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夜蜘蛛は殺すか、生かすか、それとも人に……

この作品には以下のような描写が含まれます。ご注意ください
児童虐待/性差と上下関係を利用した物理的・性的な暴力行為/犬が死ぬ(老衰)


 理系の大学院生には盆暮れ正月と、クリスマスはないと聞く。だが、どうにか予定を開けさせる。
 帳尻合わせのために、どうやら徹夜したらしい。倫也が大学まで迎えに行ったとき、乙矢の顔色は本当に人形じみていて青白かった。ひとたび目を閉じたら、もう永遠に開かないのではないかと思えるくらいに。
「六本木のお姐さんのお土産、お茶漬けでいい?」
 邸へ向かって車を走らせるさなか。乙矢が後部座席から身を乗り出してきて、訊ねる。六本木とは倫也が囲う女の一人で、彼女には定期的に挨拶に行かせていた。これみよがしに侍らせている女たちでも、乙矢は知り合いの親みたいに接している。
「でも、前は海苔だしな。微妙にダブってる気がする」
「ギフト券か、カタログでいい。毎月の手当に、新年には別につけるんだ。ちゃんとした物でなくとも、何も言わない」運転席から彼は言う。
 いいのかなあ。そう口にしながら、乙矢の白い顔が奥に引っ込む。それから少しのあいだ背後で身動ぎする気配がしていた。けれど、やがて静かになる。どうも眠ったようだ。微かで穏やかな呼吸音が倫也の耳に届く。そして、それは邸に着くまで変わらない。
 車をインナーガレージに入れ、乙矢を起こして先に降ろす。簡単な片づけを終え降車すると、乙矢は壁を眺めている。何だろうと視線を辿った先には親指ほどの――茶色の、何かの蛹が張りついていた。その蛹を彼女はクッキーみたいにひょいと摘む。ついで唇から、舌が覗いた刹那。ぱしり、と鋭く湿った音が響く。
 気づくと乙矢は壁に肩を預けており、足元には叩き落とされたものが転がっている。何をしている? 疼く手をさすりながら、倫也は問う。だが、相手は答えない。ただこちらを睨みつけている両目が、脂のごとくぎらつく。意識が虫に戻ったのだ。これはいい、と彼は笑う。
「来い。躾てやる」
 倫也は地下室のドアまで彼女を引きずっていき、やがて向こう側へ姿を消す。だが、すぐに外へ戻ってくる。乙矢の肩に腕を回され、苦し気な表情で。それも当然で、右腕がくの字に外向きに折れている。彼は額に汗を流し、正気になった相手に言いつけた。医者を呼べ。
 そこからの乙矢の動きは迅速だった。まず氷嚢を作って倫也に押しつける。ついで段ボールで添え木、そしてバスタオルで三角巾を作って応急手当をしたのちに、お抱えの医者に連絡をする。これらのすべてが一切の無駄はなく、手際よく行われた。
 ――クリスマスに骨折とは大した奴だな。そんな皮肉と頓服の痛み止めを置き土産に医者は去っていった。
「ごめんな。本当なら、いつもみたいにさせてあげたかったんだけど」
 薬がもたらす微睡みのなか。リビングのソファに背中を預けた倫也は声を聞く。彼は目蓋を持ち上げて、声のする方を見やる。すると自分から少し離れたカーペットの外側――フローリングの上で、乙矢が正座しているのが飛び込んできた。
 彼女はぴったりと閉じた膝に手を突いて、肩をきゅっと竦ませている。その姿はまるで仕事の癖が抜けない休日の落語家を思わせた。滑稽で面白みはあるが、どこか癇に障る。
「子蜘蛛以下の出来損ないの分際で、ご主人様に痛手を負わせるとは言語道断だな。乙矢。何か、言うことはないのか」
「どうにか利き手は外しました!」
「褒められると思っているのか。それで」
 舌打ちの音が室内に響く。乙矢は首を傾げた。注意深く様子を窺っていなければ見逃してしまうくらいに、小さく。そして口元には淡い微笑みを湛えていた。とはいえ相手がこちらの言うことを、まったく理解していないわけではない。何がなくても首をわずかに傾けるのが、幼いころからの彼女の癖なのを倫也は知ってた。
 来い、と手招きをして彼は乙矢に命じる。まもなく彼女は足を崩し、姿勢を四つん這いに変える。そして、そのまま彼の足元まで寄ってくる。これは正しかった。立ってよいとは許可していないのだから。
 彼女に右の……自由な方の手のひらを差し出す。その上に乙矢は顎を乗せた。血の気の失せた肌に指を添わせてみると、顔の輪郭がパズルのピースみたいにぴったりと手の中にはまり込む。ついで、彼は表面を指先でそっと撫で上げる。
 触れるか否かの際どい感覚が心地よいらしいしばらくのあいだ、彼女はおとなしくされるがままでいた。手のひらや手の甲が行ったり来たりするごとに、薄っすらと隈がある両目をとろりと細めていく。そんなあるとき、倫也が手をふと離す。次の刹那。彼の手が一閃して翻り、思い切り乙矢の頬を打つ。
 存外に殴りつけた力が強かったのか、あるいは相手が油断していたのか。彼女の身体は殴られる勢いに負けて、なすすべもなくカーペットの上に倒れ込む。その背を丸めて顔を伏せた体勢は、土下座をさせたときとよく似ていた。
 打擲されたまわりが相当痛むのか、乙矢はいつまでも額づいたままでいる。顔の下から喘ぐような、乱れた息遣いも気の毒な印象を深めた。しかし に耳を傾けるうちに、次第に声質が変わっていく。低い唸り声に。
 すう、と乙矢が顔を上げる。彼女の本来の目が倫也を眼差す。額に二つ、頬に四つ目が。左右の口の端から亀裂が入り、顎が二分割されてぱっくりと裂けていく。でも、それだけだった。脚は一向に出てこない。どうやら変化が不安定になっているようだ。
「乙矢さん」
 相手は息を呑む。寝なさいと、倫也が命じた瞬間。彼女の身体が崩れ落ちる。そうして相手がカーペットの上に突っ伏してすぐに、倫也はつま先で乙矢の顎を持ち上げる。表に晒された顔は、すでに元に戻っている。
 きっと休みを作るために無理をしたのだろう。身体を張って帳尻を合わせたのは倫也も同じだが、失敗癖がある彼女とは意味合いは違う。
 彼にとっては二つの形態には連続性があり、姿の切り替えも滑らかだ。しかし乙矢の中では蜘蛛と人間の意識はそれぞれ独立しているらしく、体裁を取り繕うためには虫の方を強く抑えつけていなければならないようだった。
 天候の悪さや体調不良などの悪条件が重なれば、意図せずに本性が露わになってしまうことがままあった。そんなことは倫也にはなかなか起こらないのだが。もしかしたら後天的にヒトの形を与えられたせいなのかもしれなかった。
 じっと乙矢の寝顔を眺めていると、だんだん倫也の方も目蓋が重たくなってくる。全身にまといつく気怠さも増して、背もたれに身体を預ける。そしてまもなく彼もまた、深い眠りに落ちた。

      *

 地球上で現生する人類には二つの系統がある。一つは純然たるホモサピエンス。もう一つは、他の生き物が何らかの理由で人間に変身してそのままになったものだ。乙矢と倫也の場合、それは蜘蛛だった。
 伝承によれば変わり物たちの先祖は、地上における人間との覇権争いに負けて日陰の追いやられたのだという。とりわけ倫也たちの祖先に対しては排斥や迫害が激しく、徹底的にやられたのだそうだ。そういうわけで猫や狼などの他の同類たちと比べて、二人の属する血族は輪に掛けて数が少ないのだとも。
 そのためだろうか。“連絡会”の連中を始めとして、社会の融け込もうと試みる多数派の中で、際立って血統を保つことに固執する一派があった。この派閥の現代における頭領が、乙矢の父親だった。
 彼は純性の維持のみに執心する、自分の両親や祖父母たちの一歩先を行く。新しく仲間を増やすことにしたのだ。それも先祖にかぎりなく近い性能の、しかし現代的な知性を持つ仲間を。そのための材料は遠い昔に道を分かった同族だった。世界各地から集められたサンプルの群に乙矢の母親がいた。
 びりびりと痛みを伴う感覚で倫也は目が覚める。最初は何がなんだかわからなかったが、やがてズボンの左ポケットの中でスマートフォンが震えているの気づく。メールならすぐ止まるの放っておくのだが、電話であるらしくなかなか鳴りやまない。ロック画面を覗くと、発信元は会社と表示されている。出てみると、至急確認して欲しい資料があるのだという。
 向こうの相手に受け答えをしながら、彼は己の足元に視線を投げる。乙矢はまだ固く目蓋を閉じていた。まるで自分のベッドにでもいるかのような無防備な表情だ。しかし安らかと表現するよりかは、電池が切れたと言った方が相応しい印象だ。その様子はどこにでもいる、普通の女のようにも見えた。
 なんとなく腹立たしくなって、つま先で彼女の腹を小突く。衝撃のためか乙矢は眉根を寄せ、もぞりと身をよじった。意識的ではない、反射的な動きだ。また甲虫の幼虫めいた生々しさがある動きでもあった。
 資料をパソコンに送るように指示しながら、倫也は足で何度も彼女の身体をつつく。揺さぶりを繰り返すうちに、やがて乙矢の目が重たげに開く。そうして通話が終了するころには、のっそりと身を起こしている。
 その場にぼんやりと座り込んだままの相手に、昼食と風呂の用意を言いつけた。顔つきはまだ虚ろで頼りない感じだが、こちらの命令はきちんと理解しているらしい。少し間を開けたのちに彼女は立ち上がると、とろくさい足取りでダイニングを通り抜けてキッチンに向かう。冷蔵庫を開く彼女の背中を見届けて、倫也はリビングを出て書斎に赴く。
 二階に上がっても、乙矢が発する物音はかすかに届いていた。けれど部屋のドアを閉めると、鋏で断ったみたいに途切れてしまう。
 張りつめたみたいな静けさに満ちた書斎の中。パソコンデスクに座した倫也はメールソフトを起動させ、さっそく添付された資料を確認する。まず全体を流し見したのちに、細やかな部分に目を通す。そうしてあきらかに間違いのある部分には赤字で訂正を入れ、違和感や疑問点がある部分に線を引いていく。
 それだけならきわめて簡単な作業に思える。だが、これがなかなか厄介だった。利き手を負傷して能率が下がっているのもある。だが、一番癪に障るのは手を入れる量が膨大であることだった。
 一見すると、資料は体裁が整っているように思われた。しかし注意深く見ていくと、つじつまの合わない箇所や数字などが山のように存在する。あからさまな文法の誤りや誤字脱字、計算ミスがないだけによけいに性質が悪かった。なにより倫也を苛立たせたのは、作成の担当者がこんな適当な仕事ぶりでも問題がないと考えている可能性があることだった。
 一度、きつく締めあげなければ――。炙られるような熱を帯びた興奮のさなか、マウスを動かしながら彼は考える。本当に、徹底的に打ちのめさなければいけない。けして泣いてはいけない場所で、喚き立てるくらいに痛めつける必要がある。そうしなければ、相手にはわからない。
 キーボードを叩く指先の速度とともに、昂りも徐々に増していく。それとともに怒りの対象も範囲を拡大し、彼の脳内で現在と過去が混然一体となる。拡がった思考はやがて一つの点に収束した。あの女――。
 あの女、あの女、あの女! 人間の真似も満足にできないくせに、自分は何もおかしくないみたいな顔をして。あいつ、乙矢……。
 ……ダメだ。おもむろに倫也はディスプレイから顔を離し、全身をパソコンチェアの背もたれに預ける。自分で考えていたよりも疲労が蓄積していたようだ。両肩が強張り、目の奥には鈍痛が起こっている。熱くなりすぎていけない。
 なんとなく目を泳がせると、ふと一枚の封筒が視界に入る。薄い青色をしたA4ほどの大きさの封筒で、書棚の隙間に突っ込まれている。社用に製作された物のようで、下部には緑色の文字で社名が印刷されていた。織衣紡績。

      *

 数年前に織衣コーポレーションと名を変えたので、織衣紡績という会社は現在存在しない。取り扱う商いが糸つむぎだけでなくアパレル関連や医療品、食料品など多岐に渡り、もはや『紡績』の一言で収まり切れなくなったせいだ。社長――乙矢の父親が亡くなったのも、タイミングとしてちょうどよかった。
 倫也の両親は織衣の下請けの染料会社を営んでいた。社株をあちらが三割ほど持っていたらしいから、子会社と呼んだ方が正確なのかもしれない。どちらにせよ彼の生活の一部分は、親会社の織衣紡績によって賄われていたのには違いない。だから乙矢の父親に献上されたのも、倫也にとってはおかしな流れではなかった。
 織衣の“別荘”に連れてこられたのは、彼が十五のころだった。表向きは優秀な学生を次世代の経営者として育成したいとのことだったが、本当は違う。両親の会社の経営がまずくなったので、援助と引き換えに身柄を渡されたのだ。遊び相手兼家庭教師、そして同族の異性の教材として。
 “別荘”は白い外壁をした三階建ての建物だった。定規で引いたみたいに真四角をした造形はあまりにも生活感に欠けていて、家屋というよりも病院と表現した方が相応しい外観だった。それもそのはずで別荘の呼称は役所を欺くためのものに過ぎず、実態は個人所有の研究施設なのだ。そこに乙矢は暮らしていた。
 ベッドと机しかない簡素な部屋――分厚いガラスの壁の向こうで、床に座り込んでいた彼女の姿を思い出せる。どうやら絵を描いているらしい。大きな腕の動きとともに、肩で切りそろえた髪の先がちらちら揺れた。薄手のシャツの襟もとからチョーカーを嵌めた首がすらりと伸び、バランスのとれた鎖骨が覗く。まるで普通の女の子に見える姿だった。それも(相手が五つ下であることもあったろうが)なるべくなら優しくしてあげたいと感ずるような女の子に。そのときの記憶を彼は今でも拭いきれないでいる。
 倫也は手を入れた資料を見直して、会社へ送信する。そうして書斎からリビングダイニングに戻ってくると、テーブルの上に食事が用意されていた。ツナのサンドイッチに、焼いたベーコンを添えたスクランブルエッグ。小鉢に盛られたサラダと、コンソメスープ。コーヒーメーカーはふつふつと音を立てている。ラインナップは昼食というよりも朝食だが、それ自体には問題はない。しかし言いたいことはある。
 まず副菜はスクランブルエッグではなく、目玉焼きの方がよかった。ベーコンは別に添えなくていい。サンドイッチでもかまわないが、トーストの方が好みだ。そもそも今はパンよりも、ご飯が食べたかった。
 だが、苦言を受けるべき乙矢がここにいない。ややあって倫也は自分の言ったことを思い出し、浴室に足を向ける。いた。すりガラスのドアに、小さな影がぼんやりと映っている。浴槽にもたれかかるような、小さく丸い影が。
 乙矢! そう声を張り上げながら倫也はドアを開く。しかし、なんてことはない。彼女はその場に屈み込んで、排水溝にクリーナーを流し込んでいる。そうして洗剤のボトルを片手にこちらに振り向くと、こともなげな調子で言う。
「ハイプの流れが悪かったよ。ハウスキーパー、変えた方がいいんじゃない?」
 くらりと目が眩む。ついで頭がかっと熱くなり、倫也は左手を振り上げた。高く。でも、そこまでだった。掲げられた手は乙矢に触れることはなく、そのまま降ろされる。瞬発的な興奮は一気に後退し、霞のごとくあとかたもなく消え失せた。そして押しとどめた言葉だけが、胸中に残っている。よかった。
 どうしたの? 言葉もなく立ち尽くす倫也に、乙矢がそう問いかけてくる。やはり小さく首を傾けて、唇には淡い笑みを浮かべながら。通り抜けていくような眼差しで。瞬きをするごとに、明り取りの窓から侵入した光が瞳に反射して、ちらちらと揺らめいた。

      *

 以前、似たような光景を目にしたことがある。そのときの彼女は本当に、浴槽にもたれかかっていた。ぐったりした身体はとめどなく流れるシャワーに打たれ、水を含んだ服がぴったりと張りついていた。傷ついた腕から噴き出た血が筋になって、排水溝に吸い込まれていく。
 ――痛いってどういうことか、知りたかった。治療後。眠りからさめた彼女に奇行の理由を訊ねると、そのような答えが返ってきた。彼は怒る。しかし何もできない。いつもなら憤りを感じた次の刹那には、彼女の横っ面を張り倒しているはずなのに。罵倒の言葉さえも出てこなかった。
 乙矢とは弓道において、二本目に射る矢を指す語だ。一本目は早矢と呼ばれる。その名のとおり彼女には姉がいた。けれども、あまり大きくならないうちに死んだ。資料によれば、虫の生食に起因する食中毒とのことだった。
 彼女たちの母体も、二人を産み落としてすぐに亡くなったという。死因は産褥とのことだった。もしかしたら今まで虫として生きていたのを、無理に人間に変身させたことも要因の一つなのかもしれない。最初に会ったときの彼女は正真正銘、ひとりぼっちだった。
 彼女にあてがわれていた居室は、施設内の研究員から“子ども部屋”と呼ばれていた。とはいえ『子どもがいる部屋』という字義以上の意味はない。彼女の私室と実験室を兼ねた部屋は、小さな机とベッド以外はなにもない簡素な作りで、壁の一面がガラス張りになっているありさまだ。
 十五歳の彼はその中に入り、床に座り込む彼女につかつかと歩み寄る。そして相手の眼前で膝をつき視線を合わせて、こんな風に挨拶をする。はじめまして、乙矢さん。僕は織作倫也と言います。君と友達になれたらいいな――。
 しばらくのあいだ乙矢は言葉もなく、倫也の顔をじっと眺めていた。小首をかしげながら、まっすぐに。ふいに彼女は両手を差し伸べて、彼の頬に触れる。そうして肉を揉み、ぺたぺたと撫でまわし始めた。
 突然のことに倫也は何も言えない。女の子と間近に顔を突き合わせたのも、直に肌を触れられたのも生まれてから初めてのことで、どうすればいいのかわからなかったのだ。だから相手の好きなようにさせざるを得なかった。しかし、それが間違いだった。
 ぴたりと動きを止める。どうしたんだろう。そう倫也が思った次の瞬間、乙矢は髪の毛ごと彼の頭を鷲掴む。ぞっと怖気が立つ。相手の力の入れようは、まるで固くなったジャムの蓋を思い起こさせたからだ。嫌な予感がしたときにはもう遅い。案の定、視界がぐんと右に半回転する。
 首の骨が回転を受け入れようときりきりと軋み、作用に抗おうとする筋肉がぴりぴりと張りつめて痛む。繊維が一本ずつ切れていくような鋭い痛みだ。きんきんと耳鳴りがして、気持ち悪い。吐き気がする。
 もちろん彼は相手の両腕を振りほどこうとした。しかし叶わない。乙矢の腕は根を張った大樹のように頑だった。こちらの指先がしびれるくらい力を込めても、ぴくりとも動かせない。むしろあがくごとに目の前の風景が、少しずつ後ろへと流れていく気がした。
 擬態を解く。せき止められた水があふれるみたいに全身に力がみなぎり、駆け巡っていく。相手の皮膚に立てた爪が深く沈み込み、錆っぽい臭いが鼻についた。そして視界の移ろいがぴたりと止まる。どうにか膠着状態までには持ち込めた。だが、相手の腕を解くまでには至らない。
 何より恐ろしいのは乙矢が顔色一つ変えてはいない事実だった。もし、これが蜘蛛に戻れば一体どうなるのか?
 混乱と痛みのさなか。倫也は臆面もなく泣き、叫ぶ。やめてよぉ、そんな風には動けないんだ――。彼女は怪訝そうに目を瞬かせるばかりで、手を緩めようとはしない。それどころか、ますます腕力は強まっていく。そうして彼の首は再び動き始めた。
 あのままでは危なかっただろう。彼が一命をとりとめたのは異変に気付いた研究員が、彼女のチョーカーに電流を通して気絶させたからだ。
「乙矢は少し臆病なんだ」
 むちうちの治療を受けたあと。所長室に呼び出された倫也は、一人の男からそんな言葉を聞かされる。右の口の端に大きな傷跡のある男だった。傷は頬を横断し耳のあたりまで伸びているので、まるでニヒルな笑いを浮かべているように見える。そんな男こそが“別荘”を統べる所長であり、織衣紡績の社長――そして乙矢の生物学上の父だった。
「もともと神経質なところがあったのだけれど、早矢がいなくなってからはことのほかひどいんだ。きっと自分がひとりぼっちじゃないことに気づけば、あれも落ち着くと思うんだ」
 よろしく頼むよ。男は倫也に向かって告げる。しかしそんな一言で済めば苦労はしない。
 まだ小学生くらいであることを引いてみても、そのころの乙矢はかなり蒙昧だった。まず会話がスムーズに成り立たない。独特の使い方や言い回しをするからだ。一つ例を挙げるなら、当時の彼女は日没を『黒が伸びる』と表現した。日の出は『黒が縮む』と表す。そして朝や昼を指す語は『白』だ。これらを組み合わせて昼から夜に変わることを『白が縮んで、黒が伸びる』と言う。彼女とのコミュニケーションは万事がこのような調子だった。(ちなみに倫也は『小さい動く肉』と呼ばれていた)
 これだけでもずいぶんと頭が痛いのだが、なによりも倫也を悩ませ、そして恐怖させたのは発作的に訪れる癇癪だった。
 彼女はことあるごとに金切り声をあげては、細っこい手足をばたつかせて振り回す。そうして平気で他人を殴り、蹴り飛ばす。ときに電気ショックをものともせずに乱暴を続けるありさまは、身体に嵐が封じ込められているかのようだった。
 そのために研究員で五体無事な者はほとんどおらず、みなどこかしらに怪我や傷を抱えていた。四肢の関節を抜かれたり骨を折られたりするのは序の口で、所長のように深手を負わされた者や指をもがれた者もいた。
 倫也自身もそれなりにひどい目に遭っている。もはや自分の身体に打ちつけれていない場所や切りつけられていない場所、痣のつけられていない場所など、ないのではないかと思われるくらいには。あの場所において彼女はいつも苦痛を与える側で、彼はそれを甘受する側だった。
 くわえて暴挙のきっかけがわからないことも、さらに理不尽さを際立たせた。その理由が『低気圧のせいで体調が悪い』あるいは『虫を食べたいのに食べるなと言われた』などであれば、腹には据えかねるがまだ理解はできる。『着替えのときに左の袖から腕を入れたかった』ならどうしようもないが、言い分が伝わってくるだけましな方だ。少なくとも思いがけない時と場所で、意味不明なことを叫ばれながら、肩を掴まれて壁に叩きつけられるよりかは断然筋が通っていた。
 どうしてあんな真似をしたのかと、倫也は彼女に訊ねたことがある。
 相続関係の手続きがすべて終了し、織衣の事業が彼に譲渡されてまもない時分だったのを覚えている。倫也は自宅に設えた地下室――コンクリート床の上に乙矢を額づかせた。そうして彼女の頭や背中に足を置いて、罵倒や嘲りとともに圧をかけたり緩めたりを繰り返していた。これからの自分の立場や、力関係を理解させなければならなかったからだ。過去の話を持ち出したのも、その作業の一環だった。
 ――嫌いだった。
 そう乙矢が答える。やはりそれなりに苦しいらしい。眉根を寄せた顔は歪み、声音も息が詰まって低く曇っている。
「嫌い? 何がです?」
 ――風も木も水も、何もかもが。
 ――そういう気持ちがときどき、鍋が吹きこぼれるみたいに出てくる。きっと君は他の人に対しても、そうだったんだと思う。
「ではくだらない八つ当たりのために、あなたはいろんな人を傷つけてきたんですか?」
 そうだね、と乙矢は一言だけ答える。倫也は彼女の柔い肌に、靴の裏をさらに押しつける。今度は心臓にまで痕を残すくらいに、強く。負荷が高まるとともに乙矢の苦悶の色もますます濃くなった。汗で照りつける背中を見、低く押し殺した声に耳を傾けながら、もっと苦しめばいいと倫也は思う。そして苦しんで苦しんで、苦しみ抜いていつかそのはてに凡人の女に至ればいいとも彼は考える。そして、いずれはそのようになるはずだった。
 やはり痛めつけていないと、こいつは何もわからないのだろうか――。昼食のあと。シンクに立つ乙矢を見つめながら、食卓に座している倫也はそう考える。対面式のキッチンなので、少し離れたダイニングからでも相手のうかがえるのだ。
 スポンジで皿を磨きながら、鼻歌でクリスマスソングを唄っている。学生時代に合唱をやっていた杵柄か、節回しは正確で調和もとれた歌声た。そんなご機嫌な様子は、サンタクロースを待ちかねている子どもを彷彿とさせた。今日は何の瑕疵もない、完全で完璧な素晴らしい日になると、まるで心から信じきっている風だったのだ。こちらの骨を折っておいて、一日も経っていないのにもかかわらず。それが腹立たしく、また虚しかった。
「どうしたのー?」
 視線に乙矢は気づいたようだ。彼女は顔を上げて、言い足す。デザートが欲しいならちょっと待ってて、お皿、食洗器に入れるから。投げかけられた問いに倫也はそうだとも、違うとも答えない。まっくの見当違いだった。
 蒙昧な乙矢のために、彼は少なくない時間とコストをかけてきた。十五のころに課せられた仕事として五教科の勉強を始めとして、一般的な常識やマナーを指導したのを皮切りに、人間とはどのようなものかをわからせるのに心身を費やしてきた。そのために寝る間を惜しんで予習や復習をしたり、教材を製作したり、自宅に専用の地下室まで作ったりして。そこまで労力と金をかけたのに、すべては無意味だったのか。
 失望し落胆をする一方で、そんなはずはないと信じたがる自分もいた。流された血こそが――痛みが知りたいという言葉こそがその証しだと主張している己が存在する。
 本当に痛みが知りたいのなら、もっとそれらしい態度があるはずだ。彼は思う。そうだ。本当なら深くうなだれて、自分の身体や本性を恥じ入るべきなのだ。あるいは無様を晒して泣き言を喚きながら、頭や手をついて自分に許しを請うべきだ。少なくとも、彼はそのように教え込んできたつもりだ。しかし現実は二つのどちらでもない。
 地下室で折檻を受けているときでさえ、彼女はけして泣き言は述べなかった。痛みや快楽で無理やり口を開かせれば別だが、基本的に唇を噛み締めて仕打ちに耐えている。しかし石のような頑なさではなく、踏みつけられる麦のようにどこか前向きな趣があった。
 立ち上がったはずみで椅子が倒れ、フローリングを打つ。小さなこだまが室内に溶け込んで、薄っすらと広がるさなか。乙矢のかっと丸く見開いた両目が潜望鏡のように、シンクの陰からひょっこりと出して、こちらを覗く。倫也もずっと彼女を見つめていたので、おのずとお互いの視線がかち合う格好になる。そうして彼が唇を開こうとした、瞬間だった。
 卓上に置いたスマートフォンがにわかに震え出す。発信元はまたしても会社からで、訂正した資料を確認して欲しいという。
「夕方までには間に合いそう?」
 通話を終了させてすぐに、キッチンから乙矢がそう訊ねてきた。何事もなかったみたいに目を細め、やはり小さく首を傾げている。取り繕ったものでない、真に心の底から湧き出てきた微笑みだ。また倫也の神経を逆なでするものが、このなかには含まれていた。
「そうやって優し気にふるまったら、人間みたいに見えると思っているのか?」
「別に衒っているつもりはないよ」
 図星を突く心積もりでつついてみた。だが、相手の薄ら笑いは崩れない。むしろさらに深くなったような気さえした。そのままの顔つきと調子で彼女は続ける。
「私は自分の言いたいことを言って、したいことをしてるだけさ。そこに下心はあまりないよ。少なくともさっきのはね」
「どうだか。僕にはお前が猫を背負ってるように見えるぞ。車に轢かれてボロ雑巾みたいになった猫を」
「こっちにも体裁があるんだから、ちょっとは見逃してくれ。本当なら蜘蛛なんだ。それにさ――」
 君は自分のことを人間だと思ってるの?

      §

 倫也の先祖たちは人間社会に溶け込むために、自分たちの機能の一部(あるいは大部分)を捨て、さまざまな習慣や風俗を取り込んできた。そのときの場面にふさわしい言葉遣いや衣服、食べるべきものやそうでないもの。このようなものを。それは男女間における役割も同じだ。
 倫也の実家は共働き家庭だったが、家事は母が担っていた。父も家のことはしないではなかったけれど、主に伴侶の出張や体調不良など特別な事情が発生したときだったと思う。だから実態としては、やはり母親に労力が偏っていた。事の賛否は別として、それは人間たちの暮らしぶりではありふれた風景であるように見える。
 繁殖方法も人間と同じ胎生で、一度に多くは産めない。しかし腹から出てくるのは羊膜に包まれた、元の動物の姿だ。その姿は訓練によって、やがて隠匿されることになる。お前は蜘蛛だ、だが、建前上はあくまで人間としてふるまわなければならないと。そのような自分たちの在り方が、彼にとってはひどく中途半端に思えた。
 だから完全に人類と異なる(しかし交流が成り立つ)存在を産み出したい――そしてあわよくば繁殖させて自分たちと交代させたいという気持ちは、倫也もなんとなく理解できた。もっとも人間性を完全に捨てきれなかったのは間違いだったが。だから乙矢はあんな風になった。
 幼いころの乙矢は蜘蛛としての意識が強かった。あるいは、そのものといっても過言でもなかったのもしれない。しかし虫としての本能や形体は人間の身体に閉じ込められていて、暴露することは許されない。不用意に本性を現せば罰せられ、なかったことにされる。通電で、あるいは投薬で。
 製造した側としてはしかるべきときにしかるべき姿をしてほしいのだが、彼女にはそのときも、そうすべき理由もわからない。眼前に現れた虫を喰らい、八本脚で地面を打ち鳴らすのが、本来の(遺伝子を操作されていない)乙矢の在り方なのだった。『すべてが嫌い』という言の内実は、おそらくこのようなものだろう。
 だから乙矢にとっては、まわりを取り巻く者はすべて敵だったのだ。その最前線に倫也はいた。
 暴れ狂う乙矢と相対すると、倫也はいつもボロ雑巾になったような気分になったものだった。五つも年下の――自分より華奢な女の子に腕力でねじ伏せられ、打ちのめされる。このこと自体も恥だが同じくらいに屈辱的だったのは、彼女が倫也を同類のオスとして認識していないという事実だった。
 お互いの衣服を脱いで男女ないし雌雄の体つきの違いを教えているとき、彼女は眉一つ動かさなかったのを倫也は覚えている。そうして動揺も恥じらいもせず、自分の方をじっと見つめていた。こいつは一体何をしているんだろう、と言いたげな不可思議そうな眼差しで。本当なら極まった状況のはずなのに、癇癪の種にすらならないのが、よけいに彼の羞恥心と怒りを駆り立てた。
 もちろんこのような行いは倫理に反しているし、表ざたになれば批判にさらされるのは施設内の誰もがわかっていた。しかし研究員の中には胆力のある者がいたらしい。何者かの内部告発により外部組織――“連絡会”が介入、圧力により実験研究は即刻中止される。倫也の仕事が終わることを意味していた。そのはずだった。
「乙矢の様子を見ていてもらいたいんだ。派手にやらかした僕よりも、監視の目は甘いはずだしね」
 研究施設“別荘”はあとかたもなく解体され、在籍していた研究員は全員職を解かれていた。それは乙矢の父親も例外ではない。表向きは社会人としての体裁は維持しつつも、児童虐待の加害者として彼女や倫也とは引き離されていた。それがどのような伝手をつたってか、差し入れの中に携帯電話を紛れ込ませて、彼に連絡を取ってきたのだった。ゆくゆくは乙矢を自分の手元に戻したいらしい。
 計画が破綻した以上、もはや倫也がこの男に付き合う義理はない。むしろ、これまでのツケを請求しても良いくらいだ。しかしその途を彼は選ばなかった。献上された身という意識が拭えずにいたせいかもしれない。また、彼自身が乙矢を気にしていたこともある。
 乙矢と倫也は“連絡会”の息が掛かった病院に移送され、患者として治療やカウンセリングを受けていた。お互いに鉢合わせしないようにタイムスケジュールが組まれていたけれど、一度院内の構造や組織図を把握してしまえば、職員の隙をつくのは造作もない。彼は日々与えられたタスクをこなすかたわら、指示通り乙矢の身辺を探る。
 細やかな内容には違いはあるが、病院内での二人の生活様式の大部分は共通していた。食事と運動、治療の三つだ。このあいまに適時自由時間が入る。彼女の場合これらに教育が加わる。
 担当の教師はチーム制となっており現役の教職者を始め、言語聴覚士や精神科医などの専門家でメンバーが構成されていた。誰もが訓練を受けた有資格者だ。
 彼ら彼女らが行う授業の光景を覗き見ると、巧妙に暴力が排除されるよう配慮されているのがわかる。もちろん通電首輪もつけていない。コミュニケーションは言葉と簡易なイラスト、そして適切に距離を置いたボディーランゲージで構成されていた。
 授業を受けているときの乙矢はだいたい落ち着いていて、“別荘”にいたときの暴力性はなりをひそめていた。あるいは必要がなくなったと表現した方が正しいのかもしれない。“別荘”にいたころよりも彼女の表情は格段に豊かになり、喜怒哀楽がわかりやすくなっていた。くわえて会話が滑らかに成立しているのにも、倫也は驚かずにはいられなかった。人間のようにふるまう彼女を、彼はいまだかつて見たことがなかったから、
 しばらくして乙矢は犬を飼い始める。カスタードクリームに似た黄色をした、成犬のラブラドールレトリバーだ。名をジョットとつけられていた。
 いわゆるセラピー犬と呼べばいいのだろうか。一日の大半を彼女に寄り添っている。そうして身体を撫でられたり、顔を揉まれたりしていた。力の抜けた、優し気な手つきで。(ときおり失敗するがジョットは辛抱強く耐えている)カウンセラーや精神科医と接しているときが、なおさら傾向が顕著だった。
 ――ジョット! 一人と一匹は何かにつけてはともにいた。そうして日射しの良い窓辺で日向ぼっこしたり、庭でボール遊びやかけっこをしたりと遊びを楽しんでいる。もちろん寝るときも一緒だ。
 そのさまを盗み見ていると倫也は、いつも得とも言えない気持ちになったものだった。初めて会ったときから、彼はあんな風に乙矢から触られたことがない。にっこりと笑いかけられたこともない。犬相手に丁寧にふるまえるなら、どうして自分にも同じようにしてくれなかったのだろう。そんな疑問はまもなく憤りに変わり、やがて悶えるほどの興奮へと高めていく。
 あいつを自分と同じ……それ以上の目に遭わせてやりたい、自分のしたことがどれだけ痛くて怖いことだったのかをわからせてやりたい。冷え切った泥の上に膝を折らせて、草や花みたいに扱ってやりたい。そんなことができればどれだけいいか。思い浮んだ想像は腹に納められないほどに彼の神経を昂らせ、昼も夜の区別なく苦しめた。
 そしてどうしようもなくなると、倫也は必ず彼女の名前を呼んだ。嘘のように穏やかな気持ちになるのだ。その回数は日ごとに増えていく。乙矢、乙矢、乙矢。
 異変はすぐに周囲に気づかれる。医者やカウンセラーと話す時間が増えたし、食後には薬が追加された。また、乙矢の父親からも任務終了の命令が下る。彼女が置かれた状況は充分にわかったと。そして、あとはこちらでしかるべき策を練るとも。
「まだ、やらせてください。彼らは警戒を緩めていない、情報収集が必要です」
 電話口の向こうで、相手が小さく息を呑んだ気配がした。その記憶はある。しかし正真正銘の事実である自信はいまひとつない。倫也が男の言葉に逆らったのは捧げられてから、これが初めてのことで、その事実が記憶を誇張させている可能性もないではなかった。
 とはいえ二人のあいだに沈黙があったのは確かだ。まるで国境を隔てる壁のような隔たりの感じられる沈黙だった。だが、長くは続かず相手はすぐに口火を切る。慎重な口ぶりで。はっきりと。
 ――冷静じゃない者がもたらす情報を誰が信用できるんだ? 対して、自分は冷静だと倫也は返す。
「落ち着いて考えた自分の意見を、努めて沈着に僕はあなたに述べているんです。実際問題あなたは彼女に近づけないし、彼女と近しいところにいるのはこの僕だ。この価値はやすやすと捨てるに惜しいはずだ。少なくとも僕があなたなら飲み終わったペットボトルみたいに、僕を手放しはしない。どれだけ足蹴にされて、すり潰されたとしても絶対、絶対、最後まであの女にしがみついてやる。僕にはその権利があるはずだ」
 ――君に少し頼り過ぎてしまったね。ともかく今は休みなさい。疲れてるんだ。
「なんと思ってくれてもかまいませんけど、僕をこんな風にしたのはあなた方ですからね」
 この責任は必ず取ってもらいますよ。そう電話越しに倫也は彼に言い放つ。これははっきりと断言できる真実だ。
 乙矢にはどれだけの責があるのかを、ときおり彼は考える。倫也が生きる社会では、犯した罪に対して相応の刑罰が法により定められている。たとえば信号無視で死刑に処しては刑が重過ぎるし、人を殺しておいて懲役一年では軽すぎるというような。
 自分の場合はどうだろう。確か乙矢を虐げる行為が愉快であるのは本当だった。彼女を虐げて、痛めつけたり服を剥がせたりさせるのはとても楽しい。相手の反応はともかくとして、この自分が乙矢を痛めつけ辱しめている事実があるだけでも、なんだか晴れやかな心持ちになる。でも一方で、おもしろいというのがとても不純なものである気もした。
 昔の法典には目には目を、歯には歯という文句があった。これは報復目的で過剰な罰を与えることを防ぐためであるという。むやみに力濫用すれば暴力の応酬が始まり、際限がなくなるからだ。罰を与えるのなら、罪と同程度に留めなければならないのだ。この事実を思いかえすたびに、どれだけ乙矢を辱しめれば自分に与えられたそれと釣り合うのかと、彼はいつも考える。
 彼を打ちのめした乙矢の癇癪は外部からの刺激への反応だけでなく、彼女自身の身体にも由来しているのは彼自身の直感だけでなく、彼女の専門家の意見とも一致するところだ。彼女の様子を傍でつぶさに眺めていれば、外見と内面の発達が追いついていないのはあきらかだった。
 倫也がそうであったのと同じように、彼女も好きこのんで今の形体で生まれてきたわけではないのはわかっている。その点においては乙矢に過失はないのも知っていた。あんな風に彼女を製造した大人たちに責任がある。ただ、それで乙矢を許すつもりはないが。

      *

 確認作業は思いのほか、早く終わる。出来上がった資料に倫也の意見が反映され、完成度が向上していためだ。また、予想よりも素晴らしい出来栄えだった。そのことに彼は満足する。最初からやればいいのにとも思わないではなかったけれど。
 書斎からリビングに戻ってくると、今度は乙矢がノートパソコンと睨み合っている。彼女が陣取るローテーブルの上には何冊ものハードカバーの専門書が積まれ、まわりにはよくわからないことの書いてあるメモが雪のように散らばっていた。一月に試験があると以前に聞いたから、時間があれば関連の作業を進めておきたいのだろう。
 倫也は彼女の背後に回り、ソファに腰掛ける。さも、あたりまえという風に。乙矢の方も何も言わなかった。それどころかこちらに見向きさえしない。
 ひじ掛けに凭れかかった彼は、言葉もなく、ひたすら乙矢の後ろ姿を見つめていた。今は前屈みになっているけれど、本当なら素晴らしい曲線や直線を持つ肩や背中を。それらはときおり思い出したかのようにひょこひょこと動く。
 しばらくのあいだ室内には、キーボードを打ちつける軽快な音だけが響いていた。あるとき倫也はおもむろに、彼女の背中に向かって足を延ばす。まもなく、彼のつま先が服越しに乙矢に触れる。そうして背骨を親指でつうっと撫でたり、肩甲骨の下に小さく円を描いたりする。あるいは気まぐれに心臓の裏をノックした。
 乙矢からの反応はない。相手がどんな表情をしているのかもわからない。本当に気にしていないのか、与えられる刺激に耐えているだけのかも。それでもかまわずに遊び続けていると、どうやら風向きが変わってきたらしい。もぞもぞと彼女は芋虫にように身動ぎをした。
 それでも乙矢は依然として、パソコンと顔を突きあわせている。倫也の攻勢は、確実に相手に影響を与えていたようだ。その証拠に先ほどまで軽やかにリズムを刻んでいた打鍵音は、次第にテンポが遅くなり途切れがちになっていく。そして、ついに止まってしまう。
 ふいに彼女はテーブルの縁に手をかけ、立ち上がろうとする。しかし倫也はやすやすと逃がすつもりはない。すばやく彼女の左肩に両足首を乗せた。途端、相手は静かに腰を降ろす。
 少し間を置いて、乙矢は再びキーボードを叩き始める。同時に弄びも再開された。だが、さきほどとは少し趣向が違う。彼女が手を止めると、倫也もくすぐるのを止める。また彼女が手を動かし始めると、彼もまた遊び始める。そういうことが何度も、何度も繰り返された。
 ようやく乙矢はこちらへ向き直る。磨き上げた鏡を思わせる鋭い目つきで。だが、それはわずかなあいだだけに過ぎない。彼女はまたたくまに眦を下げる。どこか哀感を帯びた、湿っぽい眼差しだ。そのまま乙矢は、冷静に彼にこう訊ねてくる。どうした?
 相手からかけられた問いに、倫也は肩を竦ませて答える。自分はおかしなことなど何もしていませんという顔で、努めて笑う。そうでもしなければ彼女は顔を背けてしまうから。微笑みを作ったまま倫也は彼女に向かって言う。
「乙矢さん。ちょっと、こっちにおいで」
 右の手のひらでソファの開いている部分を叩くのを見て、乙矢は憂色をさらに濃くする。その表情は、まるで日曜日の夜に学校に行きたくないと願う子どもを彷彿とさせた。とはいえ抵抗する素振りは示さない。わずかに間をあけて彼女はパソコンごと、おずおずと立ち上がる。こちらが敬語で話しかけているときは、真剣に応えなければならないと決まっていた。
 言われた通り乙矢はこちらへ近寄ってきて、彼の隣に落ち着く。とはいっても、ひじ掛けに寄った端の方だ。そして膝にパソコンを乗せて、キーボードを打ち込んでいく。その手つきはブラインドタッチを覚えたばかりのように、とろくさくてたどたどしい。どうやら緊張しているようだ。
「そんなに遠慮することはないじゃないですか」
 もっとこちらへ――。彼がそう言えば、乙矢は素直にこちらへ体を横滑りさせてくる。倫也がお願いをしたときに、そのとおりにするのは決まり通りだ。そして決まりに反すれば罰を与えることになっている。もっとも彼女が主体的に反抗したことは、こういう関係になって以来一度としてなかったけれど。
 もっと、もっと近くに。倫也がそう求め続けていると、お互いの肩や腕が寄り添う体勢になる。やろうと思えば肩を預けられるはずだが、乙矢はしなだれかかってはこない。吊り下げられた腕を気にしているようだ。そしてそれは倫也も同じだった。こんなありさまでなければ、きっと膝の上に座れとでも命じていただろう。
 室内では何事も起こらず、二人とも何一つとして口にしない。リビングは沈黙が支配していた。乙矢は相変わらずパソコンの画面と向かい合っていたし、倫也もそんな相手の様子を見つめていた。そうしてときおり彼女の髪を指先に巻きつけたり、背骨やうなじを撫でたりして遊ぶ。あるいは鼻先を近づけて深めに息を吸い込む。ほのかな石鹸の香りが鼻から喉へ流れていく。
 おとなしくしているうちに、次第に冷静さを取り戻してきたらしい。タッチ音は軽快さを復して、指先の動きも洗練されていく。彼は乙矢の横顔を飽きもせず眺めている。
 しばらく眠ったためか、体力が若干回復したらしい。血の気がなかった彼女の頬は、今では薄く赤みがかっていた。それが液晶の光にぼんやりと照らされて、同居した白さと赤さが、イチゴのミルクジャムみたいにお互いを際立たせていた。ブルーライトのつるりとした質感とあいまって、乙矢の風貌はどこか人形じみているように映る。
 何の気なしに彼は、乙矢の肩に腕を回す。ついで彼女の肩の……カーブを描く部分が、すっぽりと倫也の手の内に収まる。その光景を目の当たりにするたびに、彼は自分たちのあいだに体格差があるのを改めて実感する。そして毎回湧き上がる感覚には、いつも驚きを伴っていた。こんなにしとやかな腕が誰かの骨や関節を砕き、手足を引きちぎるほどの力を宿しているのが、彼にはいまひとつ信じられなかったのだ。身をもって経験したのにもかかわらず。
 倫也はこのまま乙矢を自分の方へ引き寄せる。そうしようとしたとき、鋭い声が彼の耳に入る。
「腕が――……!」
 瞬間。あっ、と気づきとも吐息ともつかない声が倫也の口から漏れ出る。しかし遅かった。まもなく凭れかかってきた彼女の身体が三角巾に覆われた腕に触れ、激しく強い痛みがつむじからつま先まで一気に駆けていく。
 また痛みは深くもあった。涙が眦から次から零れ、溢れ出た唾液が口の端から流れる。唇から出てくるのは唸りだけで、言葉にならない。ふつふつと怒りが湧く。しかし今の状況が自業自得なのは理解していた。
 乙矢はすぐに身体を退けて、ソファから降りる。どたとだと忙しない足音が遠ざかり、また戻ってきた。途端、倫也の額に影が落ちる。なんだろうと彼が見上げた刹那。口内に豆みたいに小さな何かが放り込まれ、グラスが唇に押し当てられた。謎の物体はしんと冷えた水とともに、彼の喉を通って腹の奥へと落ちていく。
 手負いの身で、無茶なことを。混乱と痛みのさなかで、倫也はそんな乙矢の声を聞く。諭すような口調の冷静で、真面目じみた声音だった。それだけならよかった。こちらを慮ってのことだから。しかしこの後に、聞き捨てならないことを言う。
「今はつらいかもしれないけど、痛み止めを飲んだからね。しばらく我慢したら楽になるから」
 我慢。
「なら、僕はいつまで我慢すればいい?」
「だいたい十五分から三充分くらいかな。頓服だし、もっと早いのかもしれないけど」
「違う」倫也は返す刀で告げる。
「一体、いつになったら君は反省するんだ?」
「わからない」
 彼女は答えた。即座に――ではなく、その前にいささかの空白がある。けれど、虚を突かれたという風ではない。それは躊躇いを含んだ沈黙だった。そして再び同じように間をあけたのちに、相手はさらにつけ加える。ごめんね。

        §

 初めて乙矢から謝られたことを覚えている。そのときは口伝えの軽いものではなく、敬語を使用した、もっと硬い文章の手紙だった。
 倫也は彼女と引き離されたのは、上司からの最後の電話からまもなくのことだった。乙矢の父親と内通していたのが露見したのだ。お互いの治療の妨げになるからと別の施設に移される。彼女もどこか別の場所に移送されたようだった。しかし具体的な居所を知る術も伝手も彼は持たなかった。今度こそ何もかもが終わった。そのように思えた。
 ――君は君自身が考えているよりも、はるかに自由なんだ。
 施設を移ってすぐの時分に担当のカウンセラーから、そんなことを言われた。今までかけられたどんな優し気な文句よりも、倫也の記憶に鮮明に残っている。
 ――君はどこへでも行ける。南の島でも、北の永久凍土でもどこでも。気持ちさえあれば。
「ここがいい。ここから離れたくはない」
 ――それも君の自由だ。でも何をしようとも責任がつきまとうし、してはいけないことはある。
 してはいけないことがあるのなら、どうして自分の身にあんなことが起こったのか。なぜ乙矢が生まれててきてしまったのか。これらは一体誰の責任なのか。それらのすべてを問いただしたかった。自分の両親や乙矢の父親のみならず、この世界のあらゆる人々に。そして贖ってほしかった。こんな本音はカウンセラーや医者には、けして打ち明けはしなかったけれど。
 一年ほどして退院したが、すぐには実家に戻らない。そのまま遠方にある寮制の高校に入る。大学もそこで受験して、合格する。専攻は希望したとおり経済学になった。両親(聞くところによれば会社の経営は順調であるらしかった)のほか、乙矢の父親にもいくらか援助してもらった。
 勉学に励む。教養科目は一年生のうちに進級に必要になる以上に単位を取る。資料調査やレポートの執筆の合間に株式投資や、女遊びも覚えた。忙しくしていなければ身が持たなかった。そうでなければ興奮とともに乙矢の姿や声が脳裡にまざまざと蘇ってきた。伸びやかな背筋や手足、意味を成さない絶叫や獣じみた唸り声。そんなものが。
 そうして月日が経ち三年生になってすぐのころ、彼は人づてに乙矢からの手紙をもらう。
 代理人からは嫌なら無理に読まなくてよいし、なんなら受け取らなくてもかまわないとも告げられた。だが彼はもらい受け、その日のうちに自宅で封を切る。恐怖感や嫌悪感よりも、彼女が自分に対してどのようなことを記したのかという興味が勝ったのだ。
 折り畳まれた便箋を広げてみると、時候の挨拶やこちらへの気遣い、そして謝罪の言葉が綴られていた。しかも印刷した文字ではなく、手書きで。
『私がかつてあなたにしたことはとても恥知らずで浅ましく、申し訳ないという言葉ですませるには、まったく足りないことを今では理解できます』
 特別に端整ではなかったけれど、まっすぐで歪みの少ない文字だった。大き過ぎも小さ過ぎもせず、そして過剰な丸みもなかった。神経質なまでに汚さに対して研ぎ澄まされたものがある字だった。
 これをしたためているときの彼女の気持ちを、倫也は知る由もなかった。もしかしたら一生懸命自分の頭を振り絞って内容を考えたのかもしれないし、あるいは誰かから教えられたお仕着せの文句をそのまま写した可能性もあった。しかし、こちらが読みやすいように手紙が書かれていたのは紛うことなき真実だ。
 そんな手紙に目を置いて、倫也は困惑する。どうしてこんなことが起こりえる? あの女には何もわからないはずなのに――。
 ふと、机に向かう乙矢の背中が思い浮かぶ。やや猫背になった、すっきりとしたラインを描く子どもの背中だ。そうして伸びやかな腕を懸命に操っている。己の過ちを詫びる文字を汚くならないよう、乱れないよう繊細に慎重に書く。そのすべては倫也のためなのだった。
 その事実が、彼にはとても信じられない。倫也が知る彼女は、こんな芸当ができる女ではなかった。まるで人間のような芸当が。
 ……目眩がする。無理やりメリーゴーラウンドに縛りつけられたみたいに、部屋の景色が渦を描いてずんずん動く。ふつふつと胃の中が熱湯のように泡立って、奥から酸っぱいものがせり上がってくる。
 よたつく足取りでトイレに向かい、便器の前に跪く。陶器にしがみつき、長いあいだへどを吐き続ける。ひき蛙に似た声をあげながら、滝のごとく腹の中にある物を吐き出していく。
 そうして内容物から色が抜けて、透き通るような色合いになっても、気持ち悪さはなお治まらない。しかし読まなければよかったとは、不思議と考えなかった。むせかえるような饐えた臭気のさなか。荒く浅い呼吸を繰り返しながら、ただ、ひたすら手紙の文を倫也は頭の中で反芻する。
『私があなたにしたことはとても恥知らずで浅ましく、申し訳ないという言葉ですませるには、とうてい足りない……』『私があなたにしたことはとても恥知らずで』『申し訳ないと……』
  “申し訳ない”とは一体どういうことだ、と倫也は思う。もちろん言葉そのものの意味は知っている。しかし詫びられた実感はない。乙矢が倫也に与えたのは、彼が求めているものではなかったからだ。もっとも自分が何を欲しているのかは、倫也自身でも理解していなかったが。そして欲望の正体が曖昧なために、理不尽な印象だけはかえって強く刻まれた。まるで焼きごてでも当てられたみたいに。
 しばらくのあいだ、倫也はその場で座り込んで呆然としていた。そのうち、彼はだんだんと腹が立ってくる。あいつから取り立ててやりたい。過去も、現在も、未来もすべて。本当に心から悪いことをしたと思っているのなら、こちらへ己の何もかもを差し出せるはずだ。
 どうしても乙矢に会わねばならない。どうせ頼んでも居所は教えてはもらえないだろうから、自分で探す。必修科目を除いて進級に必要な単位はほとんど取得していたから時間はあったし、必要経費をねん出できるくらいの蓄えは株で充分に稼いでいた。そして金が欲しい者はたくさんいた。
 手こずるかと思ったが、存外に早く見つかった。彼女はいま“連絡会”が選定した監督者の許で暮らしているという。さっそく顔を見に行く。時は三月、夕焼けと夜空の色が入り混じった狭間の時間だった。
 彼女がキリスト教系の高校で、学生をしているのは事前情報で知っていた。また、毎日どの道を使って通学しているのかも。乙矢の自宅にほど近い、三叉路の曲がり角に身を隠して倫也は待つ。すると、じきに彼女がこちらへ向かって歩いてくる。
 どうやら学校から帰ってきて、すぐにまた出てきたらしい。乙矢はブレザーの制服を身に纏っていた。あたりまえの話だが倫也が年月を経たのと同じように、乙矢も成長している。相変わらず血色は薄かったが、背はずいぶんと伸びていた。そして、顔や体にもやや肉がついたようだ。しかし幼いころの面影は顔の輪郭や、プリーツスカートから覗く両脚の線にどことなく残っており、それが大人に向かおうとする身体の傾向とあいまってどこか不思議な印象を漂わせている。
 そんな彼女の傍らにはリードでつながれた犬が歩いている。ジョットだ。
 すっかり様変わりしていた。というよりも、まったく別の犬だ。まずカスタードクリームみたいな毛色は白っぽくなっている。歩き方も以前のような軽快さはなく、何だかとてとてとした鈍い歩調だった。かろうじてジョットであると理解できたのは、乙矢が名前を呼んで話しかけていたからだ。ジョット、まだ暖かいね。これが日の名残ってやつかな――。こんな風に。
 一人と一匹は、どんどん倫也の方に迫ってきていた。ふと思いついて彼は曲がり角から踏み出し、普通の通行人のように乙矢の前に姿を現す。突然に他者が出現したためか、それとも一目で倫也だと気づいたのか。相手は驚いたような表情に変わる。しかしそれは一瞬だけで、すぐに脇に退いて一人分のスペースを作る。
 そうして軽く会釈すると倫也とすれ違い、彼女はそのまま過ぎ去った。体裁づけに少し歩を進めたのち、彼は足を止めて振り返る。こちらを顧みることなく、彼女は遠ざかっていく。倫也が期待していたことは、ついぞ起こらなかった。あのとき、あの場所では。ただ、犬だけがちらちらと気まぐれに見返った。
 このときのことを、乙矢に訊ねてみたい気持ちが確かにある。本当に覚えていなかったのか、それとも見て見ぬふりをしたのか。しかし実際に問いかけたことは、今はまだない。どのような態度で相手がどのように答えるのか、またそれに対して自分がどんな反応を示すのかがまったく予見できなかったからだ。そして、どちらであるにしても腹立たしいのには違いのも大きかった。
 ふいにチャイムが鳴り響く。乙矢を玄関に向かわせると、少しして両手にビニール袋を携えて戻ってくる。リビング部分を横切るとき、薬味の香りがかすかに倫也の鼻につく。そういえばオードブルやケーキやらを注文していたのだ。
「レストラン、予約しなくてよかったね」
 袋の中身を取り出しながら乙矢が言う。対して、倫也はうんともすんとも返さない。彼女もそれきり口を噤んだまま、食べ物を冷蔵庫に詰めていく。一つ一つ物を収納していく動作は、こころなしかゆったりとしているように映る。
 勢いに水が差されたためか、あるいは鎮痛剤の効果か。興奮はいくぶんか落ち着いていた。けして醒めたわけではない。昂りの種は依然として熾火のごとく燻っている。とろくさいと苛立つくらいには。
 詰め込み作業はやがて終わる。乙矢はキッチンから出てこないで、こちらに視線を戻す。やはり緩慢な動きだ。くわえて探るような目つきが、なおさら腹立たしさを煽る。しかし彼は怒りに任せて口火は切らずに、ただ黙って自分の隣――ソファの空いているところを叩いてみせた。
 乙矢はすぐに寄ってきて、今度は初めから相手に寄り添うように腰掛けた。その次の瞬間。倫也は身体を横に倒し、頭を彼女の膝に乗せる。
 下の方から、まじまじと乙矢の顔を眺める。薄く影が額から落ちるなかで、目を見開いていた。ついで唇にゆるゆると笑みを浮かべる。緊張がほどけたらしく、表情がさきほどよりも柔和な印象がした。
「髪の毛、くしゃくしゃにしてもいいですか」
 好きにしろ、と倫也は返事をする。彼女は十本の指先を髪のあいだに差し入れ、彼の頭全体をかき乱す。ときおり指が頭皮や耳を掠め、てのひらで気まぐれに皺を寄せたり広げたりして、あるいは頭蓋骨を軽く揺さぶりもする。それは撫でているとも、揉んでいるともつかない端境の手つきだった。けれども、こんな風に触れられているのはひたすらに心地よい。これで洗髪をさせたら、さぞかし気持ちがいいだろう。そして、実際そうであるのを彼は知っている。
 しばらくのあいだ、倫也は与えられる感覚に浸っていた。雨だれに穿たれる石みたいに身動ぎすることなく、静かに。そのうち目蓋が重くなり、身体から力が抜けていく。眠りに向かいつつあった彼の脳裡に、一つの言葉が泡のように浮かび上がる。『昔取った杵柄』
 かっと同時にあたりに光が溢れ、気がつくと目が開いていた。刹那、小首を傾げている彼女と視線が交わる。
「どうした、痒いところでもあった?」
 なおも両手を動かしながら乙矢が訊ねてくる。さっきまでのかきまわすような勢いは失われ、塵や埃を払おうとするのに似た丁寧な動作に変わっている。しかし穏やかな手つきで触れられる方が、如実にくすぐられている事実を突きつけてきて、かえってこちらの感官をざわめかせてくる趣があった。首筋や背中が波打つようにさざめく。
「キスをしろ」
 彼は命令するが、乙矢からの返事はない。頷きすらしなかった。ただ、彼の前髪をそっと掻き上げる。これが答えだった。
 まもなく彼女の顔を覆う影が次第に濃くなり、肉の薄い目蓋が徐々に細くなっていく。温もりを帯びた吐息が生え際にかかる。そのまま乙矢は倫也の額に唇を落とす。少し荒れて、かさついた唇だった。軽く触れるだけで吸いつくことはせず、すぐに離れる。
「ここだけでいい?」
 再び、倫也に向き直ったのちに相手は言う。そうしながら彼の額を親指でそっと撫でた。
「決まってるだろう」倫也は言う。
「やれよ、早く」
「相手が私でも?」
「どういう意味だ?」
「噛みちぎられる、とは思いませんか」
 倫也の髪を――頭を、乙矢はなおも撫で続ける。まるで脆いものを扱うみたいな、きわめて優し気な動きだった。しかし指先の穏やかさとは裏腹に、自分を覗き込む相手からは微笑みは消え、口角は下がりきって眉間には軽く皺が寄っている。
 こいつは、あの犬にもこんな風にしていたのだろうか。相手の表情を下から眺め、愛撫を受けながら彼は考える。問いに答えなければいけないのだが、どうしてだかそんなことが気にかかった。歯を食いしばなければならないほどの不快感が、ふつふつと彼の胸に湧き起こる。
「来てください」
 倫也がそう言うと、乙矢は素直に顔をこちらへ寄せる。鼻先がもうすぐ触れるか否か。彼は折れていない腕で、彼女の後ろ頭を掻き抱く。ついで髪の毛ごと頭を鷲掴み、自分の唇へ引き寄せた。
 ……いささかの間の後に、二人の身体が離れた。お互いに息遣いを整える最中に、もぞりときまり悪げに乙矢の膝が動く。しかし一向に立ち上がろうとはしない。まだ倫也が乗っていたせいだ。
 今回は血が出なかったな。あきらかに赤らんだ乙矢の頬を下から見つめつつ、そのように彼は呟く。きっと自分の顔も同じようになっているはずだ。

      *

 しばらく目を離していたあいだに、乙矢はどこにでもいる学生――子どもになっていた。昼間は制服を着て勉学に励み、放課後には部活で合唱に勤しむ。朝夕に飼い犬の散歩をするのが日課の子どもに。まさかこれが蜘蛛に変身するなどと、誰も想像しないだろう。
 休日は学校に行って部活の練習に明け暮れているか、家にこもっているかのどちらかだった。あまり他人のことは言えなかったが、彼女には友達がいないらしい。自分の飼い犬、ジョット以外は。
 練習がない休日や、あるいは大会やテストがない時期。彼らは気が向いたら公園で遊ぶ。ボール遊びや駆けっこなどのような、大したことはしていない。芝生やベンチの上で日向ぼっこをするのだ。
 そうして横に並んで日が暖かいね、風が冷たいなどと話しかけている。またウォークマンや楽譜を持ってきて音取りや、発声練習をしていることもあった。どうしてこいつにこんなものが出せるのだろうと感じるほどに透き通る声だった。(ときおり虫を食べようとしていたこともあったが、ジョットの鳴き声で未然に食い止められた)
 何度か倫也は適当にひっかけた女とともに、乙矢たちに接近しことがある。相手の腰を抱きあるいは腕を絡ませて、彼らの目の前やすぐ横をわざと通り過ぎるのだ。
 やはりこちらには見向きもしなかったけれど、いくらか溜飲は下がった。自分は平気でこういうことができるようになったのだと、それだけの力がついたのだと、なんだか誇らしい気持ちになれたのだ。
 そうこうしているうちに乙矢は大学の理学部に進学し、入れ替わるように倫也は織衣の関連会社に就職する。
 社会人になれば、今までのように体の自由は利かない。新入社員として覚えなければならない物事はたくさんあったし、将来のためにやるべきことも山のように存在していた。そこで息のかかった者に彼女の動向を監視させた。
 乙矢はサークルには入らず、授業の外はいつも図書館に入り浸っている。合唱とは高校の卒業とともに、すっぱり手を切っていた。このことを倫也は少しだけ惜しいと思う。望み薄なのが容易に察せられるのが、なおさら物寂しさに拍車をかけた。大学に入学する前に彼女は部活で使った楽譜や音取りに参考にしたCDやら、クラブで製作したTシャツやらを片っ端から処分していたからだ。
 もちろん今なら倫也が命じれば、乙矢はすぐに歌を紡ぐだろう。しかし彼女が倫也に抗したことがないのと同じように、彼もまた歌えと命令したことは一度もなかった。頼んでしまえば声の中に繕いや媚びが出る。ましてや自分たちのあいだには上下関係があるのだ。意図せずとも色気が出るに決まっていた。そんなものは己の求めてはいないのを、彼自身がよく知っている。
 だから倫也が彼女の歌声を聞くには密かに録音したものを再生するか、あるいは本人が気まぐれに口ずさむのを耳にするか、このどちらかしかない。そして可能なら本物がいいというのが、彼女を手元に置いている理由の一つでもあった。
 スマホのスピーカーからは混声合唱が流れていた。内容は英語だったが、曲目も歌詞も彼にはわかっている。讃美歌の四六一番――主われを愛す。乙矢が高校生だった時分、合唱部で行われた路上ライブを録音したものだ。明確に聞き分けることは出来ないが、この中には確かに彼女の声が紛れている。
『主イエスが私を愛しているのを知っています。彼は罪深い私のために天より降って、十字架につけられました。あまつさえ天国への門さえも開いてくださいました』
 自分たちのような半端な存在がこの世界にいるのを、救世主ははたして承知していたのか……音声を聞くたびに倫也は疑いを抱いていた。彼が救うのは純粋な人間のみだけでないのか。またこれを乙矢はどんな気持ちで歌ったのだろう、とも考える。
 自分たちがどんな生き物なのかについて、彼女と話したことはない。口にすること言えば、あれをしろ、これをしろ――こちらに歯向かうな、視界から出ていくな――そんな一方的な命令ばかりだ。
 こんな形でも生まれてきてしまったものは、いまさらしょうがなかったし、しょうがないことをグチグチ言っても何ら生産性はない。そんな暇があるなら、未来を見据えて行動すべきだ。そうとはわかっていた。でも、時々どうしようもなく寂しくなるのも本当だった。自分が寄る辺のない、ちっぽけな頼りない存在であるような気がして。そして彼女もどうか同じようであってほしいとも思う。
 悩ませている本人が洗面所から戻ってくる。汚れが落ちて気持ちいいのだろう。じっくりと眠った後の冬の朝のように、さっぱりとした清々しい顔だ。倫也は音声を停止させる。
 だが、相手は考えていたよりも目ざとかった。何をしていたんだと訊ねてくる。
「またお仕事? 役職持つと大変だ」
「なんでもない。お前には関係ない」
「わあ、感じ悪い。まあ、別にどうでもいいけどね」
 乙矢は絨毯の上――彼の足許に腰を落とす。自分の消し去った過去が、あずかり知らぬところで残されているのを彼女は知らない。この先も教えるつもりはなかった。楽しみは多い方がいい。
 さて。彼女は隣に座り直すと、置きっぱなしにされたノートパソコンに手を伸ばす。折り畳まれた筐体を開くと、再びディスプレイと向かい合う。倫也はそんな彼女の髪を指に巻き付けたり、掬い上げては滑り落としたりして弄ぶ。そうしながら、このように問いかける。
「お前、いま幸せか?」
 こちらを顧みる。しかし、すぐに答えは返ってはこない。乙矢は思案する。真剣な顔つきだった。それからどれくらい経ったのか。数秒とも、永遠とも思えた。それでも倫也はひたすら待つ。
「幸せかどうかはわからないけど、恵まれている方だと思う。とてもね」乙矢は口火を切る。
「学費や生活の心配をしないで、好きなだけ研究をさせてもらえて。今のところ病気はしてないし、食べ物にも困らない。行きたいところにもたぶん行ける」
「そうだ。で、それは誰のおかげだ?」
 また、乙矢は口を噤む。けれども今度は違うところがある。言い淀んでいるのではない。道筋が絶ち切られている気がした。
 “別荘”から連れ出され、病院に入れられ――本格的に教育を受け始めた後。彼女の人間性はめきめきと向上していっていた。もちろんそこには教師たちの努力も多大にあるだろう。一番大きな転換点はあきらかにジョットだ。
 初めて会った瞬間から、彼女とジョットは交流を重ねていった。毎日定時に餌を与えて散歩をさせ、ともに遊んで体を洗い、時期が来れば定期健診や予防接種を受けさせる。そして仲が深まるたびに、乙矢はどんどん人間に近づいていく。
 あの犬がいなければ織衣乙矢という存在は完成しなかった、と断言してもかまわないだろう。それが喪われればどうなるか。
 乙矢が大学二年生のときに死ぬ。老衰だった。食べる量が少なくなっていたらしい。水しか飲まなくなっていた。やがてそれすらも受け付けなくなり、ついに息絶えたという。季節は十一月も終わりに差し掛かろうというころ――晩秋だった。
 亡骸は郊外にあるペット霊園に葬られる。告別式を行うこともあるようだが、彼女はしなかった。ジョットは乙矢の立会いのもとに、しめやかに火葬され供養塔に納められた。業者への依頼や心づけはすべて彼女の手によって行われた。役所の手続きやペット保険の解約も、どうやら一人でやったようだ。
 それから乙矢は、あの犬にまつわるものの全部を処分した。リードやベッド、キャリーケースを始めとした必需品を始め、遊びに使っていたボールや骨のおもちゃなど、なにもかもを他人に譲ったりゴミに出したりした。家内では毎日掃除機をかけ、カーペットクリーナーを転がす。そうして今まで着ていた服をクリーニングに出した。ジョットがいた痕跡を何一つとして残そうとはしなかった。
 このころの乙矢を撮影した画像がある。報告がてら草の者から一緒に送られてきたものだ。
 ちょうど彼女はどこかのビルから出てくるところだった。もちろん気取られてはいけないので、物陰からこっそりと撮っている。だから、まるきり油断をしているはずだった。
 しかし写し出された横顔はきわめて引き締まっていた。眼はまっすぐに行く手を見据え、唇はなにか味のないものを噛み締めているように強く結んでいる。その表情は凛々しく、そして美しかった。
 今でもときおり乙矢は、そういう顔をする。たとえば倫也に急用が入って席を外したときに、彼女のところに戻ってくると目の当たりにできる。そんなとき彼はすぐに声を掛けない。こちらに気づくとあの得難い表情は、たちまち消え失せてしまうからだ。
 しかし彼女の顔つきを心置きなく、じっくりと観察できた機会は存在した。数年前、乙矢の父親が死んだときだ。
 彼の葬式において彼女は喪主をつとめていた。どこであってもそうだか、ことにビジネスの世界では体面が重視される。ましてや乙矢の父はそれなりの企業の長だった。ちょっとした隙が命取りになる。どんな事情があれど外見だけは取り繕わねばならなかった。
 突如として背負わされた役割を乙矢は見事にやり遂げた。過度に取り乱すことも過剰に義務感に走ることもない、抑制された態度で淡々と弔問客や僧侶をもてなし弔辞を読む。やはり思いつめたような美しい顔で。
『世に生きる人々と同じように、彼もまた多くの欠点を持っていました。恨む人も、泣く人もいたでしょう。しかし、それが送り出さない理由にはなりえません。今は彼の眠りがどうか安らかであることを願っています』
 儀式はつつがなく終わる。乙矢は父親の遺影を持ち、棺ともに霊柩車に乗り込んで火葬場まで向かう。倫也は行かなかった。経済的な援助を受けてはいたが、そこまでの資格は持ってはいなかった。そしてそんなものよりも、もっと良いものがある。
 倫也の勤める関連会社が、彼の実家の会社を合併した。不意打ちで株を買い占めたのだ。倫也はそこの役員の座に収まり、一年後には社長になる。事態の責任を取って経営者……彼の両親が前線から退いたからだ。あれから二人がどうなったかは知らない。食ったり寝たりに不自由しないだけの金は渡しておいたので、たぶん生きているだろう。子どもを身売りさせる親など、どうなろうと知ったことではないが。
 経営規模を拡大したことにより、親会社である織衣との繋がりはより密になり、同時に倫也と乙矢の父親との私的な関係性もますます深まった。公式に名代を任されるようにまでなる。彼の死後に事業を引き継いだのは(乙矢自身の意思や素質の問題もあるが)こういうわけなのだった。遺言書には自分の後継者と娘の後見人として、倫也の名をきちんと書かせたので横やりを入れられる心配もない。
 念には念を入れていくらかの根回しを行った後、ホテルの貸会場で行われた相続会議の場で乙矢と真正面から相対する。少しは動揺するかと思ったけれど、彼女は顔色一つ変えずに淡々と議論を進めていく。
 企業の社長というステータス相応の金は遺されていて、乙矢にはそれを受け継ぐ権利がある。倫也はそれを彼女に渡すつもりはなかった。身になるものはすべて取り上げて丸裸にする心積もりで、直前まで七面倒な法的な手続きを行い、各方面に話をつけていた。だがこちらから手を下すまでもなく、乙矢は遺産をすべて放棄する。
 ――もう、こちらは生きてるだけで充分ですから。せめて限定承認だけでもと勧める弁護士の言葉に、彼女はそう答えて頑として頷かない。波瀾含みかと思われた話し合いは、ある意味ではスムーズに平穏に終わった。
 ――少しだけお話をしませんか、二人で。関係者が三々五々に散るなか、行き交う人影に紛れて倫也は誘う。乙矢は思いのほか容易に乗ってくる。ラウンジで雑談を交えながら、いくらかアルコールを含んだあと、あらかじめ確保しておいた部屋に連れ込んだ。
 のように扱われても、乙矢はまるきり抵抗しなかった。まな板に目打ちされた魚のように仕打ちを受け入れていた。無力な相手を好きにできるという状況が、ますます興奮に追い立てた。抑えつけられた事実を刻みつけるように執拗に責めた。
 しかし調子に乗り過ぎたらしい。苦痛が極まって変化が解けた乙矢に、肋骨を三本持っていかれてしまう。右が二本で、左が一本だ。折れた骨があと数センチほど内側に向いていれば肺に突き刺さっていたと、医者から聞いて本当に肝が冷えた。
 ――ごめんなさい。担ぎこまれた病床で倫也は、そんな言葉を彼女の口から初めて聞く。思い切り暴れた後に正気に戻った乙矢は倫也のために救急車を呼び、恥を晒さないように服を着せてボタンを留め、治療が終わるまで付き添っていてくれたらしい。
 そしてその事実に彼は激しく動揺する。かかる事態に至った原因ははっきりとしていて、どちらに非があるかも明白だったからだ。手紙の件といい、本当に人間みたいな真似ができるようになったのか。
 感慨深い気持ちは、次の瞬間には砕かれる。
「これからは身辺に気をつけないといけないと思いますよ。いつ、どこで、誰が見ているかなんてわからないんですから」やはり腹が立つ。
 どの口が――! そう面罵する声が病室全体に響く。自分でも思ったよりも大きく。乙矢は呆気にとられているし、当人である倫也自身も己自身の大声に驚いている。何事かと看護師が病室を覗きに来なければ、いつまでも呆然としていただろう。
 訝しがる看護師を二人揃って、何でもないと追い返す。ついで、二人きりになった室内で彼は声を潜めて言う。こうなったのはお前のせいなのだから、最後までずっと面倒を見ろと。それが人間らしいということだ。これから後見人として人間とは、痛みとは何なのかを教えてやる。彼女に対して下した、最初の命令だった。
 思いつき限りにこき使う。自宅から着替えを持ってこさせたり、買い物に走らせたりするのを始め、家内の清掃や調理など細々とした用事をやらせる。ときには手足の爪を切らせることも、髪や体を浄めさせることもあった。
 もたらされる命令がどんな理不尽で破廉恥な内容でも、乙矢は嫌がるそぶりを見せず粛々と従う。そうしながら痛くはないか、気持ち悪くはないかとこちらに確かめてくる。まるで脆く、崩れやすいものに触れるみたいに、幾度となく。倫也は著しい居心地の悪さを覚える。
 樹に喰わないところを見つけると、乙矢を地下室に連れ込む。彼女のためにあつらえた場所だ。
 最初のときと同じように、返り討ちに遭うこともしばしばあった。骨を折られ、肌を引き裂かれ、肉をもがれた。入院沙汰になったこともある。そのたびに応急手当を行い、あるいは医者や救急車を手配するのは乙矢だった。
 正気を失いまた取り戻すたびに、乙矢は愁然として深く沈み込む。本当に心の底から心配しているような、そして傷ついた表情をするのだ。実際に痛手を受けて、苦しみを負っているのは倫也であるはずなのに。
 そうして流血沙汰が起ったときには必ず謝った。ありとあらゆる文句を使い、身体を投げ捨てて全力で謝意を示してみせた。あまつさえ痛みとは何かを知るために自分の腕を切りつけさえした。しかし、彼女がけして口にしなかった言葉が一つだけある。『許してほしい』ただ、その一言だけが。
 相手に傷を与えるつもりなら、ひたすらに恨み続けるよりもまるごと寛恕してしまった方が、場合によっては有効な方法であるのは知ってはいた。とはいえ、彼女が行ったことを簡単に許せるわけではない。そこまでしなやかで、強靭な意志を倫也は持ってはいない。
 また一度過去の乙矢を赦免してしまえば、自分の中で何かが決定的に終わる予感もしていた。まるで砂糖やドライイーストを入れ忘れたパンみたいに、失えば存在の前提が崩れる重大な何かが。
 だから、それだけは乙矢に譲るわけにはいかなかった。許すと言えば彼女は身軽になるだろう。次の瞬間に倫也の傍から去って、翌日には彼の顔や姿かたちを忘れるかもしれない。そんな事態だけは絶対に認められなかった。(おかげで学費やら生活費やら彼女に降りかかる負担のすべてを背負い続けなければならなくなったけれど、それもまた楽しかった)
 倫也は待っている。乙矢が無様に泣いて喚いて自分に許しを求めるのを、どろどろにしたりもみくちゃにしたりしながら待っている。どんな手を使ってでも、自分に下る言葉を彼女の口から、切羽詰まった声で聞きたかった。実際に乞われて許さないのと、言葉や態度で明確で示されないままであるのとではまったく別の話だった。
 もっともこの女を手元に置いて以来、ついぞ耳にしたことはないのだが。
「誰のおかげとは言えないかな。本当にここまで、いろんな人に助けてもらったから」乙矢は口を開く。
「もちろんその中には君も入っているよ。でも、一番を決めるのは違うと思う。君にも、他の人にもとても失礼だ。というか、質問の趣旨はそういうことでいいんだよね? 誰が一番、私の助けになっているのが知りたいって意味でかまわないんだよね?」
「あの犬は? ジョットは違うのか?」倫也は言う。
「ジョットは特別。友達だから。そもそもさ――……」
 後に続く言葉を上手く聞き入れられない。ジョットは特別。まるで網にかかった魚みたいに、その一言のみが彼の頭の中に残る。なら、自分はどうだろう。彼女にとって“特別”ではないのだろうか。あれだけ痛めつけたり、乱したりしたのに。
 彼女に訊ねてみたかった。倫也は口を噤む。どんな答えが返ってくるのか、想像するだけでも寒気がした。どんな結果が待っていようとも、乙矢は己の言い分に衣を着せはしないのを、彼は充分すぎるほどに理解していた。ただ押し殺した分だけ、憤る気持ちが鮮烈に浮き上がる。
 もっと、きちんと話をしなさい。そんなことを言ったのは誰だったろう。倫也には思い出せない。カウンセラーだったか、医者だったか、六本木の女だったか。それとも他の誰かか。
 ――私やあの子だけじゃなくて、他の人や自分自身とも、もっときちんと話をしなさい。真正面から向かい合って、注意深く相手の目を凝らして、言葉に耳を澄ませて。
 おもむろに彼はソファに座ったまま右腕を、乙矢に向かって差し伸べる。そうして口にする。抱きしめてください、乙矢さん。彼女は首を横に振る。
「骨は? じっとしてなくていいの?」
「いいから、早く」
「ダメだ。さっき無茶して、薬飲んだばかりじゃないか」
「乙矢、頼むよ」
 まだ躊躇いがあるらしい。乙矢はじっと何事かを考えている。いささかもすると再び倫也の横に座り、腕を彼の肩に回す。そうして彼の頭を自分の胸元に抱き寄せる。薄氷を踏むような慎重な動作だった。吊り下げた左腕が触れないように、ちゃんと隙間も作ってある。そんな風に気遣われている事実が、衣服越しに伝わる柔らかさや暖かさとあいまって心地よく感じられた。
 規則正しく音を刻む相手の拍動に耳を傾けているうちに、倫也の体から力が抜けていく。そしてもう、あの犬にはこんなことは出来ないだろうなんて考えたら、なんだかとても愉快になる。高揚した気分に身を任せて、彼はつい口を滑らした。
「結婚しましょう。乙矢さん」
 指輪はないけれど、約束だけはしておこう。家の中ならたまには虫になってもいいし、研究も辞めなくていいから。君が嫌ならあいつら全員手を切るし――。
 唇を動かしながら、倫也はふと気づく。変化を解くのはいつも乙矢ばかりで、自分はついぞ蜘蛛になろうとしなかった。それは一体どうしてだろう? そんな思考はじっと抱え込まれているうちに煙のように消えてしまう。
 彼の言葉に対して、乙矢は何も言わなかった。ただ黙って、腕の内にいる倫也をさらに強く抱きしめる。めきり、と体のどこかが音を立てて軋んだ。小枝を踏みつけたような、あるいはロープを締めつけるのに似た音だった。それは断続的に鳴り続け、そのたびに抱く力はどんどん増していく。乙矢は倫也を閉じ込めたまま、いつまでも離さなかった。

(2021.12.20)
ヘッダー:Nicolas Picard@Unsplash

余談(2022.1.1追記)

メリークリスマス&ハッピーホリデー! そしてパルプアドベントカレンダー2021の開催おめでとうございます。今年はどうにかクリスマスまでに投稿できてよかったです。日毎の担当者の方も、飛び入り参加の方も、どちらもお疲れさまでした。

気がついたら3年(2年)連続で執着心の強い様子のおかしい男を書いていますが、いかがでしたでしょうか。本当なら蜘蛛にクリスマスとか、性の6時間なんて関係ないのにかわいそうですね。

パルプアドベントカレンダー2019(妹に執着する男)

パルプアドベントカレンダー2020に投稿しようとして間に合わなかったもの(狼に執着する男)


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