たましい、あるいはひとつぶんのベッド 3-10

※タイトルは哉村哉子さんによる。


お前はちゃんと祈ったことがない、と彼女は夫から言われたことがある。もっと丁寧な調子と言い回しだったように思うけれど、だいたいそういうような内容だった。
 五年前の初夏。そして日曜日。照り返した青葉の色が目に眩く、日差しを受けた背中から熱がこもってゆくような日だった。梅雨入り前の気候が不安定な時期だったせいか、妙に湿り気が強かったように思う。
 そんな日に、ミチルと彼は屋敷の庭を歩いていた。屋敷というのは塩見の家のことだ。そこに一族の墓が敷地内にあったので、お墓参りを兼ねて交際の報告に出向いたのだ。
 塩見の屋敷にはテニスコートを五十ほど集めた、むやみに広い庭があり、それが四季ごとに分割されていて、振り分けられた区域に定められた季節に応じた木々が植えられていた。

 そのとき彼女たちが訪れたのは『春』の庭だった。葉桜の下は影が落ちているために視界が薄暗く、漂っている空気もわずかにひんやりとしていた。空覆う梢のおかげで昼の強い日の光から逃れられたけれど、まとわりつく水っぽい空気が鬱陶しかったのが思い出せる。
 何の弾みでそんな固い話になったのか、ミチルは覚えていなかった。もしかすると日曜日だったからかもしれない。むしろだからこそなのかもしれないとも考えられた。けれども、そんなことはどうでも良いことだ。あのとき恵一と一緒にいたという事実に比べれば。
「いいかい、基本的に祈るという行為は独りきりでは出来ないんだ」
 真っ直ぐに伸びた道を進みながら恵一は言う。隣に並んでいるから当然なんだけれども、相手の声がつむじの上から降りてくるように聞こえる。そのためか頭のてっぺんを撫でまわされているような、変な心持がして、何だか妙にくすぐったかった。
「たとえば君が目を閉じて、両手を組んで指を絡ませるとき。祈る主体のほかに、もう一人の誰かがそこには確かにいるんだ。それは君の知っている人かもしれないし、知らない人かもしれない」
「へえ」
 歩きながらミチルは答える。少し淡白な相槌になってしまったけれど、相手の話に興味がないわけではなかった。むしろ彼が発する言葉には惹かれてやまないものがある。ただ現時点で意見すべき事柄を彼女は見出しえなかった。
「そもそも僕は跪いて、手を組むことだけが祈ることじゃないと思っているんだ。おはようとか、おやすみなさいとか誰かにちょっとばかし挨拶したり、知っている人と一緒にお茶を飲んだり食事をしたり。あるいは落とし物を拾ってあげるとか、行きずりの人に親切にすること」
「こうして歩いていることも?」
「うん。そういうことも『祈る』って行為じゃないかって、僕は思うんだよね」
 喉を潤すために一息つく。それから、いささかの間を置くと彼はまた話し始める。
「だから僕たちはけして一人きりで祈ることはできないし、そうするべきではないんだ」
「でも君の言っていることは君が話をしたりする人に対して、とても失礼なことなんじゃあないかな」
 ミチルは言う。隣で歩いている恵一は彼女の言に反論しないで、静かに聞いている。青々と芝生が踏みつけられる度に、微かな音を立てて土の匂いが鼻についた。
「だって目の前の相手と付き合うことよりも、自分が祈ることが大事になっているんだろう。そんなもの利他的な宗教的行為じゃなくて、ただの独りよがりじゃあないか」
「けれど、祈りのない交わりも独りよがりだ」
 恵一が彼女に答えた。
「僕たちはこの世の中で生きている限り、本当に自分のために生きることは出来ない。足元を見てごらん。君は草を踏みつけている。そして踏みつけたまま歩いてゆけば土は固くなり、いずれ草は枯れてしまう。一つの存在がそこにあるというだけで、影響を与えているんだ。そのことから逃れようとするのは、とても卑怯なことだ。それがわからないということは――」
 君はまだ何も知らないし、多分まだ何かをしたこともないのだ。そう言ったきり、彼は黙り込んでしまう。ミチルも口を開かないでいる。ただ、二人とも『春の庭』を歩き続けていた。
 それから二年後、同じバーで飲んだあとの帰り道で彼はミチルに結婚して欲しいと申し込んできた。このときには既に自分の身に起きたことを、あますところなく全て彼に明かしていた。
「僕は僕自身の力で幸せになりたい。そのためにはどうしても君の協力が必要なんだ。そして僕は、君にも幸せになって欲しいと思う」
「でも私には自分が幸福になるどういうことか、よくわからない」
「別にいま、すぐにわからなくてもかまわないじゃあないか」
 君がそのことがわかるのにどうすれば良いのか、僕と一緒に考えよう。そう、恵一はいった。はっきりと、目を逸らさずに。それは夏の木漏れ日みたいに意思のある、力強いまなざしだった。

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