たましい、あるいはひとつぶんのベッド 4-2

※タイトルは哉村哉子さんによる。

 ミチルは立ち上がって、ノボルの傍に歩み寄った。彼が腰かけている正面に落ち着いて座を占めると、下から見上げるように相手の様子をうかがう。
 俯き気味であるためにノボルの顔には全体的に薄く影がかかっていたけれど、充分に見ることができた。その中で窓からの灯りを受けた両眼が日に翳した輝石みたいに、ちらちらと照っているのがよく目立った。目が潤んでいるのだ。それこそ、瞬くと雫が落ちそうなくらいに。
「私や恵一さんと、一緒にいてくれてありがとう」
「あなたから他の男の名前を聞きたくない」
「さっき相性が良くないといっていたけれど、それでも彼に付き合ってくれたんだろう」
「それはミチルさんが言うから」
 相手を彼女はじっと見つめる。すると虹彩がわずかに動揺しているのがわかった。眼差しをうけているノボルは口を噤んだのだけれど、いささかの間があったのちに再び話し出す。
「確かに一時はあの男の甘言に弄されて、情けない心持を抱きました。でも、一番に愛しているのはあなたです。本当ですよ。俺はいつだってあなたを迎え入れる準備はできているんです」
 ノボルがこちらに手を伸ばしてきたので、ミチルは掴む。自分のものよりも一回りも大きい手だった。そして、とても暖かい手だ。彼女は相手の指を絡ませてさらに強く握った。そうせずにはいられなかった。そして関節の目立つ指は彼女に応えてくれた。
 恵一。急に彼の名前がミチルの頭に思い浮かぶ。それから様々なことが次々に浮かび上がってきた。主の祈り、葉桜の庭、物憂い日曜日の朝。プラネタリウム。そして讃美歌467番と、詩篇23篇。
 ――たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。――
 かつて、閑散とした教会で跪いていた夫の背中をミチルは思い出す。白いシャツを着た、伸びやかで堂々とした背中だ。彼女はかつてそこに腕を回したり、体を預けたりしたことがある。額をつける瞬間を、ミチルはとても好きだった。そのときの彼の体は雲一つない春の日の窓辺みたいに、いつも暖かかったからだ。
 今思うとその暖かさは誰かから、彼へ与えられたものが多分に含まれていたようにミチルには感じられる。昔、彼に抱き締めてもらった自分のみたいに。
 まだ、私と結婚したいと思う? そうミチルは相手に訊ねる。そうしてノボルは彼女に答えた。
「しかし、あなたはずっとそうしたくないと思っている」
「そして今も昔も、君はそうしたくないと考えている」
「でも、俺はあなたと一つになりたかった」
 祖父の言うとおりに、とノボルが言う。
「塩見冬彦の遺言は成就させるべきではないんだ。あれは彼が用意した彼自身のための舞台用の脚本だ。主役である自分以外の人間には舞台装置以上の意味がない。あんなものに従ったら私もあなたもただの歯車になってしまう」
 あなたも私もそんな風に扱われて良い訳がないのだと、ミチルはノボルに向って告げた。すると彼は何も言わずに、さらに指を強く絡めてくる。爪先が立って、手の甲に食い込もうとしている。しかし彼女は痛みを感じない。男の爪が短く切られていたからだ。
 それから長いあいだ、二人は黙り込んでしまう。それはプルーストの小説を思い起こさせるような長い沈黙だった。そんな静けさを経た後に、ノボルは再び話し始める。
「歯車でも舞台装置でも何でもかまわない」
「わかった。どうしても、そこは譲れないというんだな?」
「あなたこそ、我を押し通すつもりじゃあないですか」
 ノボルはその一言だけ返して、息をつく。そして頭の中で複雑な計算をするように小さく唇を噛んでから、また口火を切った。
「本当はね。俺だって、うんざりしてるんですよ。でも、しょうがないじゃあないですか。好きなんですから」
 そうか、好きなのか。手を繋いだまま、そうミチルは口を開く。お前の感じているものは本物なのか? あなたが本当に好きなのは別のものじゃあないのか? 反射的にそんなことを考えたが、まだ言わないでいた。ええ、とノボルは短く答える。更に手を強く握ると、相手も同じように握り返してくる。
「じゃあ、わかるまで考えよう。どうすれば君と私が、善い関係になれるのか」
 一緒に――。ミチルがそう言うと、彼女は相手が確かに頷いたのを見た。それはしっかりと、力強い動きだった。それを見て彼女はノボルのアパートに引っ越すことに決めた。そうして一緒に記念写真を撮ろうと思う。この人がフォトフレームに入れて、部屋のどこかに飾れるように。

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