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日曜日、悲しんでいるあなたが好き

前回

 目が覚めたとはいえ、そのまますぐにタブノキを家に帰すわけにはいかない。きちんとダメージを受けた個所を修理しなければ、また同じ事象が起こりえる。そのためにはタブノキの機体内にある一定の領域を完全に封印しなければならない。それは修理と呼ぶよりも、もはや改修と言っていいだろう。くわえてタブノキは古い年式のバイオロイドなので、改修のためには相応の技術が必要になる。微妙で繊細な技術が。そしてすべての工程を終了するまでには長い時間がかかる。

 だからタブノキが僕たちの家に帰ってきたのは、覚醒から半年と少し経ってからになる。玄関のドアを開けたときはすでに年を越えて、季節は春へと変わりつつあった。

 そのあいだ僕とギザブローと二人で暮らす。タブノキという第三者を抜きに、彼とちゃんと寝起きを共にするのはこれが初めだ。最初のうちはどうなるかと気を揉んだけど、意外と大丈夫だった。彼が可能な範囲で、家のことを分担してくれたのが大きいだろう。
 もしかしたらそのなかで……あるいはもっと前から、何か僕に思うところがあったはずだし、実際に意見の衝突はあった。けれど、とても建設的なやりとりになった。きっとギザブローがそうなるように努めてくれたのだ。

 そんな彼の頑張りにはだいぶ助けられたが、歩く肩に力がないのは少しだけ心配になった。

 心ここにあらずなのはクリスマスや正月、バレンタインなどのイベント事でも同じだった。もちろんこれらの季節の行事を、彼がそれなりに楽しんではいたようだ。でも、ふとした瞬間に顔から笑みが消え、表情が固くなってしまう。まるで不意打ちで魔法にかけられたみたいに。
 そういうとき僕はボルトが締めつけられる思いがしたものだった。本来ならこれらすべての行事はギザブローが生まれて初めて経験する、掛け値なしのお祭り騒ぎになるはずだったから。そして、この事実にタブノキも気づいたようだ。

 家に戻ったタブノキは、以前と同じく優し気にギザブローに接する。でも、ときどき彼がいないところで泣く。自分はとんでもないことをしてしまったと。柔らかいところを深く傷つけてしまったと。彼の耳に届かないように声をめいっぱい押し殺して。

「彼はいいよって言ってくれたけれど、これで終わりにしていいわけじゃないもんね」

 それでも時間が経つにつれて、ギザブローはちょっとずつ――少なくとも表面上は――元気になっていく。表情が硬くなる頻度も多少マシになった。だが、まだ続いている。もしかしたら、この癖はずっと先まで残るかもしれない。それでも僕たちは彼が安らげるように努力しなければいけないし、(かつてみたいに)投げだすことはけして許されなかった。

 四月になると学校に向かうギザブローを見送るのが、僕たちの日課に加わった。朝食の後。彼は必ず手を振って、行ってきますの挨拶をする。そうしてぶんとオンラインの学習空間に移動し、眼前から姿を消す。
 それなりの時間拘束されるし、勉強も歯ごたえがあり、宿題や予習復習が大変らしい。が、本人は新しい生活を楽しんでいるようだ。

《人間もロボットもバイオノイドも、みんな混ざりあって、いっぱいいるんだ。すごいよ!》

 また彼は学校に通うのと同じように、休日が到来するのを楽しみにしている。特に、荻原メイの訪問が予定されているときは。

 荻原メイはたまに僕たちの家に訪れるようになった。だいたいは、ちょっとしたお茶会だ。ちょっとしたお菓子とお茶を前に、他愛も話をするという風に。けれども製造記念日とか とか、そんな特別な日には盛大なパーティーになる。彼女はそういう場にふさわしい人だった。口数が少ないが楽しい人なのだ。

 そうして彼女の誕生日には、逆にこちらが招待状や手土産を持って訪ねていく。とんがり屋根で右端に小さな塔屋がある、どこかお城じみた住宅だ。

 参加者の紹介を受けながら僕は緊張している。パーティーに参加しているのは、ほとんどが人間だったからだ。数少ないその他の参加者は誰かのペットの犬や猫で、つまり人造生命体は僕たち三体だけということになる。そうして好んで人間同士で集まる人たちは、あまりロボットやバイオノイドに対して、好感を持っていない場合が多いのを知っていた。

 だが危惧していたことは起こらない。誕生日会は和やかに進行して、穏やかに終わる。もしかしたら(ギザブローはともかくとして)僕やタブノキがバイオノイドだと、まるで気づいていなかったのかもしれない。どちらにしても何事のもなかったのは、良いには違いなかった。

「私、学校を卒業したら家を出る」

 あるとき彼女からそんな話を聞く。どうやら就職ともに実家を出るつもりで動いているらしい。会社の社員寮に入るのか、どこかにマンションだかアパートを借りるのかは、まだ決まってはいないようだけれど。でも近況を告げるときの顔つきは晴れ晴れとしていて、善い決断をしたのはわかる。

 詰め込まれた用事の合間を縫って彼女は、以前のようにタブノキは二人きりで会っているようだ。二人がどんなことを話しているかは知らない。そんなことをする必要はないし、それが僕が知るべき事柄ではないのは理解していた。萩原メイとタブノキが健全に、快適に過ごせているならかまわない。そして、今のところの関係性は理想的だった。

 たまに。もしかしたらタブノキは僕よりも、彼女の方が好きなのかもしれないと考える。家に帰ってきたタブノキは、僕には少しだけ意地悪になっていたからだ。

 意地悪。そう便宜上は表現しているけれど、実際には少し違う。表面的には以前と変わらない。でも、どこかに線がある。他人同士の皮膚みたいに、踏み越えることが許されない線が。この様子を的確に表せる言葉を、僕は他に持っていない。それが僕にはなんだか寂しかった。
 でも一方で、これが僕とタブノキの本来あるべき形なのではないかとも考える。今まで優しく接してくれていたのは、けしてあたりまえではなかったのだと。

「好きだよ」

 まれにタブノキはそんなことを言う。だいたいは真夜中――ギザブローも誰も彼も寝静まったのに、二人とも起きてしまっているときに。僕も、と答える。本当だったから。どっちも同じ気持ちなら嬉しいはずだった。けれど行為を告げる声には、どこかロープを張るような響きがして、この言葉を聞くたびになんだか不安になる。
 しかしたとえ遠ざかろうとしているにもタブノキは、今のところ僕やギザブローと一緒にいてくれている。その事実を大切にしようと決めた。たとえこれから先みんなが離れ離れになったとしても、タブノキが僕や彼を大切にしてくれたのには何ら変わりがないのだ。

 ときどき僕は昔のことを思い返している。かつて与えられた仕事のこと、抱いていた物の考え方や信念やそこから出てきた言葉、誰かに対する振る舞い方――そんな記憶を点検するように丁寧につらつらと辿っていく。もちろん善いこともある。でも同時に自分の明らかに未熟だった部分や、有害だった信念にも突き当たる。そして僕が自分自身の持つ機能で途方もない数の、多くの人たちを完膚なきまでに傷つけて、取り返しがつかないくらいに打ちのめして痛めつけた事実にも。

 どうしたの? 深く思考するとき。タブノキ、あるいはギザブローがそう訊ねてくることがある。答えは決まっていて、何でもないと僕はいつも返す。僕は僕自身を苛むものに一人で耐えなければいけなかった。また誰かが僕の悲しみに気づいて、涙をぬぐってくれるように期待するのも禁じた。何もかも僕が産み出した、僕が背負うべき重荷だったから。

 そうしながら庭の雑草を抜いて、木々や花々に水をやる。洗濯機を回して、食事をプリンターで印刷する。また映画を観たり、本を読んだりしているときもある。誰かと話さえした。こんな風に何かを行うときにも、頭の片隅では絶えず物を思う。もっとよりよい生き方があったのではないか、何か別の選択をしていれば多くの人を痛めつけ……死に至らしめずに済んだのではないかと。

 しかし一つボタンが違えば、今のように賑々しく暮らしてはいないのかもしれなかった。そのことが僕にはとても悲しい。そして同時に幸福だった。どうしようもなく。

 そんななかで、みんなで海に行こうと話している。砂浜や波打ち際で遊んだり、それぞれお弁当や飲み物を持ち寄ったりして騒ぐのだ。今よりもう少しあと空気が乾ききった、陽気に満ちた明るい季節に。
 僕は素足で濡れた砂を踏む感触を想像する。足の裏が深く沈む感じや指に引っ掛けた靴の重み、踝やふくらはぎを濡らす水の冷たさ。雲が多いけれど冴えわたる青空と、潮の匂い。そこにみんながいれば、きっと楽しいだろう。浮き立つ心地を味わう資格が、自分にあるのかはわからないが。

《あ! なんだか、ぼんやりしてるぞ》

 今だ! そうギザブローが僕の肩に飛び乗って、ぴょんぴょん跳ねる。そこに通りかかったタブノキが、やめなさいと横から口を挟む。タオルケットを頭から被せるみたいな柔らかい言い方だ。ついで彼を両手で包むようにそっと掴み、僕から降ろす。いや、降ろそうとした。

「いいよ。おいで」
《いいの?》

 緩やかに握られたタブノキの手のひらの合間から、ギザブローは頭をひょっこりと覗かせてこちらを見る。次の瞬間には姿は掻き消えて、僕の手の上に移動した。

 さっきの様子とは打って変わって、今度の彼はおとなしく座っている。そうして僕の顔をじっと見つめていた。不安げ、あるいは心配げというような眼差しではない。たとえるなら古びた倉庫から、使い方さえ忘れ去られた道具を発見したのを彷彿とさせる目つきだった。
 そんな風にまっすぐに僕を見据えたまま、彼はときどき瞬きをする。首も傾ける。その様を眺めていると、彼がちゃんと生きているのがわかる。同時に熱いような冷たいような、身震いする心地が起こる。愛おしい。この言葉はこういうことかと僕は感心した。

 そんな気持ちのまま僕は、手の上にいるギザブローに呼びかける。ねえ――。

「いろんなものをいっぱい見るんだよ。善いことも悪いことも、きれいなものも汚いものも。じっと、まっすぐに」

 言い締めたあとに、わずかな間がある。それから少ししたのち、ギザブローは僕に向かってはっきりと頷く。まるで見えないところに、しるしをつけるみたいに、ゆっくりと。

 ついで、インターホンの音が後を引きながら室内に響く。まもなく誰か来たね、とタブノキが言った。


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