たましい、あるいはひとつぶんのベッド 4-1

※タイトルは哉村哉子さんによる。

「それで? 君は私が何を、どうしたら満足なんだろう」
 やや間を開けたのちに相手を真っ直ぐに見詰めながら、ミチルがいう。それに対してノボルは先程よりも声量を落としつつ、こう答える。少し落ち着いたのか比較的穏やかな表情に戻っていた。
「わからないんですか。あなたの嫌がることですよ」
 それきり室内は静かになる。水面へ投げ落とした石が底の方へ沈んでゆくような、落ち込んだ雰囲気だった。その中でノボルは口の端を上げて笑みを作っている。その微笑は建設工事が中止になって行き止まりになってしまったトンネルを連想させた。
「俺はあなたが俺以外の誰かと結婚するなんて聞きたくなかったし、今だって、あなたが他人の妻だなんて考えると虫唾が走るんだ。本当ですよ。でも、あなたが嫌だとか言うから我慢したんです」

だから少しくらい、俺の話をちゃんと聞いてくれたっていいじゃあないか――。
 そう言いながらノボルはベッドの上から、眼下のミチルを真っすぐ見つめている。それは一度捉えられると何があっても相手を肯定するしかような、ある種の強さを持つ視線だった。彼のまなざしはかつて大庭恵一から向けられたものを思い起こさせた。
 ミチルは何も言わなかった。彼女は物を語る代わりにカップを手にとって、再び紅茶を口の中へ流し込んだ。ここで一気に飲み込んでしまったらしい。カップの真ん中くらいまであった中身が、今では底の方で小さく波打っている。

 彼女は、かつて夫からお前は真剣に祈ったことが――誰とも真剣に向き合ったことがないと言われたのをふと思い出す。それがどういうことなのか、彼女にはいまわかった。誰かとちゃんと話をしたいと、自分のいうことをわかってもらいたいと思ったことがずっとなかったのだ。
 

 もはや色んなことがまるで雨水が森の冷たい土の中に滲み込んで、地価の暗い水脈へたどり着くみたいに彼女には理解することができた。そして、また自分がこの人にどのようなことを口にするべきなのかも何となく理解できた。
「あの男と一緒にいるのは、つくづく惨めでしたよ。何より吐き気がしたのはあなたよりも、あいつの方が俺について関心があることですよ。あれは少なくとも俺の言うことをないがしろにはしませんでしたからね」
 深山ノボル君。そう、彼女は相手の名を呼びかけた。
「私はあなたが好きだよ。ちょっとばかしねちっこいけど、本当にひどいことはしないから」
「そんなこと、当たり前じゃあないですか」
「その当たり前のことが出来ない人が、世の中には思いの外たくさんいるんだ」
 言いながら、彼女は写真でしか見たことがない祖父の顔を思い浮かべる。塩見冬彦(きよひこ)は少なくとも三人の女性を力づくで屈服させた。かつての殺人事件の犯人やその被害者たち、それから、いま目の前にいる深山ノボルがその印だ。
 でも彼は婚姻を迫ることこそすれ、こちらを決定的に脅したり貶めたりして従わせることや、それを匂わせることは絶対にしなかった。その事実はとても素晴らしいことだと彼女は思う。
「君と話をするのは楽しくて、安心できる。気を遣ってくれているのがわかるし、嫌だといえばやめてくれるからね。そういうところも素敵だよ。たぶん恵一さんも、そういうところを好きだったんじゃあないかと思う」
 どうしてこの人はそこまで自分と結ばれたがるのか、ミチルはずっと考えていた。彼がこちらに向けている情熱は、彼女には持ちえない感情だったのだ。しかし相手が何かを激しく求めているのはわかっている。そして同時にそれが天から与えられる恩寵のような何かであるのも、また自分にはそんなものは絶対に彼に授けることがないのもわかっていた。

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