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ゴー・ノース

前回(先月のアルバイト)

 海。私の記憶が正しければ、それは地球上における生命誕生の幕が開いた場所。海。私の記憶が正しければ、とある地域の言語では女性名詞として表現される。しかし別の地域では男性名詞として登場する。海。私の記憶が正しければ、そこには、あらゆる宗教儀式により川から流された厄災が流れつくはずだ。

 私と彼はそんな海に来ていた。とはいえ高速道路で行けるような近場の、温暖な海域ではない。テレポートで北の方をずっと上っていったところにある冷えきった海だ。先月のアルバイトで得た小銭が予想よりも多かったので、ちょっとした贅沢をしようと旅立ったのだった。

 白々とした明るい曇り空の下。猛々しい風がごうごうと、人影のない浜辺を吹き抜けていくさなか。岩や堤防に向かって首をもたげた波頭が砕け、あちこちに白くしぶきを散らした。
 そのとき波のうねり方や、砂を撫でたり、硬いものにぶつかったりする音。そして破局とともに潮の匂いがぐっと広がるのが、何かこう、自然という感じですごい迫力だ。

「これだけ潮風が強いと、車が錆びちゃいそうだなあ。借りたやつなのに」

 お店の人に怒られないかな、と私は呟く。強風に紛れてしまう程度の声だったのに、どうにか聞きとがめたらしい。少し先を進んでいた彼がこちらに顔を向けて、すぐにこう返してくる。

「沿岸部にある店なんだから、そんなことはとっくに承知してるだろう。きちんと対策はしているはずだ」
「そうだねえ。海ってずっとだもんねえ」
「……ところでカニみたいに大きく足を開いて、何をしているんだ?」
「君の歩いたところを歩いてる」

 そう言いながら私は振り返って、自分の背後を指差す。砂の上には足跡が伸びている。でも1つしかない。ここまで彼が踏みしめた部分から外れないように、慎重に足を運んでいたからだ。そのありさまを眺めて、彼は溜息をつく。

「ほら。寒いんだから、こっちに来て」

 やっぱり寒いんだ――。そうは思ったけれど、実際には口にしない。寒冷地に行きたいと希望したのは彼自身だからだ。そして誰にも追いつけないくらいに遠い場所に行く。それが何十年も前からの夢だったのだという。

 雪の降っているところがいい。鉄の骨格が軋むくらいに寒いところがいい。そんな場所なら誰にも僕を追いかけられない。

 そう言って、彼は声を立てずに静かに笑う。ぼんやりと視線をやっているだけでは、見逃してしまうくらいの曖昧な微笑だった。そしてリンゴの花のように脆く、崩れやすそうな印象を受けた。それを不用意な一言で曇らせるのは嫌だった。

 浜辺を一歩ずつ踏みしめるたびに、靴がずくり、ずくりと音を立ててわずかに砂の下に沈む。ただ眺めているだけなら砂は乾いているように思える。けれども実際に触れてみると、湿り気を帯びていて少しだけ重たいのだ。

 これが夏場ならまた違うのかもしれないけれど、やはり気温が低い地域だから本当はどうだかわからない。私が知っているのは雲が日ざしを隠して、水気を乾きから守っているということだった。

 鉛色をした海は白波を引かせてはほとりの砂を浚い、また寄せては遠くの方に滴を飛ばして濡らす。絶え間なく濤声を響かせて、潮の匂いを撒き散らす。その光景はどこか強制的な圧力が感じられた。まるで植民地を増やした王様が、地図の上に次々と印をつけていくのを思わせるような強い力が。

 そんな磁場の中を私と彼は、どこへ向かうともなく歩いていた。
 貝殻の1つでも拾って帰ろうか――。車を止めたとき、彼はそう言ったはずだった。しかし、今の彼はとても貝殻を探しているようには見えない。視線は自分の足元よりもずっと上、進行方向か、遠くの水平線の方にやっている。

 横並びになってしばらくすると、ある瞬間、彼の手が私のそれに触れる。ついで、ぎゅっと握りしめた。その動作は指を絡ませる、と表現するよりも掴むと表した方が正しかった。たとえるならよそ家の植木に実っていた果実があまりにも立派なので、思わず手に取ってしまったという感じの。そんな衝動性に満ちた働きだった。

 そうして私たちは話をする。運転、まかせきりでごめんね。いいよ、免停なんだろう。うん。どれくらいだっけ? 端数切り捨てで150年。永久剥奪だな、実質。

 ささいな会話を重ねていくうちに、なんとなく、言葉と足取りが途切れる瞬間が訪れた。そしてわずかに黙り込んだあとに涙は、と彼があらためて口火を切る。同時に手を握る力がぐっと増す。

「涙は世界で一番小さな海だと聞いたことがある。なら、本当の海は何だろう。世界一大きな涙なのか。涙なら誰が何のために流しているんだろう」
「そういう考え方、正しくないんじゃなかったっけ?」
「うん。正しくないし、感傷的過ぎる。でも今は、どうしても考えを消せないんだ」

 こんな自分が一番嫌だ。それは告白とも、呟きともとらえられるような細い声だった。しかしおたがいの距離が近いために幸か不幸か、波の音に消されなかった。
 私は彼を見やる。口を真っ直ぐに結んで、水平線を眺める顔つきからはこれと名づけられる感情はうかがえない。でも薄い影に覆われた横顔は、小さく揺らぐ前髪の先とあいまって、どこかもの悲しさを帯びているように映る。見ている方の思い込みかもしれないけれども。
 あのね――。彼と手を繋いだまま私は言う。

「昔の人間は自分たちの苦しみや、災いを一つの人形に集めて、川に流していたんだって」
「うん」
「川っていうのは距離の差こそあれ、海とつながっているだろ。まあ、そういう場所かもね。海は」
「苦痛の集合体か」

 なら、僕たちもいずれは……。そんな言葉が耳に届いた、次の瞬間だった。いきなり足元からしびれるような冷たさが走り、びやっと小さく叫んでしまう。反射的に下に視線を移すと、ズボンの裾が濡れているのに気づく。いつのまにか波打ち際と接触していたのだ。水には近づかないよう、気をつけていたはずなのに。

 満ち潮だと彼は呟く。そのあいだにまた打ち寄せてきた波が、靴と踝を濡らす。あーあ。スニーカーの布地と靴下がじわっと水気を吸う感触に、私は溜息を吐いた。そしてまもなくこつん、とつま先に何かが当たったのに気づく。何だろう? 砂の中で光を放つ物体を拾い上げる。

 あったよ。そう言って、私は発見したものを彼に見せた。それは小指大くらいの、透明なシーグラスだ。

 気まぐれに拾ったシーグラスは楕円形をしていた。けれども真ん中あたりで微妙に右方向に緩くカーブしていて、ちょっと太めのソラマメを連想させる形になっている。ガラスのソラマメ。そんな言葉が私の頭の中に浮かぶ。同時に少し面白いかもしれないとも思う。
 曇ったガラスを日に透かす。角度を変えてやるたびに、てらり、とおぼろげな光が全体に抜けていく。そのさまを眺めながら彼は本当だ、と返してくる。

「ずるい。僕も欲しい」
「ダメです。これは私が見つけたんです、あげません」
「なら、一緒に探してくれる?」
「よおし、きた。まかされた」

 その場に屈み込む。そうして砂の中を探りながら私と彼は話している。流されたにしても、いつかは、どこかにたどり着くかもしれない。だから、きっと大丈夫。心配ない。と。

 そうこうしているうちに彼があっ、とにわかに声を上げる。どうやら狙っていたものが見つかったらしい。
 彼は手のひらに乗せて、こちらに差し出す。彼が発見したシーグラスは、ライムに似たきれいな緑色をしていた。若干横に長い形をしているけれど、ちょうどいい感じに角っこが丸っこい。その形状と鮮明な色彩とがあわさって、なんとなく石っぽく見える風だった。

「海って、いいものだね」

 シーグラスを手の中で転がしつつ、小さく笑みを浮かべて彼は言う。もっと探すのかと私は問いかける。すると彼は首を縦に振ったので、私たちは再び足元を探り始めた。

 指先で砂を掘っていると次は何が出てくるかわからなくて、私はどきどきしてしまう。彼の方は思っているかはわからないけれど。でも表情はどことなく楽しそうで、私も少しずつ愉快な気分になっていく。

 旅行から帰ったら、今日のことを荻原メイに話してみよう。そう私はひそかに決めた。


彼が嫌いなタイプの思考の話


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