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我らの帝国にようこそ/sample

第一篇 お城暮らし辺境の生まれ

雪史のこと

 どの季節よりも長い時間をかけて、夜はようやく白み始めていた。墨をぶちまけたような暗い色の空が、ゆったりとだけれども薄花桜色に変わりつつあった。 十二月の朝だった。僕が裏庭を歩いていると、どこからともなくハーモニカの音色が聞こえてくる。病気が拡がって住民が家々に閉じこもってしまった街を思い起こさせるような、うら寂しい音楽だった。 演奏者の姿は見えず、また音楽がどこから聴こえてくるのかわからない。ここから反対側の洗濯場の辺りかもしれなかったけれど、それにしては音が遠過ぎるような気がしたし、屋敷の中のどこかなら反対に近過ぎるような感じがした。結局、いくら考えても発信源については見当がつかなかった。 でも、その奏者が誰なのか僕にはわかる。雪史だ。以前にも幾度か、同じ曲を吹いているのを聞いたことがある。どうも彼にはこの曲に深い思い入れがあるらしい。 音楽は冬の澄んだ空気に乗って、桜の木や屋敷を囲んでいる壁を越え、どこまでも遠くに響いてゆくようだった。例えば荒野の果てや、世界の終わりまで。 でも僕は知っている。東京府の十五区内にはだだっ広い荒野なんてないし、地球は丸いから世界に終わりなんか存在しない。屋敷を出て壁の向こうに一歩踏み出せば、外には街があって、そこは色んな人々が暮らしている。もしかするとその中にも僕みたいに、彼の音楽を聞いている誰かがいて、眠りを妨げられて怒っているのかもしれない。外の世界では時折そういうことがあるのを僕はよく知っていた。 史郎が帰ったら、言いつけてやろうかな――。次第に明るくなってゆく庭の中で、壁に組み込まれた石を撫でながら僕は思う。あいつのハーモニカがあんまりにうるさいから、ちっとも眠れやしなかったんだと。そんな風に言いつけたら彼は雪史を怒るだろうか。彼が叱られている様を想像すると何だか愉快な気がした。 ぐにもつかないことを考えながら壁沿いに歩き出すと、後ろにまとめた髪のおくれ毛が首筋をくすぐった。同時に白い息が吐き出されて空気の中に溶けて消えてしまう。
 季節は十二月だった。

屋敷
 僕たちが暮らしている屋敷は、石造りの壁で周りをぐるりと囲まれている。どんなに小さな疵も穴もない、どこまでも続く完璧な灰色の壁だ。一体それが何の石で組み立てられているのか、僕にはわからない。混凝土(コンクリート)であるのかもしれないし、あるいはどこかの山から切り出してきた石なのかもしれなかった。
 煉瓦で組み立てるのと同じように、壁の石はブロックごとに漆喰で一つずつ繋いであった。それぞれの結束は堅く、丈夫だった。どんなに足蹴にしたり、つるはしやスコップを叩きつけたりしても、確固として揺ぐことはないだろうと思えた。
 そのような頑丈な石で、堅牢な壁が作られている。だからこの中には誰も立ち入ることが出来ないし、僕や雪史もここから出てゆくことは出来ないということになっている。この家の主人たる史郎が許さない限り――。
 史郎は壁の外に仕事を持っていて、そのために外の世界を自由に行き来する特権を持っていた。思い立てば彼はいつでも好きなときに、好きな場所に赴いて、好きな人と好きなだけ話し合うことが出来た。その代わりに仕事の予定が入れば熱があろうが頭が痛かろうが、嫌でも外に出掛けたり、あるいは今みたいに旅に出ていったりしなければならなかったけれど。そうして僕と出会ったのも彼が仕事をしているときだった。
 三年前の秋。彼にこの場所に招き入れられたとき、一緒に壁を抜けてきたときのことを僕はあまり思い出せない。彼がどのようにして壁を通り抜けるのか、僕の知らない隠された出入口があるのか。そいういうことは一切わからない。僕はただ水の中を泳いだあとの疲労と空腹で、朦朧としたまま史郎の腕に抱かれていた。
 多分、雪史も僕と同じようなものと思う。きっと何らかの理由で史郎に壁の中に迎え入れられ、外に出る方法を知らない――あるいは知っていても行使できないまま生活しているはずだ。
「出口も入口もここではお化けみたいなものでね。壁を抜けるには、ちょっとしたコツが必要なんだ」
 それからずいぶん経ち体力が完全に回復して、自分で創った新しい名前で呼ばれることにも、糊のきいた服や磨き抜かれた靴にもすっかり馴染んで(ここに身を置くまでそんなものは着たことも、履いたこともなかったのだ)きた時分のことだ。僕は存在しない入口について、そして出口について彼に訊ねたことがある。彼の車で庭をぐるぐる回っていたときのことだ。秋の花々が目にも鮮やかだったのを覚えている。すると、すぐ前の運転席からこのような答えが返ってきた。
「それは練習すれば、誰でもできるようなことなの? 自転車に乗るみたいに」
 僕はさらに掘り下げて聞くと、相手はそうだねと返してくる。その後わずかな間を置いて、思案してから彼は続ける。
「コツさえ掴めば十中八九君にだって出口がどこにあるのかはわかるし、きっと壁から抜け出せると思う。けれども僕にはその方法を教えることが出来ない」
「どうして?」
「ある種の技術というのは、身体の癖のようなものだ。各々によって捉え方が違う。君が正しいと思った方法でも、僕には通用しない。逆もまたしかりだ。だから僕自身が出入りするのに使っている方法は他人には教えられないし、もし仮に出来たとしても君には教えない」
 だって君には必要ないものだろう。そう史郎は言う
「うん。僕には必要ない」
 僕がそう答え、この話は終わった。それから今までずっと、この場所から出てゆく方法を知らずにいる。そして、自分からここから去っていくことはないとも思う。
 僕は史郎の屋敷において、すべてを許されている。息を吸うことも何もかもが。ここは極めて安全で、とても心地の良い場所だ。だからあえて背を向けてこの場から抜け出さねばならない理由はない。ここにいる限り僕はとても、とても幸せだ。
 けれども。ときどき何となく、出口を見つけ出せそう気がすることがある。そういうとき僕は壁に沿って、屋敷の周りをぐるりと歩く。


ボトルメールのこと
 こうして壁伝いに歩いていると、時々手紙入りの瓶が落ちていることがある。どうやら外から投げ込まれてくるらしい。中に入っている髪を広げてみると、ただ一言、『あなたは?』と書いてある。
 相手に返事を出したことはない。けれども手紙は継続的に投げ入れられるし、空壜は僕の部屋に増えてゆく。わざわざ手紙を返さなくったって僕には関係ないし、全然平気だ。ここでは誰かに何かを頼んだり、助けを求めたりする必要はない。それくらいに史郎の屋敷はとても、とても安全な場所だ。
 相変わらず正体不明な音楽は続いている。落ち葉を踏んで歩を進ませながら、僕は独りきりで流れてくるそれに耳を澄ませている。ハーモニカの音色はやはり虚しい、心寂しい音をしていた。まるで住人が去って滅んでしまった街のように。
 彼が好んで演奏するのはいつも同じ曲だった。その曲の名前を未だに知らない。幾度か訊ねようと思ったことがあるけれど、顔を合わせると雪史はいつも過敏なとげとげしい雰囲気をしていて、何となく声を掛けるのは憚れた。そうして後にしよう、後しようと考えているうちに僕は用事を忘れてしまう。だからいまだにこれが何という題名なのかを知らないし、雪史がどうしてその曲を好きなのかはわからない。
 でも彼の音楽に耳を傾けているとき、僕は少しだけ悲しい気持ちになる。

また雪史のこと
「今日は早く起きるんじゃなかったのか」
「もう起きてるもの」
 執拗にベッドを蹴りつけて揺さぶってくる雪史に、僕はそう答える。嘘はついていない。彼が知らないだけで、僕は屋敷の周りを歩いていた。だから僕の口にしたことは本当のことだ。
 屋敷をぐるりと一周して戻ってくると、僕は自分の部屋に戻って、もう一度寝台に入った。別に眠たくはなかったから、そのまま起きていてもよかったのだけれども、そんな気にはなれなかった。あまり面白い気分ではなかったのだ。かといって朝ごはんや、史郎が帰ってくるまでにはまだ相当の時間があった。
 雪史と朝ごはんを作ってもトロくさいし手際が悪いって怒られるし、たまに新聞を読もうかと思っても泥棒がどうしたとか、誰彼が殺されたとか、天皇陛下の御容態がどうのとか、そんな記事ばかりが載っていると考えると気が滅入って仕方なかった。かといって他にしたいことは思い浮かばない。いや、しなければならないことはある。
 剣術――。その言葉を思い浮かべた途端、とてつもない気持ち悪さが喉の奥からせり上がってくる。それは極めて絶望的な吐き気だった。例えていうなら割れてしまったワイングラスと同じくらいに、回復の見込みがない不快さだった。
 史郎が仕事で長い旅に出ているあいだ、僕は彼から雪史を相手にして剣術の練習をすることを言いつけられていた。そして確かに、何日かは言われたとおりにこなした。
 けれどもここ二、三日かは頭が痛いとか、体がだるいとか適当な理由をつけて朝は寝坊を決め込んでいた。他人と剣でがちゃがちゃするのはあまり好きではなかったのだ。そして今日も勝手に休むことに決めていた。
 布団の中に深く潜り込んで、相手が与えてくる攻撃にひたすらに耐えていると、急に揺れが止む。僕は頭から被って布団を持ち上げて、外の様子をうかがう。すると蝋燭を吹き消しあとみたいな暗い色のズボンを履いた両脚が、ぼうっとベッドの脇に立ちつくしているのが見える。
 おい、と向こう側から何か話しかけられる。けれど僕は無視した。隙を見せれば相手がこっちの弱い部分を刺してくるのが、はっきりとしていたからだ。それになまじっか僕が悪いから、口答えは出来なかったのもあるけれど。
 ひたすら口を噤んでいると、彼は再び寝台の脚に思いっきり蹴りを入れ始める。今度はさっきよりも強い力だった。所詮は人の力なので、嵐のような激しさはなかったけれど、それでも頭がくらくらするくらいには強さがあった。
 狼狽している僕の様子には構わずに、雪史は寝台をがんがん蹴りつける。僕は堪らずにシーツから顔を出す。
「お前なんかになんのかんの言われなくたって、僕は自分でベッドから出るし、自分で着替えて顔も洗うし、食堂に行くし……」
 彼に向ってこう言ってやる。そうしてシーツを取り払って、雪史と向かい合った。彼はとっくに寝台を蹴るのをやめていて、じっとこちらを見つめていた。
 彼はかまどの中にある残灰に似た色合いの立て襟シャツを着て、そして――こいつは変な奴だから部屋の中なのに鳥打帽子を被っている。そのために額に影がかかって、細やかな表情はうかがえない。
 ただ、僕は知っている。杏子の種のように大きな、煤色の瞳があるのを知っている。そうして彼の両目は、誰にも見つかっていない湖みたいに澄んでいることも。そんなのに見つめられていると思うと、何だか不思議な感じがした。
 そんな眼でこちらを見据えたまま、雪史はこんなことを言う。
「別に君が寝坊しようが、俺は口を挟まない。起きたいなら起きればいいし、そうでないなら起きなければいい」
「じゃあ、放っておいてくれよ。なんで乱暴なことをするんだよ」
「でも、君がどちらを選ぶにせよ、それであいつから褒められたりがっかりされたりするのは俺じゃあないからな。君は自分でこうしようと決めて、行ったことの結果を君自身で引き受けなきゃいけないんだ。もし君が自分のしたことで他人から怒られたり、殴られたりしても誰も助けてはくれないんだから」
 底冷えしそうな視線で、僕を下に見据えたまま雪史が言う。言いたいことはいろいろあったけれど、僕は相手にそれを返すことが出来ない。彼が口にしていることは圧倒的に正しかったからだ。どんなに上手に反論をしても、絶対にこちらが悪者になってしまう。
 それきり部屋の中には沈黙が降りる。雪史は僕が話し出すのを待っていた。ひたすら黙り込んでいると、彼はある瞬間、ふっと息をつく。それからついで、もういいと口にした。どこか投げやりで、突き放したような調子だった。
 そのまま彼は踵を返して、部屋を出てゆくこうとする。次第にピンと伸ばした背中がどんどん小さくなってゆく。そうして開きっぱなしのドアに近づきながら、こんなことを僕に向かって言う。
 あいつをお迎えするなら、本当、もういい加減に出て来なよ。今日は早く起きて、準備するんだろう。
「寝坊したら起こしにこいって命令したのは君だからな。自分で頼んだことくらいは、ちゃんとしろよな」
 こちらを一瞥したのちに、彼はドアノブに手を掛ける。目があった刹那、僕はナイトテーブルに置いてあった水差しのグラスを手に取って大きく振りかぶる。けれど、何の意味はなかった。きわどいところで彼はドアを閉めてしまったからだ。ドアにぶつかった硝子が粉々に砕けて、こまやかな破片が雪のように床に散らばった。

まだまだ雪史のこと
 初めて雪史と会ったのは、やはり三年前のことだ。そのとき僕は十一で、彼は十六だった。
 気がつくと僕はどこかの部屋の、寝台の上に寝かされていた。とても清潔で完璧な寝床だった。一つのほころびのない布団は暖かく、シーツからは石鹸の香りがした。
 所在なく首を動かしてみると、寝台の傍らにある小さいテーブルの前に誰かがいるのが目に入る。寝起きであるために視界がぼやけていて相手が、どんな人なのかは判然としない。
 その人は銀色のお盆の上に、何かを片付けていた。おそらく、薬か消毒液だろう。つんと鼻をさす独特のにおいがした。それらが手際よく盤上に納められてゆく様を僕はじっと眺めている。
 しばらくのあいだ机の上を整えていたけれど、ある瞬間誰かは何かに肩を叩かれたみたいに、ふとこちらを見遣った。そうしてお互いに視線がかち合うと気がついたのか、と訊ねてくる。その人が雪史だった。
 そのときから雪史の背筋は糸で引いたようにすっと伸びていて、大きくはっきりとした煤色の瞳をしていた。堂々とした、大人びた目つきだった。きっとこの人は今まで生きていて、卑屈になったことはないのだろうなと思うような眼でもあった。僕とそんなに年が変わらないのにも関わらず……。
 僕がこの屋敷に招かれるずっと前から、雪史は書生として史郎に仕えているようだった。主人である史郎の身の回りの世話をするのと引き換えに、彼はこの屋敷に住まわせてもらっているらしい。例えば彼が脱いだ服を片付けたり、皺のついたズボンにアイロンをかけたりするとかそんなことだ。
 あるいは彼が旅行や仕事に行くときに、手足となって、あれこれと必要なものを探し出すのもこいつの役目だし、申し付けられればいつでも、お菓子や食事を用意したりする。そういうことが、彼に課せられた義務だった。その中には僕の面倒を見るのも当然のように入っている。
 そのために、彼はよく僕のしていることに首を突っ込んできた。別にそれはいいのだけれど(仕事だしね)、僕が気に入らないのは雪史の言い草だった。まるで自分には一切の誤りもなく、圧倒的に正しいというような物言いなのだ。
 奴の世界観の中では僕が信じていることや、それに基づいて行っている物事は絶対的な間違いで、そこには何の疑問も余地はないと確信しているようだった。そんな奴の話を聞かされていると、何だか息が詰まる感じがした。何より一番つらいのは、彼の言い分が実際に正しいということだった。その事実は僕をとても惨めな気持ちにさせた。
 もう正直に言ってしまおう。僕は飴宮雪史が大嫌いだ。

      *

 屋敷の廊下を早足で進んでいる。この青い絨毯敷きの廊下は悪い夢みたいに長いので、のろのろと歩いていたら、とても食事の時間には間に合わない。それに髪を結うのや、服を選ぶのにひどく時間がかかったせいもある。
 特に手こずったのは髪を結わえるリボンだった。シャツはおそろいで黒いのを着ることになってるから別にいいんだけど、リボンの方は今日のシャツに似合う形のものをなかなか見つけることが出来なかったのだ。
 おかげで引き出しを片っ端から開かねばならなかった。また部屋のあちこちに散らばったグラスの破片を片づけるのも骨が折れた。そうこうしているうちに、いつも起床しているはずの時間を大幅に過ぎていた。言動はともかくとして、彼が起こしに来たことに(前の日に頼んでいたとはいえ)間違いはなかったのだ。僕は彼に助けられている、と考えると何となく口惜しい感じがした。
 駆け足で螺旋階段を降りてそのまま一回の廊下を突き進むと、絨毯の上でぱたぱたと忙しない音が鳴る。そのままの勢いでまっすぐに先に進んで、角を曲がったところで、ワゴンを押した雪史と出くわした。
 ワゴンの上には小さなお皿がいくつもあって、その一枚一枚にちょっとした厚みのあるビスケットが乗せられていた。英国式のビスケットだ。史郎が家にいるときには毎朝食べていた。毎朝。家にいるとき――。
「君は本っ当に頓馬だな」
 次第に血の気が引いてゆくこちらを眺めながら、彼は事もなげな口ぶりでそんなことを言う。雪史が一言ずつ発する度に、自分の胸の鼓動が早さを増すのがわかった。雷が落ちたみたいに目の前が真っ白になって、何も思い浮かべることが出来なくなった。『どうしよう』の一言だけで頭の中がいっぱいになる。そんなときに雪史の言葉が不意に耳に入ってくる。
 とにかく食堂に入れよ。あいつ、まだ荷物を解いて身支度してるからさ。先に席でもついて、ニコニコ顔でお帰りなさいとか言えば、少しは点数を稼げるんじゃあないか。知らないけど。
 そうだ。ちょっとでも機嫌をとりにいっておかなくちゃ。それならまだ、怒られてもましに違いない。こんな考えで、僕は雪史の言う通りにすることに決める。それが今もっとも理にかなった身の振り方だと思ったのだ。彼はどんなときだって、僕が怒ろうが泣こうが関係なく正しいことしか言わなかったから。
 僕は雪史と一緒に食堂に入った。一通りの準備は終わっているらしく長いテーブルには既にクロスが掛けられ、二脚の椅子が用意されていた。その上に磨かれた食器類が鋭く光を放っているのが目に入る。そうしながら、何から何までこいつだけでやったんだなと僕は思う。それからいつもみたいに決まりの悪い心地になる。
 その場に立ち尽くしている僕を尻目に、雪史はビスケットが乗せられているお皿をワゴンから順々に取り出して、長テーブルの上に次々と並べてゆく。過剰に広すぎることも、狭すぎることもない適切な間隔で。一枚ずつ丁寧に。
 僕は雪史の傍に寄ると、彼に向かって両手を差し出す。雪史は何も言わずに、こちらにお皿を渡してくれる。受け取ったそれを僕はテーブルの上に置く。そういう風にして僕たちは卓上を食器で埋めていった。
 やがて食卓が端から端までビスケットのお皿でいっぱいになると、僕たちはどちらともなくお互いに離れていった。僕は席について、雪史は僕と反対側にある蓄音機まで寄ってハンドルを回し始める。
 それからしばらくのあいだ部屋の中では、きりきりとネジやゼンマイを巻くみたいな音が響いていた。僕は離れた場所で雪史の顔をじっと眺めている。
 そうしてぼんやりとしているうちに廊下の方から、かすかに靴音が聞こえくるのに気がつく。僕は雪史から入口の方へ視線を移し、じっと耳を澄ませる。余裕の感じられる、ゆったりとした靴音だ。
 その音の主は次第にこちらに近づいているらしかった。足音は徐々に大きくなり、ついに部屋の前で止んだ。少し間を置いて、にわかに食堂の扉が開く。
 この屋敷の主人である、吉野史郎が僕たちの目の前に現れる。

吉野史郎
 史郎の顔立ちは最後に会ったとき――一月ほど前と変わらず、整っていた。きっと、彼と出会った殆どの人たちが彼こそが過不足のない、百パーセントの男性だと考えるはずだというのが簡単に想像出来た。まるで昔話や童話の中に出てくる王子さまみたいに。それくらいに史郎は美しい顔立ちと身形をしていた。
 雪史が音盤に針を落としたらしい。瞬間、吹き散らされる薔薇の花びらみたいに、豊かで華やかなピアノの音色が流れ始める。ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』だ。この曲はこの家の主人のお気に入りで、これを蓄音機で鳴らしながら食事を摂るのが好きなのだ。
「ただいま、僕の小鳥たち。良い子にしていたかい?」
 彼はそう言いながら、つかつかと僕のところまで歩み寄ってきた。そうして唇を僕の頬に寄せる。
 離れるときにお互いの頬が掠れ、わずかだったけれど皮膚がじかに触れ合った。日焼けのしていない、剃刀負けのない肌はとても柔らかい感触がして、僕はつい熱に浮かされたような気持ちになってしまう。そんな夢見心地のままで、僕はおかえりなさいと口にする。けれど、彼は微笑んだまま何も答えなかった。
 史郎の鼻先が遠ざかると同時に、傍から様子を見ていた雪史が上座にある椅子を引く。気がつくと目の前にソーサーが置かれている。早く食べてしまえ、というわけだ。食器類の片づけは彼の仕事だから当然と言えば当然だった。
 彼の方を見遣って、史郎は口元にかすかに弧を描く。けれども雪史は笑い返すことはせず――それどころか、けして相手を見ようとはしなかった。椅子の背もたれに手を掛けたまま、彼はただ目を伏せている。
「小さい子でも出来ることが、君には出来ないのかい」
 史郎が言う。言葉を掛けられた雪史はいささかのあいだ黙り込んでいた。けれど、結局は求められたことを口にする。
 ……おかえりなさいませ。発せられた声音が低く、重苦しかった。まるで冷たい土の下の、さらに奥深い場所から、地上に這い出そうとしている奇妙な生き物を連想させるような声だった。
 ふむ――言葉を聞き届けた史郎は小さく頷く。そうして僕から離れて、雪史の方へ寄ると椅子に腰を落とす。瞬間、もう用はないとばかりに書生は背もたれから手を放して、主人の許を後にしようとする。そのすれ違いざま、史郎の指先が彼の手の甲に触れる。一瞬だけ。凍りついた水面や、今にも千切れ落ちそうな花びらを撫でるみたいに。中指の先がさらりと皮膚の上を滑った。
 どうやら手を掴んで引き止めたかったらしい。でも、その目的はもう少しのところで叶わなかった。未練がましそうな相手の様子に構わずに雪史はどんどん歩み去ってゆき、ついに食堂から出ていってしまう。そのあいだ彼はけして史郎の方を振り向くことはしなかった。
 入口の扉がばたりと音を立てて閉まり、雪史の姿が完全に見えなくなってしまうと史郎は白けたように鼻を鳴らす。
「身体だけ大きくなるのも困り者だね。可愛気というものが欠片しか残ってない」
 お前は素直なのにねえ、と卓上に頬杖をつきながら史郎は言う。そうして閉ざされた扉から、こちらに視線を移す。お互いに目が合うと僕は曖昧に笑みを浮かべる。彼らの間柄について僕が口を出すべきことは何もなかったし、あったとしてもそれに干渉するべきではなかったからだ。僕の立場というのはそういうものだった。
 笑い顔のままひたすらに口を噤んでいると、そうだと相手がいきなり大きな声を上げる。ついで、僕にお土産があるのだと彼は言う。
「何だろう。野球盤かな?」僕は訊ねた。
「さあ、どうだろう。見てみればわかるさ。でも、まずは腹ごしらえだよ。お土産は食べたあとに開けてあげよう」
 ビスケットをとると、思い切りかじりついた。楽しみだなあ、と僕は努めて平静といった調子で話す。そして彼と同じように一つ目のビスケットに手を伸ばした。その瞬間だった。思いきっきり骨を叩きつけた音が室内に鳴り響く。
 気がつくと史郎が身を乗り出し、正面から僕の手を掴んでいる。まるでもう二度と離さないみたいに、強い力で。そしてきりきりと僕の手首を締め上げながら彼はこんなことを言う。
「とても可愛い掌をしているじゃないか。まるで匙しか握ったことがないみたいに」

【本編へ続く】

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