――。言いながら踵を返し、当麻は篠原の方に歩み寄る。それからもうひとつ、何かを言い加えようと口を開いたその瞬間。篠原は素早く腕を伸ばし彼の肩を掻き抱くと、己の方へ思い切り引き寄せた。
「静かに」
 まず芯のある柔らかい感触がして、ついで軽い圧迫感を覚える。そうして間もなく、自分の唇に相手の手のひらが触れているのが当麻にはわかる。口元に触れている皮膚がほんのりと冷たくて、初夏の気温の中では心地よさを感じた。それが当麻の口元が隠れてしまうくらいに大きいので、そういえばこいつも同じ男だったんだなと愚にもつかないことを考えてしまう。
 篠原は当麻を肩に抱いたまま、なかなか自由にしてくれなかった。鼻は覆われていないので息苦しくはなかったけれど、ずっとひっついているから、いい加減に暑苦しくなってきた。けれども当麻は抵抗しないで篠原のなすがままにされ、じっと彼の横顔を眺めている。
 顔かたちの輪郭が夕焼けの光線によって赤く浮き上がり、また深く翳を作っていた。その闇の中で彼の左片方の瞳が、仄かな光を帯びてぼうっと黄色に浮き上がっている。
 それは猫目石を思い起こさせるような複雑で、そうして見事な色合いだった。そのような眼を見つめていると、瞬く間に抗う気が失せてしまう。ちょっと関心が惹かれるくらいに、奇麗な光だったのだ。見惚れている一方で人間の両眼がこんな風に光っているのが、当麻にはいまだに信じられないでいる。
 それから、どれくらいの時間が経ったのか。当麻はあるとき、自分たちの周りがやけに森閑としているのに気がついた。改めて見回してみるとひしめいていたはずの、人並みがものの見事に消え失せている。いつもなら盛んに鳴り響く電車の警笛や通過音も全く聞こえてはこなかった。この坂道には正真正銘二人以外には誰もおらず、まるで疫病の流行で荒廃した街みたいに辺りは寂しい風景になっていた。
 背後から生温い風がそよいできて、優しく二人の頬を撫でた。同時に激しい寒気が当麻の背筋を走る。それはいくつもの手が体を撫で回しているみたいな気持ち悪い冷たさで、また今にも駆け出し手逃れたいという心持にさせる冷ややかさでもあった。けれども篠原に拘束されているために、当麻はどうにもできない。だから、ここはひたすら耐えるしかない。
 そのまま後輩の腕の中でじっとしていると、ふと遠くの方で何か音がしているが耳に入ってくる。
 初めは獣の唸り声ではないかと思えた。傷を負い、地を這う冷気のように重苦しい声音で、警戒をしている類の。しかしよく聞くと絶対にそうしようがないところで音程が狂っていたり、変に調子外れな部分があったりと何だか様子がおかしい。
 そして唐突に全てが理解できる瞬間が訪れる。これは人間の声だ。それも複数の声が折り重なっているらしい、たくさんの人の声だ。しかし人数がやたらいる上に独り言みたいに声量が小さく、また声自体が口の中にこもっているために、詳しい内容はなかなか聞き取ることが出来ない。
 じっと神経を研ぎ澄まして、ひたすら耳を傾けていると相手が同じ言葉を繰り返し、繰り返し唱えているのが次第にわかってくる。それは鬱々としていて、何だかひどく不愉快な印象を与える調子だった。割れた酒瓶を持ちながら、道端に立っている酔っぱらいの独り言みたいに。
 当麻は横目で周囲を見まわす。ここは障害物のない、見晴らしのいいところだ。すれ違う人だって、さっきまでたくさんいた。しかし、あってしかるはずの人影は見えない。坂道には自分たち、二人しかいなかった。けれども大勢の声だけが響いている。
 その渦中で篠原がますます強く、当麻の肩を抱きしめた。まるで、お気に入りの本や毛布を離さない子どもを連想させるような力強さで。そうして唇を当麻の耳元に近づけると、こう口にする。
「僕が頃合いを見て合図します。そしたら全力で、これ以上ないくらいに精一杯走ってください。でも、けして振り返らないで。出来ますね?」
 お前はどうするのか、とは訊けなかった。口元を手で塞がれているのもあったけれども、篠原の言葉や調子には反論や異論を挟ませない力が存在したからだ。あの青年、葉崎史郎と同じように。
 当麻と篠原を取り囲んであたりに響き渡る声は、どんどん声量を増していく。得体のしれない連中は、確実に彼らに近づきつつあった。まだ二人は動かない。そのうち、彼らの発している言葉がはっきりと聞き取るくらいまでになる。わたし、ワタシ、私、わたし――。
 それは短調かつ平坦で、どのような思惑が孕んでいるのか窺い知れない声音だった。当麻には呪いのようにも聞こえる。その中で一人だけ、際立って彼の耳に届いた声がある。
「行け!」
 叫ぶと同時に篠原は当麻を解き放ち、彼の背中を押す。刹那、当麻は走り出す。そのことは一概に彼自身の選択や意志の結果であるとは言い難かった。だが、もう足を止めることが出来ない。
 下り坂ということで勢いづいていたのももちろんだけれども、一番に当麻を力づけたのは自分に呼び掛ける声が聞こえていることだった。それはどこかで聞いたことのある、懐かしい声だった。
 走れ――! その声に押されて、当麻は夕焼けの赤銅色の光に満ちた坂道を駆け抜ける。篠原に言われた通りに振り返ることもなく、脇目もふらずに。風に吹き飛ばされて転がる麦わら帽子みたいに。
 坂道の急な勾配も手伝って、道を駆け抜ける速度はどんどん増してゆく。だが、いささか夢中になり過ぎたようだ。くるぶしに妙な角度に曲がったのを感じた次の瞬間、足元に鈍い痛みが走って、身体が地面に音を立てて倒れ込んでしまう。
 転げた当麻の身体が土の上を滑り、周囲に小さく砂埃が舞い上がる。細かい砂粒が鼻や口内に入って、思わず咳き込んだ。しばらくののちに落ち着くと、涙に濡れた目蓋をゆっくりと開く。そうして恐る恐る周囲の様子をうかがうと、あたりの風景は賑やかな雑踏に戻っている。
 外灯の光暈や電気看板の明かりが滲んでいて、夜の往来を人々が行き交っている。その通りすがりの誰もがみんな、当麻を見て気がかりそうな顔つきをした。でも、それだけだった。誰も転んでいる彼に声を掛けることなく、ちらりと横目で眼差しを向けながら前を過ぎてゆく。
 当麻は即座に起き上がろうとする。立つときに捻ってしまった足が鈍く痛んだ。その痛みが体を駆け抜けた刹那、篠原の横顔が頭を過ぎる。夕日を背景にすっと高く通った鼻と、薄く盛り上がった唇のシルエット。暗く落ちた影の中に猫目石のように黄色く浮かび上がる左目。そんな横顔が。
 当麻は近くの外灯まで近寄ると、柱に寄りかかって篠原が坂の上から降りてくるのを待つ。でも篠原は現れない。痛みが消えても、いつまでも待っている。しかし彼が姿を見せることは一向になかった。

【本編に続く】

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