解放祭 後
前回
いつまでも朽ちない、美しいままのものがどこかにあってほしいと荻原メイは願っていた。わりあいに幼いころから。たとえそんなものが己の目の届く範囲になくとも、世界のどこかに存在すると信じていたかった。そんな彼女に、永遠のものなどないと言った人がいた。
自分と同い年の男の子だ。親同士の仲が良くて、家が近所にあるから何かにつけて遊びにいく。いわゆる幼なじみという間柄だった。
ある一点を除けば、彼はどこにでもいるような子どもだった。絵本の王子様のように特別善いこともしなければ、魔法使いみたいに群を抜いて悪いこともしない。容姿だって大勢の人の中に紛れてしまえば、たちまち見失ってしまうくらいに平凡だ。
ただ、身体がとても弱かった。胎児だったときに、遺伝子治療を行った副作用だという。本当なら死産になりかねないところを、どうにかして生かしたのだ。でも、そこで限界だったらしい。いわゆるあちらを立てれば、こちらが立たないというやつだ。
彼は1年の半分を病院か、家のベッドの上で過ごしていた。もう半年は比較的身軽で長時間の外出も可能だったけれど、出来ないことも多かった。運動制限や食事制限、身に纏う服の素材、日光や水を浴びてもいい刻限――。そういうことが山のように積み重なっていたからだ。
「でも、僕は大丈夫なんだ。こんな風に話せてるんだから大丈夫」
ときおり彼はそう言ったものだった。何でもない風に、こともなげに。でも、ついてまわる不自由さに対して彼が口惜しさや憤りを抱いていたのを荻原メイは知っていた。そしてそんな拗ねたりいじけたりした顔を、(少なくとも彼女の前では)見せようとはしない人でもあった。彼のそういうところが彼女は好きだった。暗い気持ちをひたすら押し殺す表情が、目を離したくないくらいに美しかったから。彼には申し訳ない話だけれど。
今……振り返ってみればあんなことを言ったのも、ある意味では強がりの1つだったのかもしれない。
彼の虚弱な体質のために二人が行う遊びは、おのずと室内で行うものが多くなる。とはいえVRゲームはあまり長く遊べないから、手遊びをしたり、アニメや映画を見たりするのが定番だった。あるいは本を読むことも、絵を描いて過ごすこともあった。
その日は土曜日だか日曜日だか、とにかく学校が休みの日だったような気がする。思いつく遊びをひととおりやり尽くしてしまって、それぞれソファやカーペットの上で寝っ転がって、のんべんだらりとしていた。午後を過ぎた……おやつの時間になる少し前の話だ。窓から暖かい日の光が射し込んでいたのを覚えている。
まず彼が口火を切った。
「今よりも人間がたくさんいたんだって」
「知ってる、80億くらいいたんでしょ」
歴史の授業で習ったし。紙の本をめくりながら荻原メイは答える。
「うん。でも、いろいろあって今は10億人だ」
「すごい勢いで刈り込んだよね」
「いつかみんないなくなると思うと、なんか安心できるよね」
荻原メイは彼の方を見やる。お皿や花瓶を割ってしまった後みたいに、ゆっくりと顔を上げる。なんとなく目があったら嫌だなと思う。でも杞憂に過ぎず、彼の視線は窓の向こう側へと注がれていた。
その先には楡の樹があり、梢の一部が尾っぽみたいにぴょこぴょこと動いている。どうやら生い茂った葉っぱの影に、鳥が隠れているらしい。ちちちっと甲高い鳴き声がガラス越しに耳に届く。彼はその騒めきをひたすら眺めている。
熟練の画工が色鉛筆で描いたような、どこか絵空事じみた横顔だった。室内に侵入した日光が産毛に反射して輪郭が浮きあり、血の気に欠けた肌がぼんやりと輝いている。そんな横顔で彼は言う。
「どこに行くかなんてわからないけれど、でも、それはみんな同じなんだなって。忘れがちだけど」
じゃあ、ずっと忘れていればいいじゃん――などと彼女は思う。だが、このようなことはとうてい彼には返せない。言葉の中に含まれている感情や問題は、完全に自分勝手なものに過ぎなかったからだ。そしてそこには彼のみならず誰かと共有可能な余地なんて、まったくと断言してよいほどに存在しないのを荻原メイは理解していた。
だから彼女はそう、と一言だけ相手に返す。それから少し間を開けたのちに、再び彼が口火を切る。
「君が何を考えているのか知ってるよ。昔からさ」
「何をって、何を?」荻原メイは訊ねる。
「ごめんなんだけど、永遠のものなんてないんだ」
あたりの景色から色が褪せていくような気がした。
「きっと君が気を悪くするのはわかってる。でも、このことだけはどうしても言っておかなくちゃいけなかったんだ。僕は美術館に置いてあるような絵なんかじゃないし、たとえそうだったとしてもいつかは朽ち果てる。それが今日明日か一週間後か、あるいはもっと先かはわからないけれど。いずれにしてもそういう期待はしないで」
「私、そんなみっともなく見える?」
彼はようやく荻原メイの方を見る。しかし何も言わない。ひたすら彼女の顔をじっと眼差している。その視線は生半可な言葉よりも、豊かにこちらへ語りかけていた。食べ終わった後のクッキー缶にしまい込んで、そのままにして置きたい事実を。
とはいえこんなことで、二人の距離が変わりはしない。その後も付き合いは続き、彼と荻原メイはよく遊んだ。二人の関係性に決定的な変化が起きたのは、それから十年近く経った高校生ころのことだ。
ある日の真夜中、寝ているときに突然苦しみ出したらしい。彼の体内を監視していたナノマシンが、スマートスピーカーを通して警報を響かせた。機械の搭載機能により自動的に救急車が呼ばれ、彼は病院まで運ばれる。当直の医師たちがあの手この手で処置を施してくれたらしいが、どうにもならなかった。
彼女が知ったのはその翌朝だ。朝ご飯を摂ろうと自室からリビングに来たところで、事のあらましを母親が伝えてきたのだ。彼が苦悶しているあいだ、ずっと眠っていたということになる。馬鹿みたいに。
お葬式のとき。荻原メイは彼の顔をちゃんと見ることが出来なかった。あんなに好きだったのに。肌が怖いくらいの蝋色をして、身体が見るからに冷え切っているのが本当に信じられなかった。
同時に自分が願っていたことがどのような性質を持っていたのかを、彼女はこのとき初めて身をもって理解する。そんなことを押しつけていた自分は、とても恥ずかしい人間だというのも。彼女が彼に抱えていた期待と願いは、けして背負わせてはいけないものだったのだ。
なんてことをしてしまったのだろう、彼に謝りたい。そう荻原メイは考える。でも時間は戻ってこないし、止まらない。淡々と日々は過ぎ、季節は巡っていく。彼女は大学生になり、映画館でアルバイトも始めた。学校生活は楽しいし、仕事にはやりがいはある。なかなか充実した日々だ。でも一番したいことは出来ない。タブノキさんに出会ったのは、そんな鬱屈した生活のなかでのことだ。
今年の2月。急に思い立って、彼女は百貨店のバレンタインフェアに行った。大会場で催されていたイベントには、名の知れたショコラティエたちが腕に縒りをかけて作り上げた逸品が軒を連ねていた。荻原メイは迷路じみたディスプレイの合間を、人混みを縫いながら歩く。そうして数多の商品の中から、これだと思うものを見繕ってレジまで持っていく。このときに係員をしていたのが、タブノキさんだった。
代金を現金で支払い(紙幣や硬貨で取引を行うのがあの場での流儀なのだ)おつりと商品を受け取る。品物を手にした刹那、なんとなくふと見上げた。相手と目線がかち合うとともに、寒気に似た衝撃が背筋に走る。彼だ――彼が目の前にいる。
あたりまえだがその人は彼自身ではない。よくよく見てみると顔つきや体格がまったく違う。そそくさと退く。しかし、やはり気になって違う商品を棚から取って、もう一度会ってみる。やはり彼に見えた。本当にわずかなあいだのことだけれど。
かなり不躾なやり方だったが、彼女はどうにかその店員に話しかけてみる。どうしてあのとき彼に見えたのかを、突き止めてやりたかったのだ。そうして強引に知己を得ると、次第に相手のことがわかってくる。
まずタブノキさんは百貨店の従業員ではない。本業は政府の研究所に籍を置くシステムエンジニアだという。今回のことは臨時のバイトで、ちょっとした小遣い稼ぎに過ぎないそうだ。今は研究所に通勤せず、自宅で仕事をしているらしい。懇意にしているバイオノイドと二人暮らしだと聞いた。
人工生命体との共同生活がどのようなものなのか、荻原メイには今一つ想像がつかない。自分の手で出来ることは、なるべくなら自分でやってほしいそんな両親の教育法針により、彼女は生まれてからずっと人間だけの家庭で育った。どんな服を着るのかはAIに頼らないで判断してきたし、ときおり言いつけられるおつかいも通販を利用しないでこなしてきた。台所にはガスコンロがあるし、掃除をするときにも自分で掃除機やスポンジを使う。だから、ぴんとこなかった。
「別に変わったところはないと思う」
おたがいの身体のつくりがどうであれ、生活習慣が違う他者と暮らすのは大変なことには違いない――。そうタブノキさんは言った。実際、ゴミの分別のことで同居人に叱られたことがあるという。自分にとっての空想じみた現実が、少しだけ具体性を帯びた気がした。
それから荻原メイはタブノキさんと何度も会う。そのなかで彼の面影と重なる瞬間が……この人だと確信する時間が確かに存在した。目鼻の形や両眼と眉との距離、あるいは食器の扱い方とか物を取ったり持ち上げたりするときの仕草とか、あらゆることがまるっきり違うのにもかかわらず。
その原因を彼女はなかなか掴めないでいた。そして何故と思うたびに、胸の内側を鋭い爪引っかかれるような痛みが起こる。タブノキの存在が彼の喪失を――また、自分自身の身勝手さをより際立たせていた。彼との絶対的な別れを引き延ばせたような気がしていたのだ。
いつか罰を受けるのではないか、と彼女は考えていた。そして実際、罰らしいものを受けた。タブノキさんとの待ち合わせの場所に向かったときだ。道に流れてきた大量の自律型アボカドに呑み込まれてしまう。
紆余曲折を経て、荻原メイはタブノキさんの自宅に流れ着く。タブノキさんの同居人のモルスさんと、ギザブローくんに介抱されてどうにか命は助かったものの、いくらかの期間は入院しなければならなかった。全治一か月。アボカドから与えられた激しい振動で内臓をやられたのだ。
それは苦痛と焦燥感が混ざり合った、奇妙な時間だった。しかし悪いことばかりではない。助けてもらったお礼に映画館のチケットを贈ったら、タブノキさんの家に招待された。解放祭にパーティーをするのだという。
当日はタブノキさんに駅前まで迎えに来てもらうことになっていた。アボカドの流れに身を任せて訪れたことはあった。だけれど、状況が状況だから道筋をまるっきり覚えてはいなかったのだ。
祝日の駅前は激しく混み合っていた。往来の流れは目まぐるしく、忙しない。行きかう人々の話し声と笑い声、客引きの呼び込み、ビルの壁にはめ込まれた街頭ビジョンのコマーシャルの音声などが、四方八方から聞こえてきてとても賑やかだ。そんななか。荻原メイは改札を出てすぐのところ、交差点の近くでタブノキが来るのを待っている。
そのあいだ彼女は幾度となく肩を叩いてほこりを落としたり、頻繁に前髪に触れては耳に掛け直したりする。じっとしていると、なんとなく落ち着かないのだ。きっと、まだアボカドの件が心に残っているせいだろう。何かが――巨大な何かがやってきて自分を呑み込んできそうな気がした。あんなことがそうそう起こらないのは、頭ではわかっていたけれど。
そうして今度はきょろきょろと見まわしていると、ふと一人の人物が彼女の目に留まる。
その人は交差点の向こう側にいて、居合わせた多くの通行人たちと一緒に信号が変わるのを待っている。そのこと自体はあたりまえに違いない。でもなんだか奇妙だった。たくさんの人の中で、その人だけが不思議と浮き上がって見えたのだ。まるでその人物の輪郭だけに光が宿ったみたいに。
目が合った。そう直感した刹那、向こう側の誰かは手を振る。まるで信号を送るみたいに、はっきりとした動きで。そして合図を受け取るべき対象は、自分であるのが荻原メイには理解できた。
信号が青に変わるとともに、その人は手を下す。そうして人混みを縫うようにかき分けながら、自分に向かって歩いてくる。距離が縮まるつれ、相手の目鼻立ちが明確になっていく。少しだけ赤みを含んだ茶色の瞳、先っぽが内向きにはねた髪。これらすべてに彼女には見覚えがあった。彼だ。
たくさんのものが動きを止めた感じがした。人々のざわめきとか時間とか、何もかもが。けれどもそれは真実ではない。現に、しんと冷たいものが彼女の頬を伝っている。波のように絶え間なく次々に。
目の前までくると彼はやにわに歩みを止め、二人は正面から向かい合う。面差しや姿かたちはどこからどう見ても、まさしく彼に違いなかった。
「ひさしぶり」相手は口を開く。
「ちゃんと学校は行ってる?」
「うん」荻原メイは答える。
「なら、よかった」
とても心配していたのだと彼は語った。本当に心から気遣っているように聞こえる。
「君が僕のことをどう思ってるのは知ってた。でも、どうしても去らないわ
けにはいかなかったんだ。物事には限りがあるからね」
「ごめんなさい」
彼は言葉の続きを待っていた。
「わたし、自分勝手だった。本当ならあなたの在り方を、そのままで受け入れるべきだったのに」
「そうだね。でも、いいんだ。すんだことなんだから」
「よくない。終わっちゃったことでも、よくない」
「……まだ大丈夫じゃない?」
ふっと息が詰まる。喉の奥がぷっくりと膨らんだ感じがして、胸がじんじんと鈍く痛む。だから彼女はうんとも答えられなかったし、また違うとも返せなかった。そうしてただ、ひたすら泣く。可能な限り声を押し殺し。
何事もなかったかのように通り過ぎる人々のざわめきだけが、二人のあいだに広がっている。大型ビジョンに映るパステルカラー調の広告が、視界の隅で現れては消えた。言葉を失ったまま時間が過ぎていく。
彼女は唇を動かす。細やかに震えるので、上手く力が入らない。けれども自分には、どうしても言わなければならないことがある。その言葉を相手は心から求めていて、それがどれだけ正しいのかもわかっていた。また、ここで伝えるべきことを伝えなければ自分が持っている時間や、そこで起こるはずの出来事や出会いの意味が致命的なまでに損なわれるというのもわかっていた。
けれども、ためらいが自分の中にあるのも真実だった。今、これを成し遂げたとしても、二人の関係性の決定的な終わりが待っているのだ。
喉が腫れそぼったみたいに痛い。声が詰まった。衝動に近い反応に、このまま身を任せてしまいたい気持ちもある。たとえ口に出来なくても、彼は許してくれるだろう。少なくとも怒りはしないはずだ。いつもそうだったから。でも今は違う。
そうして荻原メイは己に抗い、彼にこう告げる。
「もう大丈夫」
そう言い締めた瞬間、彼の口元に笑みが浮かぶ。とても長い旅を終えたみたいな安らいだ笑いだった。ついで、こちらに手を伸ばす。指先が横髪を掬い上げ、近づいてきた手のひらが彼女の頬を撫でる。
柔らかくて温もりのある手が、彼女の肌にしばらく触れていた。でも、あるときにすっと離れる。そのまま彼の身体が横に傾く。があんと音が次の刹那に響き、気がつくと相手は彼女の足元に突っ伏している。しかしそれは彼ではない。
タブノキだ。
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