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鶉鳴く


鶉鳴く

 左翼を尾で打たれた鶉は、夏の渡りが叶わなくなった。池の主である大蛇の目を突いて、怒髪天も衝いたのだ。

 噂に聞けば池の主は貴い方が、人に産ませた御落胤だそうな。嘘か真かはわらないが、華麗な風貌には一定の説得力があった。黒紅の鱗肌はてらてらと輝き、松葉色の瞳は冷たく冴えている。胴は伸びやかで、肉づきも精悍だ。しかし見かけの美しさとは裏腹に蛇は残酷だ。

 大蛇は毎冬ごとに近隣の村から生贄を要求する。捧げられた人間はすぐに屠らず、じっくりと絞め殺す。卵や雛を見つけ、あるいは孕んだ雌を探し出しては潰すなど力を恣にした。
 殊に鳥たちには冷酷だ。羽ばたきや囀りの響きが腹立たしいと、手元に引き込んで嬲る。鶉もその一匹になるはずだった。

 思わぬ反撃に蛇は胃を裏返して驚き、身悶え怒った。たかが小鳥に背後を取られた恥も手伝い、報復は物凄まじくなる。どうにか逃げ出せはしたが、砕けた骨は一向に治らない。次の冬まで耐えられまいとの族長の宣告に、兄弟姉妹鳥は今冬限りの別れと泣く。

 当の鶉は飄々としたものだ。力尽きたらそれまでと嘯き、名残惜しむ仲間の旅立ちを見送る。

 にわかに始まった狩猟生活は、困難を極めるかと思われた。不自由な翼にくわえて、大蛇が仇を探して残りの眼を血走らせている。脚力は頼みになるが、長い胴で囲まれると悪筋だ。

 しかし意外に手助けがある。雀が大蛇の居所を報せ、雉が食糧をいくらか分けてくれる。日頃の憂さ晴らしと、目を突いたときに吐き出された同胞の恩返しだという。鶉は親切の対価に虫の棲み処や、蜜花の在り処を融通する。そのように日々を過ごすうち、油断が生じた。

 鶉の住居は桑の木を頭三つ分、跳ねたところにあるうつほだ。午睡のさなかに、鶉はにわかに生じた生臭さと生暖かさで目を覚ます。すると大蛇の舌の上にいる。
 
 ようやく捕らえた獲物を、大蛇は玉の如く転がす。そうして鳥どもはすでに我が配下、分け与えられた糧は贄を養うためと告げる。

「生まれてこの方ちっともわからなかったが、可愛いとはこのことか。ころころしておもしろいから、当分のあいだ飼ってやろう」

 そんなくぐもった声を、鶉は唾にまみれて呆然と聞く。いつまでとは問えなかったし、問わなかった。事はすでに手遅れだし、どちらかが息絶えない限り予告された暮らしが続くのはわかりきっていた。

鶉狩り

 池に一番近い村は住民ともども、主である大蛇の領するところ。池の水を畑に引かせるのを見返りに、毎冬ごとの生贄を村に要求した。冬眠時の枕にするのだ。差し出す贄は春先のくじ引きで決められるが、その年だけは違う。

 五月。大蛇は巣穴前に屯する鶉と鳥類らを蹴散らしていた。自分に歯向かった鶉を捕えたら、群れの仲間や他の鳥が返せとうるさいのだ。集る鳥を尾で打ち落とし、腹ですりつぶす。あたりは血肉にまみれ、砕けた骨が散らばる屍山血河の様相だ。

 そこに通りかかった桑の葉摘みの女が、間に割って入り、この有様は何だと蛇に訊ねる。大蛇が仔細を語ると、女は告げた。
 こんな横暴が許されるものか。喰うか喰われるかは生き物の常だが、これはあんまりだ。娘の妄言に大蛇は鼻で笑うが、自分が鳥の身代わりになるとの嘆願はさすがに聞き逃せない。大蛇は女を見据え、隻眼を細めて言う。

「本当だね。たかだか鳥のために身を賭すとは。二言はないな」
「本当だとも。金輪際、鳥たちには手を出させないぞ」

 言い締めた刹那に、この年の生贄が定まった。時は流れ、秋風蕭条のころ。白い帷子を纏った女が、蛇の棲み処を訪れた。渡って来た鶉どもの怒りの囀りが門出を彩った。

 大蛇はさっそく女の身体ごと、とぐろを巻いて床に入る。だが、すんなりと眠れない。今年の生贄はなんで、どうしてが口癖なのだ。何故自分は娘と呼ばれるのか。なにゆえ人間や獣は殖えたがるのか。あるいは生贄を捧げてまで永らえたい理由とは何なのか。そんな問いを日に六度は立て、答えを聞かねば気が済まない。

 関心の対象は大蛇も例外ではない。数日後には大蛇の身の上を承知し尽くした。母親は村の女で、父親はどこの誰とも知れないこと。生まれてすぐに捨てられ、その後に大水蛇を下して池の主の座と住いを得たこと。生まれてから死ぬまでの労苦を、安易に捉え過ぎる生き物たちの呑気さに腹が立つこと。このように大蛇が多くを打ち明けても、なお贄の女は新しい事柄を知りたがる。

「あそこの隅に、お花がこんもりとあるね。臭い消し?」
「いや、昔の癖がずっと抜けないんだ」

 女が指を指すのは、鶉のために誂えた場所だ。捕らえた後はずっと口内で吸ったり転がしたりしていたが、たまにここに吐き出して給餌を試みた。しかし何を与えても鶉は嘴を開かなった。その原因が執拗な玩弄に衰弱したせいなのか、抵抗を削ぐための虚言が効き過ぎたためなのか。今となってはわからない。

 このときの宥めすかし習いが未だに辞められず、甲斐ない贈り物だけが積み重なる。女の言う通り臭いや目隠しになるので無益ではないが、亡骸を返せと合唱されるのは頭が痛い。

 寂しいのかと、大蛇の語りに女は返す。だから枕がないと寝られないし、死んだ鶉も手放さないのかとも。投げかけられた問いに大蛇は言い淀む。己の気持ちを表すのに、うってつけの言葉を蛇は持たなかった。唯一あれほど必死になったのは、産まれて初めてだったとは断言できたが。それを耳にした女は、今なら友達になれそうだと一人合点する。

 どんなに生贄がうるさくとも、ときどきは眠気が勝る。そのたびに巻きついた胴が、贄の女を締め上げた。無意識の働きなので加減はなく、相手はひたすら痛苦に呻くしかない。女は次第に言葉少なになり、春になる頃には青色吐息の風情だ。そして冬眠明けの日に、これで約束は果たしたと嗄れきった声音で宣言する。
 だから、もう殺さないで――。そう言って息絶えた贄を、蛇は無心で呑み下す。ここまでは例年通りだが、その後が妙だ。空腹が訪れない。腹がずっしりと重たく、妙にうずく。女がいる。石が転がるのに似た感覚に蛇は思う。途端、戻って来た静寂が身に染みる。晒されると胴体が徐々に硬くなるような静けさだった。

 身動きが取れなくなって、どれほど経ったころか。にわかに足音が起こり、いたぞと高らかな声を聞く。眼を開くとこちらに向く幾つもの嘴とともに、崩れた祭壇が視界に映る。運び去られる鶉の亡骸も。それはあたしのだと抗う力は、もはや蛇にはない。鎌首どころか尾すらもたげられないまま、次第に意識は薄らいでいった。

なき合わせ

 私は戦前から戦中の少年期を、D県の山村で過ごした。当時父親が軍事工場の経営に一枚噛んでおり、仕事のついでに一家ごと引っ越したのだ。

 田舎とはいえ市街地と近接した立地ゆえ、最寄りの駅前は都会はだしのモダンさに彩られていた。しかし一たび駅から離れれば、山際が迫る土地柄でもある。勇猛な日本男児を養成せんとする時勢も手伝い、大自然を傍に置けば、文弱な息子もおのずと逞しくなろうとの父の下心もあった。
 彼の目論見はやや外れて私は山遊びではなく、地域の噂や昔話に魅了されていた。面白い話を方々に聞き回るうち、私に一人の友達が出来た。養鶉家の息子で、ここでは仮にAとしておく。

 私がAについて思い返すとき。まず先に脳裡に浮かぶのは、桑の葉群れから延びた足首だ。

 駅から山まで続く道のりに、桑の木が並ぶ一角がある。初夏のころにそこを通りかかるとたまに、おいと頭上から呼び止められた。見上げてみると、きまって陸離たる木漏れ日を背にAが枝に跨っている。互いの視線が絡むと、彼は桑の実をこちらに投げてよこす。このとき彼の脚絆を巻いた足が、青い葉陰から下がっているのだった。

 Aとは他にもさまざまな想い出がある。彼とは小学校の同級生で否応にも顔を突き合せたし、校外でも連れ立って歩いたから。また小麦色の肌や、囁くような低い声も印象深い。けれども一番に蘇るのは、不思議とこの足首だった。

 十八の年の暮れに、彼はひどい骨折をした。鶉小屋の雨漏りの修理中に、屋根からずり落ちたのだ。とっさに受け身を取ったものの、あまり運がない。折れた骨片が肉を破って露出する有様で、おまけに細かく砕けている。完治までには間遠かった。
 彼の病状は年が越しても変わらない。松が明けるころ――勤労先の研究所に戻る前に見舞いに行くと、Aは私を布団の上で出迎えた。他愛ない会話のあいまに、相手はときおり赤らんだ顔を顰める。その原因は、高熱の余韻や傷の痛みだけではない。

 ひとまず小康を得た後。彼は鶉小屋の物陰に、片足だけの草鞋が隠されているのを見つけた。これだけも奇妙だがさらに異様なのは風体で、十八本の釘が履物の表裏を貫いている。物知りの老婆に見せるとこれは脚封じのまじないで、まさしく相手を足止めするものだそうな。また、きっとお前を好いた女子がいたのだとも彼女は述べた。
 老婆の言には根拠がある。実を言えば戦時中の村内では、徴兵逃れの祈願が流行していたのだ。戦争前とは違い神社での祈祷は角が立つので、この時分ではもっぱら秘めやかな儀式が用いられていた。術者はたいてい徴兵者の母親か、恋人と相場が決まっている。彼の母すでになく、想定される人物は自ずと絞られる。至極単純な推理だ。

 密やかな真心はAにとっては瑣末な事柄で、現状の不自由さがすべてだった。兵役を直前にした怪我で、あらぬ疑いを者も少なくなかったのだ。脚封じの件が発覚して以降は周囲の態度は軟化したが、陰日向にそしられた記憶は未だ心に残る。気まぐれに眉をひそめる彼に、春までにはなにもかもよくなると私は慰めた。

 はたして季節は移ろった。しかしAの体調は万全とはならない。四月の徴兵検査では戌種に類せられ、入営は先延ばしになってしまう。その報せに私は、己のことはさておき胸を撫でおろす。
 出征前夜。在郷軍人たちの武勇伝が飛び交う宴の後に、私は彼の家に忍び込む。すでにAは床にいて、折あし良くこちらに背中を向けている。彼の傍らに腰を下ろし、私は言葉を掛ける。

「不愉快な思いをさせて、本当にすまなかった。でも、君にはどうしても行ってもらいたくなかったのだ。
 一度兵隊にとられたら望むと望まないとにかかわらず、君は冷酷で残忍な人間になるだろう。いつか大蛇の話をしてくれたね。針を飲んで生贄に臨んだ女を食べて、石になった池の主。彼がしたことがどんなに酷いのか、初めてわかった。あんな風に他の生き物を……人間を人間と思わねば、とうてい戦場は生き抜けまい。さもなくば死だ。君にはそんな魔道に堕ちてほしくなかった。
 僕は君から昔話を聞くのが……物語を紡ぐ君の声が好きだった。きっと君には雄叫びも、鬨の声も似合わない。断末魔などもってのほかだ。身勝手なのは承知だけれど、でも、僕にとってはそうなのだ」

 ひとまずそこで区切って様子を窺う。Aは何も言わなかった。そもそも目覚めているのか、否かもわからない。私が話すあいだ微動だにしなかったのは確かだが。ただ濃密な夜闇ばかりがしんと迫った。
 じゃあ、さようなら。ずっと元気で。最後の挨拶を済ませ、私は彼の家を出た。終戦の年――私が兵役逃れで逮捕される少し前の出来事だ。

古りにし郷

 以前、克雪は作り物の製造に携わった。竹の枠組みで出来た梵鐘で、その外側一面に絹を張りつけるのだ。他人の髪を梳くのに似た丁寧な手つきを、歩は今でも覚えている。出来上がった鐘は能舞台に吊り下げられ、『道成寺』の演目に使われた。

 克雪は能楽で描かれる幽霊や妖怪たちの在り方を等しく愛おしんでいた。なかでも『道成寺』のシテ――蛇の化身である白拍子をことさらに好んだ。能楽師としての敬意と、観客としての憧憬もはるかに超えた愛着だった。

「たとえ道理が通らなくても、未練が手放せない。諦めたくとも何かを諦めきれない。そんな人たちが好きなんだ」

 死してなお物狂おしい思いに苛まれる彼ら彼女ら――特のあの白蛇は他人とは思えないと、歩は克雪からよく聞かされた。どうも彼にとって歩は胸底にしまい込んだ気持ちを打ち明けられる、気の置けない人間であるらしい。その発端を思うとき、血腥さと疼痛がいつもつきまとう。

 克雪が義父に連れられて、歩の養母の工房を訪れたのは互いに中学生の時分だ。シテ方の宗家を継ぐ身なら、能面の製造工程と職人の仕事ぶりを見せておきたいという親心だった。

 工房は母屋付きだ。歩はその二階にある子ども部屋で、ビニール紐で草鞋を編んでいた。足にかけた紐を巻いたり通したりするさなか、突然硬く、薄いものが砕けた音が室内をつんざく。ついで絶叫が迸る
 母屋に駆けつけた工房の連中は、二階から降りてきた歩とかち合う。額とシャツの襟を血で汚した姿に呆然とする人々に、保健所に電話をすると歩は問わず語りで述べる。また鳥が――鶉くらいの小鳥が窓を破ったとも言い足す。このとき死んだ鳥は燃えるゴミだと、克雪から教えられたのが交流の始まりだ。

 貰われっ子同士の気兼ねのなさか二人は少なくに遊び友達となり、交友関係は成人してなお続く。進路が会社員兼業の能楽師と、靴の修理技師に分かたれても変わらない。しかしこの一、二年で間柄は抜き差しならなくなる。彼は何十歩先も仲を深めたいと願う一方で、歩は未だ浅瀬で躊躇っていた。気がかりなことがある。

 成人して間もなくのころだ。克雪のアパートに遊びに行った日の夜、おもむろに彼は縄を取り出した。双腕だけでは抱きしめるのに不十分だから、道具の力を借りるのだと宣う。そして縄を相手の手首に巻きつけながら、克雪はときおり歩に目を投げる。奇妙なほどに明るさを湛えた松葉色の瞳だった。

 まもなく彼は見事に、歩の両手を縛りあげた。けれども、それきり何も起きない。抱かれたには違いないが、まるでぬいぐるみじみた扱いだ。そうして隣で寄り添いながら、克雪は寝物語を語った。

 池の主の大蛇は美しいが野蛮だった。毎年ごとに近隣の村に生贄を求め、毎日支配下の生き物たちを嬲ってた。あるとき一匹の鶉が暴政に抗うも、結局蛇に殺される。鶉は人間の女に生まれ変わり、村人として仇敵の許に舞い戻る。贄として差し出される日まで、女は夜ごと針を飲み続けた。何も知らない大蛇は捧げものを呑み込むと、たちまち巨石に変じてしまった。D県の某村に伝わる昔話だという。

 そこに一緒に赴いたことがある。池のある山にほど近い、滴る緑が眩しい廃村だ。どうなろうとかまわなければ、赤ん坊をこんな場所に置いていかないだろう。自壊したあばら家を見据え、彼がそう口にしたのを覚えている。そこは彼が棄てられた村でもあり、また澄昭爺さんの故郷でもある。

 澄明爺さんは迫水澄明といって、この村のみならず全国で著名な財界人だ。彼の名と××鉄道と社名を囁けば、繋がりを解さない人はいないだろう。同郷のよしみか。捨て子の克雪を、今の家に引き取られるよう手配してくれた人でもある。
 迫水澄明は実業家であるとともに、文芸から映画までの広領域を横断した文化人の面を持つ。その芸術活動の一環で、生前には赤縄会というサロンを主催していた。彼の死後は親族に運営が引き継がれ、克雪もメンバーとして参加している。歩も幾度か集まりに同伴した。あるとき彼は常陸国風土記から引用して、こんな話を会で披露した。

 昔々。とある山の中に兄妹が二人で暮らしていた。あるときから妹の許に、誰とも知れない男が通うようになる。男は化外のもので、妹はやがて蛇の子を産む。蛇は人語を解し、夜だけ母と話をする。兄妹はこれを神の子として、椀に入れて丁重に祀った。
 蛇の成長は著しく椀はすぐに手狭になり、もう一回り大きいものに入れ直した。それが足りなくなると次の椀に移す。そんなことを繰り返すうち、蛇が収まる器が家から無くなってしまう。
 これ以上は養いきれないと兄妹は、天にいる父の許に赴くよう蛇に頼む。しぶしぶ承知した蛇は、旅の供に子どもを一人つけてくれるよう求めた。しかし、ここには子どもがいないと母は断る。すると蛇は大いに怒り、叔父を道連れにせんと襲い掛かる。驚いた母親が割れた盆を投げつけると、蛇は天に上れなくなり山に留まった。そんな話だ。

 蛇の悲憤が何となくわかると克雪は語った。さんざん良い顔をしておいて、いきなり手のひらを返すなどあんまりだと。また濡れた声で彼はこうも言い継ぐ。

「この話を思い返すとき……あるいは能を舞うときには、いつもはらわたが煮えくり返ってるんです。自然光や雨上がりの匂い、樹々の葉擦れの音。歯が肉に食い込む感触とか、花や果物の蜜の味。あらゆるものに。でも、同時になんだか懐かしくもあるんです。まるで小さい頃に生き別れた友達に出くわしたみたいに」

 赤縄会には彼と似た人たちが多く在籍していた。何某かの想い出や、かつてあったおとぎ話、ある種の物の見方に拘泥する人が。そしてこだわりにより、誰もが多かれ少なかれ苦杯をなめていた。その状態を恋と称しても過言ではないだろう。このサロンはそんな心持を共有するための場なのだ。それは主催者である迫水も例外ではない。

 迫水澄明の十周忌を祈念して、朗読会の開催が決まった。迫水の著作から抜粋した題材を、選抜したメンバーで読み上げるのだ。その中には克雪もいる。

 自伝小説の一場面が彼の担当になる。戦時中に徴兵忌避で逮捕された事件に、子ども時代の友人を絡ませた筋書きだ。逃亡前夜における友人との別れは青春の幕切れかつ、長編小説としては序盤のハイライトでもある。催事を彩るに相応しいシーンだ。

 小説だから脚色はあるものの、友人Aのモデルとなった人物は実在するようだ。けれども本人からの感想や弁明はない。作品が執筆された頃にはとうに亡くなっている。まさに死人に口なしで、読者には虚実の区別はつかない。赤縄会とはこのように、一つの視点を削り取って成立する場でもあった。あまりフェアでないと歩は思う。

 この朗読会に歩も誘われている。君も来いよ、と肩を抱くときの口ぶりは朗らかだ。しかし爽快な分だけ、釈然としなかった。彼のことは嫌いではなかったし、何かに縋りつきたい気持ちは想像がつく。かつて自分も味わったから。だが克雪の傍にいて……彼の紡ぐ物語を聴いていると、まるで箱に閉じ込められた気になるのも事実だ。
 その箱の表には野添歩と記したラベルがある。今のところ己の字だけれども近々彼の筆跡に変わる予感がして、そのたびに歩は溜息をつく。不意に漏れ出る吐息は、このところなおさら深さと長さを増しつつあった。そうこうする間にも朗読会の日が到来する。

 待ち合わせ場所の交差点に、彼の車が迎えにきた。薄く赤みがかった黒い車体が路肩に滑り込むのを眺めるうち、歩はふと思いついて前に踏み出す。路側帯を越えた刹那に目を上げると、おのずと運転席の克雪と視線が交わる。これ以上にない瞠目だ。ついでハンドルを掴む彼の指先が鮮烈に白く変じ、急激なブレーキ音があたりに轟く。圧を伴った突風が、きらめきとともに歩の前髪を吹き上げる。だが、それだけだ。
 ボンネットが身体に触れる寸前、路上にタイヤ痕を描いて自動車は停止。気がつくと歩は、降車した克雪と向かい合っている。吸血鬼じみた蒼白さで立ち尽くす彼は、歩にこのように問いかけた。

「どういうつもりだ?」
「こっちも血が流れた人間でいろいろ考えがあるんだって、あらためて知ってもらいたくて」

 ほら、最近忘れてるようだし。そう答えたきり歩は口を噤む。相手も何も言わない。ただ、やたらに粘ついた空気だけがある。そしてこの感覚は物語とは違って終わりなく、いつまでも続くだろう。二人が相対する限り。

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