たましい、あるいはひとつぶんのベッド 3‐1

*タイトルは哉村哉子さんによる


 ミチルが深山ノボルと初めて出会ったとき、彼は綿の花のような不思議な壁の部屋の中で眠りこけていた。あるいは気を失っていたというのが正しいのかもしれない。何故ならそのとき彼は監禁されていて、与えられる食事も満足に摂らずにいたからだ。

 彼女がノボルを見つけたのは祖父の屋敷にある書斎で、本棚の裏側に隠されていた座敷牢だ。使用人があらぬ場所へ食事トレーを持って歩いているのを見かけたので跡をつけていって、隠し部屋の中に入ろうとしたところをミチルが無理やり一緒に押し入ったのだ。

 室内は四方八方がぬいぐるみを思い起こさせる、妙にもこもことした白い生地の壁で出来た部屋だった。中を歩く度に綿の柔らかさのために足元が不如意になって、それが悪酔いしたみたいに気持ち悪かったのを覚えている。そんな部屋の中にノボルが伏せっていた。

 そのとき深山ノボルはシーツを頭からかぶった状態で、膝を曲げて丸まっていた。それが真冬の山で遭難した子どもみたいに、あまりにも縮こまった姿だったので、ミチルは初め彼が本当に生きているのか不安になったのを覚えている。

 事実、三日も何も口にしていないという使用人の談から本当に危機的な状況であることが判明し、ミチルは急いで屋敷内で捜査をしていた警官に報告し、病院へ彼を引き渡した。(しかし後日彼が病院から抜け出してきたので、彼女の一連の行動は徒労に終わった)

 このとき取り押さえられた使用人の証言から、監禁の犯人が相続候補者の一人だと特定された。どうも相続を辞退するように、とノボルを室内に閉じ込めて再三強要していたらしかった。

 しかし犯人の思惑は完全に外れることになる。計画は露見したし、何より殺されてしまったのだ。そして幾つかの血なまぐさい出来事を経たのちに、深山ノボルともう一人の従兄が祖父の財産を一部受け継ぐことになった。死人は渡し賃さえ貰えなかった。

               *

 ミチルとノボルの祖父は塩見雪彦(きよひこ)といって、聞くところによれば元々は陸軍の軍医だったそうだ。それが終戦で勤め先を失ったあと、昭和二十年代後半に民間の血液銀行を興したという。

 血液銀行とは現代でいえば血液センターと呼ばれる組織のことで、献血など集めた血液を保存し、必要に応じて医療機関に提供――とどのつまりは輸血することを目的とした施設のことだ。

 当時、輸血用の血液の収集は今のように公的な機関への無償提供が主流ではなく、民間企業が希望者から買い取って採血保存をすることが多かった。もっと悪しざまに言えば、どことも知らない誰かが売り込んできた血を良い値で買い叩くのだ。この行為を国語辞典に載るような言葉を使って表現すると、『売血』と呼ばれることになる。

 銀行で買収された血液を預けることは、それらしく預血と呼ばれ、また、医療機関や患者に預血を提供することは貸し出しと呼ばれた。貸したからには返してもらわなければならないが、体液は返しようがない(そもそも手元にないから借りたのだが)ので、銀行は血液の代わりに提供先から手数料を取ることになる。それが血液銀行の収益となり、巡り巡って売血希望者に支払われる仕組みなのだった。

 これは売る方にも買う方どちらにしても、大分身になる商売だったようだ。終戦後の混乱で食べることに困っている人は多かったし、雇用あったが賃金額は低額であり、闇市で流れる食料はインフレによって非常識な値がついていた。だから食い繋ぐためには何でもやったし、やらなければならなかった。そんな中で売血は手軽に稼げる部類の食い扶持だった。人々にとって血に名前は無く、貨幣と同じ意味を持っていた。

 それから数年の月日を経てある程度の財源を確保すると、祖父は血液事業から手を引き、医薬品の開発事業への転換を図った。そして、彼のこの試みは上手く運んだ。

 売血で得た金で彼の企業は血液の保存容器を製造し、特許を得た。この保存容器は酸素による血液の劣化を避け、長期的に内容物の質を保つ性質があった。そのために各種の医療ないし研究機関で重用されたようだ。

 それによる収益と、特許による幾許かの報奨金で新たな製品開発を推進させる。その新製品を各所に売り込んで、また利益を上げる――。波はあったようだけれど、おおむねこの繰り返しでミチルの祖父は徐々に市場を拡げてゆき、ついに社会的ポジションと有り余る財産を築きあげた。

 このように彼は事業を成長させる一方で、人間関係にも様々な新しい局面をもたらした。そしてそれはたいていの場合、悪い方に転がった。

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