グリゴリの結婚(後編)
とはいえ、あまりおめでたい雰囲気には見えなかった。青や緑などの寒色を主体にしているために全体の色彩が暗いのもある。けれど、一番は人間だ。男の人の方はそうでもないけど、女の人はみんな顔つきが緊張した、かたい表情にみえて怖かった。もちろん祝いの場らしく笑みを浮かべている人もいるにはいるけど、目が大きく見開かれていて、吊り上った唇も三日月みたいな美しすぎるカーブになっていて何だか薄気味悪い。
「あるとき天から二十人の天使が地上に降りてきて、アダムとイブの子孫の娘たちと結婚した。これはそのときの模様を描いたものだ」
「その際に彼らは占星術や医術、薬学とか化粧の仕方とか、剣と槍の作り方などを人間たちに教えた。これらはまさに画期的な出来事で、天使たちの知識により人間たちの生活水準は上昇し、日々の暮らしは前よりも断然楽しいものになった」
「しかし快適で愉快な生活も長くは続かない。次第に人間たちは私利私欲のために与えられた恵みを利用し始める」
「地上は憎しみと猜疑心に満ちはじめ、いさかいや戦争がそこかしこで始まり、やがて神の怒りに触れた。神は従順な者ノアとその家族、そしてひとつがいの動物たちなど一握りの生き物を残して、地上にあるものすべてを洗い流した」
「嘘だ」私は言う。
「日曜日にはいつも教会に行くけど、そんな話は知らない。グリゴリなんて名前の変な天使、聞いたことない」
「牧師や神父から教えられたことが全てじゃあいさ」
それとも君は誰かかが一から十まで、あらゆることを親切に教えてくれると思っているのかい? そんな風に男から問いかけられると、私は何も言えなかった。唐突に問いをかけられたのもある。けれど私に口を噤ませたのは、注射針に似た内側に無理やり入り込んでくるような鋭い口調と、言葉の端々にこちらを抑えつけようとする力が感じられたせいだった。
もちろんそんな相手の姿勢に、こちらも不快感を覚えないではない。でも大人である彼は、子どもである私よりもはるかに多くの言葉を知っているだろう。真正面から突っかかっても、とても敵わないと思った。また下手なことを喋ったら、もしかすると殴ってくるかもしれない。大きな拳や手のひらが振り下ろされたときの、衝撃と痛みを考えると身震いがした。
「そんなにかたくならなくていい。怒ってはいない。怒ってはいないからね」
私が怯えているのに気づいたらしい。急に猫撫で声でそう宥めてくる。しかしそんなことを言われても怖いばかりで、声音の甘やかさや優し気な印象を私は信じられない。繋がれている掌の力強さがなおさら恐ろしさを煽っている。
「ただ、君にはこの絵をもっとよく見てもらいたいだけなんだ。そのために、僕は君をここまで連れて来たんだよ」
「嫌、もう見たくない。話なんか聞きたくない」
「そんなことを言わないで。ほら、あそこに君にそっくりな人がいるろう。ねえ」
口にしながら彼は絵画の一角を指で示すが、私はそっぽをむく。早く帰りたかった。男に対して反感を持ったこともあったけれど、先生のことも気がかりだった。
一体この展示場に来てから、どれくらい時間が経っているのか。もしかしたら私がいなくなったことがとうに表沙汰になっていて、先生はすごく怒っているかもしれない。先生は一度感情を大噴火させると、静まるまでがとても長いのだ。
「機嫌を直して、いいものをあげるから」
ひたすら黙り込んでいると、そう男は言う。私はさりげなく彼の手を振り払おうとするけれど、固く手を握られているために望みは叶わない。その肉がつぶれ、骨まで軋みそうなくらいの力の強さからは一つの意志が感じられた。一度こうして捉えたからには、もはや絶対に逃がしてはならないという意思が。
そのうちふっ、とランタンの灯が消える。目隠ししたみたいな闇の中で、私は男が舌打ちしたのを私は聞く。ついで、手を繋いでいる方の腕が糸のように引っ張られるの同時に、私たちはまっすぐにのびた通路を再び歩き始めた。もっとも私の方は引きずられているような形だけれど。
それでも何もないただの暗い通路をひたすらに進むうちに、先の方でマッチを擦ったみたいに白い光が不意にぽっと灯った。私はそれが何なのかを直感的に理解する。出口だ。
かつん靴音が鳴って風を切る感じがした次の瞬間、私は前につんのめる。駆け出そうとしたところで、男が私の手を捉えたままだったからだ。そのまま額から床にぶつかりそうになったけれど、手を掴まれていたから痛い思いはしないで済む。
「まだダメだ」
いいものをあげると言っただろう、と口にしながら男は手を離す。そうしてこちらの背中に回り込んで、リュックの留め具をぱちりと開く。身動きがとれない私は手持無沙汰になって、何となく辺りを見回す。さっきまでは暗くて分かりにくかったけれど、外から入り込む明かりを間近にした今では、自分がどんな場所のいるのかをはっきりと理解できる。
私と男の周りからは絵画は消えていて、そのかわりに背の高い棚や腰丈のワゴンがいくつもあった。その中には辞書くらいの厚さの本とか、大小さまざまなぬいぐるみとか、柄の入ったマグカップとか色んなものが置いてある。どうやらここは展示場ではなく、販売コーナーであるようだ。
近くにある棚のから男は一つ、何かを手に取って私のリュックの中に入れた……入れようとした。その動きがあんまりにも素早かったので、私は相手の手元を確かめようと振り返ったときには、もう彼はリュックの蓋を閉めている。
そうして留め具を落とすと、男はとても満足げな顔をする。まるでは仕切りったランナーを思い起こさせるような、確固たる自信と充分な達成感に溢れた表情だった。にこやかで、観ている方も何だか爽やかな思いがしてくる。そんな顔つきだった。
「さあ、行きなさい。時間が来たから、もう君はここにはいられない」
彼はとん、と私は肩を押す。その衝撃に任せるまま、私は背中から倒れていく。ぶつかる――そう思った、次の刹那だ。きゃっ、と私ではない誰かが声を上げる。
気がつくと学芸員さんが私の真後ろにいて、こちらを見て目を白黒させていた。自分のベッドに入ろうとしたら、変な虫に出くわしたとでもいうみたいに。
実際におかしかった。喧騒に紛れて断片的に耳に入ってくる言葉から察するに、私がいま立っているのはランタンの男に手を引かれる前に歩いていた場所の、次の部屋らしい。つまりは私は先回りをしたという形になる。だが、そうするには学芸員本人のみならず、隣にいる先生や生徒の列を追い越さなければいけない。でも、誰もその様子を見ていない。そのようなことのなのだった。
こんな事柄が、私の子どものころに起こった。こうして改めて思い出してみると、処刑前夜の走馬灯にふさわしい夢か幻のような感じがする話だ。また、当時の私も何かの間違いではないかという気がしていた。だが、そうではない。ちゃんと証拠もある。
家に帰った後のことだ。空になったお弁当箱や水筒をリュックサックから出していると、私は中に入れた覚えのないものがあるのに気がつく。
それは二つ折りになった小さな写真立てだった。サテンのような手触りの黒地のフレームに、英文字の筆記体が金色の箔押しで入っている。そのときの私は英語をきちんと習っていないので、どんなことが書いてあるのかはわからない。何だろうと広げてみて私はあっ、と声を上げる。
手元にあったのは一枚の絵だった。寒色を前面に出した暗い色調。ダンスホールに優美に翻るロングドレス。これらを全てに記憶がある。『グレゴリの結婚』だ。あの男が中に入れたのは『グリゴリの結婚』の複製画だった。
小さな絵を手にしながら、私はとても困る。自分がこの絵を持っているのはしっくりとこない気持ちがしたけれど、捨てても戻ってきそうで何だか怖かったのだ。思案した末にとりあえず自分の部屋に持って帰って、勉強机の上にある棚の、端の方に置いておいた。
それから長いあいだ、『グリゴリの結婚』はずっと私の部屋の片隅にあった。少なくとも私が小学生から中学生になり、高校に入り、大学になるまでのあいだは実家に存在したはずだ。後のことはわからない。あれから当時の年齢を三倍にした以上のはるかに長い時間が経っていて、その間には進学や就職、出張などでいくつも引っ越しがあった。けれどいずれにときにも、荷物の中に入れた覚えはない。拘置所の中にもない。
自宅にはあったのかもしれないけれど、拘置所に入るときに身内が持ち物から取り除いたとも考えられた。最低限の生活必需品以外は、独房には持ち込めないからだ。
やはり、と私は思う。どこかのタイミングで捨ててしまったのだろうか。あんなおかしな出来事を今まで忘れていたくらいなのだ。些事なことは、記憶の彼方に葬られていても不自然ではない。ささやかなことを覚えておくには、色々な出来事がありすぎた。
技術的特異点。魂の具現化と、正と負の性質の発見。生命工学とAIを応用した限りなく人間に近いロボット――バイオノイドの製造。バイオノイドたちの異様な学習速度。破壊兵器を使用した戦争。平和、人道に対する罪。まさか自分が開発に携わった技術のせいで、人類が絶滅寸前に追い込まれるなどとは子どものころの私には夢にも思わないだろう。
ぼんやりと天井を眺めていると、不意に、目の端で何かが動いたのに気がつく。横目で様子をうかがうと、ベッドのすぐ横――サイドテーブルの前で黒い影がちらちらと忙しなく動いているのがわかる。だが、陽炎のような不規則な動作ではない。何と表現しようか。忍び込んだ家の引き出しを片っ端から開く泥棒を連想させるような、意志や意図を感じさせる動きだった。
誰だ! だしぬけに私は叫ぶ。同時にベッドから勢いよく起き上がって、何者かに向かって手を伸ばす。すると腕を掴まれた相手は胸を撃たれみたいにこちらを見遣ったので、私たちはおのずとお互いに目が合う格好になった。
瞬間、ふっと室内に明かりが灯る。備えつけの蛍光灯の光ではない。ロウソクや野営の焚火に似た、橙色がかった黄色い灯火だった。そんな色合いの光が満ちていくと同じくして、相手の容貌も次第にあらわになっていく。そして、そこに立っているのが誰であるのかが私にはわかってた。
「久しぶりだね」
ばつが悪そうに見覚えのある男がそう言う。私は彼から視線を外し、サイドテーブルに目をやる。就寝前には存在しなかったはずのものが、そこにはあった。二つ折りの写真立てに似た、それの正体を私は知っている。『グレゴリの結婚』の複製画だ。
「この絵を君に届けに来た。これは君の行く末そのものだから、最後まで傍においておかなければならない」
「あなたは悪魔?」
私がそう訊ねると、男は薄笑いを浮かべて首を横に振る。甘いものが食べたかったのに間違ってビターチョコレートを食べてしまったという風な、悲しそうな困ったような微笑だった。
「ならば天使? あるいは死神?」
「いや、僕は人間だ。神の御使いでも、その栄光を貶めようするものでもない。ただの人間だ。だから君に与えたのも、人間の業だ」
与えた? 何を? そんな問いが頭に浮かぶ。けれど、問いかけることはしなかった。自分が彼からどんなものをもらったのか、そんなことを今さら問うたところで何もかもが手遅れであるのが理解できたからだ。そのかわりに私は別のことを彼に問いかける。あの――。
「あの、人間はグレゴリの天使たちがいた時代より進歩しているかな。私は洪水が来るより前に、法廷で裁かれたけれども」
「誰もがあらゆる事柄から多くのこと学ぼうとしていれば、君も僕もこんなことにはならないだろう。でも、裁判という制度があるだけマシだと思うよ。たぶん水に呑まれた人々は、自分たちの犯した罪の重さを自らで量ることなんて出来なかったはずだから」
さあ、明日は君の晴れ舞台だ。むくんだ、寝ぼけ顔なんてとてもじゃないが許されないぞう。そう口にしながら男は私の肩を押して、ベッドに座らせる。ついで、そっと背中に毛布を掛けた。まるで舞台の緞帳を下すみたいに静かに。
「一二の三で灯りを消したら、今度は目覚めないで眠れるからね。それまでは手を握ってようか。握ってようね」
彼の手は私のそれと重ねる。やはりほのかに温かみの感じられる手だった。そうして一、二の三という掛け声の後、何かに息を吹きかる。きっとランタンだろう。室内から光が消えて、あたりが濃い闇に包まれると同じくして私の意識は落ちていく。そして再び浮上するときには朝になっているはずだ。きっと私の人生で最後の朝に。
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