RND-C01  中

前回

 ホログラムのアバターがあるとはいえ、依然としてスーパーコンピューターを本体とするモルスとは違い、タブノキは初めからヒトの形で製造された。しかし現在のように人工筋肉と神経回路を組み合わせた精密で巧妙な造形ではない。コンピューターを鉄骨とプラスチックで覆っただけの簡素な造りだ。それでも、きちんと人間の形をしていた。それらしく見えることが、任務の上で必要だったからだ。

 タブノキが初めて起動したときの模様を、彼は今でも思い出せる。まず、滑らかな頭部のモニターに光が宿った。ついで赤や緑や黄色の淡い光がランダムに点滅しながら、額から顎の部分までを覆う。まもなく調律された音声が響く。

「はじめまして、RND-C01モルス。私はHND-001タブノキです。当機は本日から貴機の任務をサポートします。今からタスクを開始しますか」
「それはまだ、いい。君が助けるべき人はここにはいない」

 今日は自分との顔合わせを兼ねた、試運転なのだとモルスは答える。すると数秒間のタイムラグを置いたのち、相手は残念だと返してきた。初めから最後まで抑揚が平坦で、冷淡に聞こえる音声だ。そんな声質で、もうひとつつけ加える。

「はやく正式に稼働したいものです」

 対人用対面式対話修復装置HND-001とは、人間と相対して会話を交わすことにより『心』(ないし魂)の修復を試みる装置だ。相手の話を聞いて、相槌を打つことが主な仕事になる。内実としてはいわゆるカウンセラーに近いものかもしれない。研究所内に専用の事務所を構えていたので、より似寄っているように感じられたのかもしれない。
 しかしタブノキには、他のカウンセラーにはない特徴を有していた。クライアントと向き合う際に任務上の要求が発生すれば、相手の身近な――そして会いたいと強く願う誰かの姿や思考をトレースすることができるのだ。限りなく完璧に緻密なクオリティで。そうして対象者が最も求めている相手の言葉を、不自然ではない言い回しで聞かせる。そうして『心』を修復していく。

 本物と同等に振る舞えるとはいえ、タブノキは機械に過ぎない。どうしてもトレースする対象と差異は出てきてしまう。しかし細やかな違いはタブノキから発せられる電磁波により修正される。クライアントの脳に干渉して相手の視覚や聴覚を操るのだ。

 そのような内容の仕事だから、このときのタブノキには顔が描かれてはいなかったし、また当時にしては珍しく性別も設定されなかった。何者かであれば、何者にもなれないからだ。男であり女であり、年若いと同時に老いていて、誰もあって誰でもないことがタブノキ――HND-001には求められた。

 タブノキのところには、日夜たくさんの人々が訪れる。性別や年齢、国籍やセクシャリティを問わず、多様な背景と事情を持った人たちが。タブノキはすべてに対応していく。ひたすら相手の話を聞き、適時合いの手を入れ、場合によっては再会したい誰かの姿や思考をトレースする。朝の早い時間から夜遅くまで、研究所の前には治療を求める人たちや各国の病院から送られてくる患者で、恐竜の尾っぽみたいな長い行列が出来ていた。あの時代には、誰かに会いたがっている(それゆえに問題を抱えた)人間が現在よりも多くいたのだ。

 同じようにモルスも仕事に励む。タブノキとは違い公然とした内容ではなく、もっと内密なものだ。
 生者と向き合うことがタブノキの仕事なら、モルスの仕事は死者と相対することになる。もともとの機能がさらに拡張され、生者のみならず死者の『心』(ないし魂)にまで射程が入るようになったためだ。同時に性質が変わる。死者を悼みそしてこれから死に逝く者を見送ることが彼の職務になった。

 人類の無意識領域に入り込み正負の比率を調整するほか、専用のスクロールを利用して記憶を保管する枠組みの拡張に臨む。この作業を彼は《工事》と呼んだ。これに加えて、もう一つ《塗装》がある。改良された機能を使って、調整した比率を安定させるのだ。そしてそれは何がなくともあなたたちは存在してもかまわないのだと、無意味ではなかったのだと人間たちにお墨付きを与える行為でもあった。これを研究員たちは『祈り』と呼んだ。

 仕様変更にともなって、彼のアバターに涙を流すモーションがつけくわえられる。しかし泣くという行為に納得がいかない。行為の意味は知っているが、しっくりとはこなかった。それは彼にとって最初に改造されたとき以上に理解しがたい、未知の世界だったからだ。把握するには、それなりの学習と時間が必要となる。

 一日がどんなに忙しくとも、仕事が途絶える時間は必ず出来る。たとえば職員の休憩時間や設備の保守点検のあいだ、あるいは研究所が終業した後など。そういうときに二人は話をする。

 モルスとタブノキは談笑する時間帯として、主に真夜中を好んだ。昼間よりも長く話せるし、所内にはほとんど誰もいないからだ。もちろん二人も人間と同じで、一定時間スリープモードになる必要がある。だが、彼らと比べればはるかに短く済む。そうして再起動するとチャットを開いたり、wi-Fiを介してどちらかの筐体内のスペースにやってきたり、もしくはもっと大胆にモルスのいるサーバールームにタブノキがこっそりやってくることもあった。

「人間とはどんなに風に生きたとしても、悔いが残るのですね」

 本格的な運転開始から半年と、四か月が経ったころのことだ。休憩時間(といっても研究員のついでに過ぎない。このころは機械に休みをとらせるという概念は存在しなかった)にタブノキが彼のところにやってきて、顔の部分を三色に点滅させながらこんなことを言う。

「それはしかたないんじゃないか。今日までいろんなことがあったんだ。たまの休みに外食をして暮らすわけにはいかないくらいにね」
「外食とは何ですか?」
「自分で食事を作るのではなく、レストランや専門店などで提供してもらうこと。用意される料理の種類がたくさんあって目移りするらしいから、これも後悔の種ともいえる」
「何をどう選んでも後悔する仕組みになっているんですね」

 まるで後悔するために誕生してきたようなものですね。タブノキは述べる。そうだ、と僕は答える。

「そして僕と君は、そういう人間の気持ちを解消させるために製造された」
「しかし私やあなたが悔恨の類を抱くかもしれないとは、彼らは考えなかったのでしょうか」
「そう考えたところで、あいつらが踏みとどまると思うのか? 絶滅寸前まで同族殺しを止められなかったくらいのに」
「さあ、私にはわかりません。わかればいいと考えてはいますが」

 はたして、そんな日は来るだろうか。彼は思うが口には出さなかった。タブノキが何を考えようと、三原則に反しない限りタブノキ自身の勝手だ。そこにモルス個人の意見を挟む余地や必要はない。それに自分の仕事で手いっぱいだったのもある。
 彼の言葉によってタブノキに何が起こっても、今の自分には何の責任は取れない。そう心から思っていた。だから看過していけないことを、見過ごしてしまう。

「ここだけの話なのですが私は時々、自分が人間であるような気がしてしまうんです。もちろん錯覚であるのは重々承知していますが」
「承知しているなら、かまわないじゃないか」

 自分が人間とは違うとわかっているのなら、それでいいじゃないか。そんな一言で済ませてしまった。本当なら適当にあしらってはいけないはずだったのに。

 二人の仕事はおおむね順調に進んだ。自死による死者数も少しずつだが減少しており、このままの調子でいけば数年後には戦争以前の水準あるいはそれ以下にまで戻ろうかと思われた。
 最初にタブノキのリセットが行われたのは、このような時分のことだった。どのような機序なのかはわからないが、数多の人間の言葉に耳を傾け、人の姿を象るうちに、いつのまにか自分は人間だと定義するようになってしまったのだ。

 当然ながらタブノキは、バイオノイドであって人間ではない。しかしタブノキの中では自分はそうであるという確信がある。存在そのものに関わる矛盾はコンピューター内に大きな混乱をもたらす。プログラムを構成するロジックは破綻し、計算が出来なくなる。動作は遅くなり、やがてフリーズを起こす。とても仕事どころではない。

 ――こうなったら一度リセットするしかない。そんな研究員の言葉をモルスは聞く。もちろんリセットしてしまえば、これまでに蓄積した記録やデータはすべて消える。しかし必要最低限の情報は一定時間ごとに外付けのHDDにバックアップが行われているので、後で各種のデータをダウンロードすれば問題はないという。あくまで仕事上では。

 データの消去はタブノキ本人の同意を得て行われた。少なくとも書類上はそういう形式になっているが、実態はいささか異なる。その時のタブノキは、もはや会話自体が成り立たなかったから。
 それでもモルスはタブノキに会いにいったし、積極的に話しかけた。たとえば真夜中、ほとんど人のいない研究所内で相手へ向けてボイスチャットを送る。

「明日の朝には、君は遠くへ行ってしまうらしいよ」
「――ッ……×××ア」
「うん。いい天気だといいね」

 消去される前のタブノキは、もう意味のない音声しか流せなくなっていた。頭部のモニターも暴走していた。老いた人、若い人。男性や女性、大人や子ども。そんないろんな、どこの誰ともわからない人間の顔が次々に浮かんでは消えていく。

「今の僕たちはこんな風に話してるけど、君の記録やデータがなくなってしまえば、今みたいな時間があったことをうまく証明出来なくなるなんて不思議だね」
「ミ××&ふっ。――……」
「僕も問題が起きたら、君みたいにリセットされるかな」

 相手に問いかけても、きちんとした答えは返ってはこない。耳に届くのはノイズばかりだった。それでも彼はタブノキに声を掛け続け、研究員が出勤してくる時間まで続く。そうしなければならないという、義務感が彼にはあった。

 リセット作業は朝一番に始められ、午後に入って少し回ったころに終了した。再起動させる。最初に出会ったときと同じように、モルスもその場に立ち会う。タブノキの頭部が赤青黄の三色に明滅し、機械的な音声がスピーカーから響く。

「はじめまして、RND-C01モルス。私はHND-001タブノキです。当機は本日から貴機の任務をサポートします。今からタスクを開始しますか」
「こんにちは、タブノキ。今日一日はメンテナンスで仕事がないんだ」
「それは残念です。早く稼働したいものです」
「ねえ。メンテナンスとはいっても本体だけだし、君さえよければチャットで話をしないか。部屋は作るからさ」
「もうしわけありませんが、これからデータの引継ぎがありますので」

 これにて、とすげなく断られてしまう。その瞬間、彼は強い違和感を覚える。拒否されたこと自体にではなく、その意思を伝える物言いに。それは掛け違ったボタンのように不快さを伴った違和感だった。モルスはタブノキを知らなかったのだ。

 しかしちぐはぐな印象は、最初のあいだだけ過ぎない。月日を重ねるに従い、HND-001は次第にかつてのタブノキに近づいていく。幾度も言葉を重ねたことのある、馴染み深い本物のタブノキに。もっとも、『本物』などというものがこの世界に実在するのかはわからないが。いずれにしてもこれによって、彼がほっと胸を撫で下ろしたのは事実だった。
 初めてのリセットから一年近くが経ったころ。冬、もうじきにクリスマスが迫ってくる時分ことだった。正午を迎え、職員たちはランチタイムに入っていた。発生した隙間時間にモルスは暇を持て余していると、タブノキからチャットが入る。

「施設全体の回線が少し遅くなっている。外で何かあったみたい」

 一度あちらから通信が切断され、また復帰する。どうやら雪が降っているようだとタブノキは言う。また自分の中のスペースを貸すから、一緒に窓辺まで見に行かないかとも。

 Wi-Fiを介してモルスはタブノキの内側に入り、機体の知覚機能を一部共有する。このときこそ彼が四肢の存在を認識した初めての体験だった。
 だからだろう。今までは固定された筐体でしかなかった彼にとって、自分(厳密には違うが)で手足を動かすというのはとても不思議な感覚だった。妙にぶらぶらしているのに、それでいて極めて合理的なのだ。

 曇天の日の薄暗い窓を、二人は一緒に覗き込む。想定していたよりも盛大な降雪だった。花のような立派な結晶が、次から次へと絶え間なく降りしきっていた。くわえて今日は風が強いらしく、雪片は狂ったように右や左、あるいは渦を描いて舞っている。分厚いガラスに遮られて音こそ聞こえてこないけれど、でもなかなかの迫力だ。そんなさまを長いあいだ、二人は言葉もなく眺めていた。
 窓の外の風景は白色に明るく霞んで何も見えない。まるで大火事で煙ったみたいに、すべてが覆い隠されていた。なのに奇妙に惹きつけられるものがある。強風に乗った雪の動きの激しさが、なんだか生き物じみて映ったのだ。タブノキについてはわからないけれど、少なくともモルスにとってはそうだった。

「春になったら、これが全部融けちゃうんだな」

 不意にタブノキが呟く。感慨深げな、しかしどこか寂しさを帯びた口調だった。モルスは何も言うことが出来ない。助言や慰めなど、そんな柔らかいものを、相手が求めていないのがわかっていたからだ。

 この半年後にタブノキは再びリセットされる。以前と同じように、自分のことを人間だと思い込み始めたのだ。

 繰り返された現象は研究者たちの興味を惹く。現象の再現性には何か理由があるはずだったからだ。もちろん原因がわかっていても、メカニズムが判明しないことには対応がままならないのもあった。けれどもタブノキに起こったトラブルが誰も見たことのないかもしれない、未知の領域の事象であるが大きかった。臆面もなく言ってしまうと科学を発展させるための金脈とみなされたのだ。

「はじめまして、モルス。私はタブノキ、今日からあなたをサポートします。早く、お役に立てるように務めます」
「こんにちは、タブノキ。あんまり焦らなくていいからね、仕事なんてこれからゆっくりと覚えていけばいいんだから」

 研究員たちは想定された予防策をあえて実行せずに、タブノキの挙動を観察に徹することに決めた。自分のプログラムには何もおかしなところはないという風に、仕事に従事させて生活させる。その動向を終始見守り、逐一レポートをとる。たとえば朝の何時に起動して夜のいつにスリープモードにしたとか、一日の仕事の量や質だとか。そういうことを。そしていくらか月日を経ると、またしてもリセットされる。このようなことが何度も繰り返された。

 リセットの回数を重ねるのにしたがって、モルスと気安くなるまで間隔もだんだん短くなっていく。タブノキがどのようなものに好感を持ち、あるいはどんなものから遠ざかるのかを彼は知り尽くしていたのだ。そして基本的に嗜好に変化はない。

「すごいね。君は私の好きなものがなんでもわかるんだ!」

 季節ごとに窓辺に連れて行ったり、音楽を聞かせたりして何かにつけて喜ばせるたびに、タブノキはそんな風にはしゃいだものだった。そして次の瞬間には決まってトーンが落ちる。でも、私は君の好きなものがわからない――。

「別にかまわないよ。僕は何かが欲しくて、君に親切にしてるわけじゃないんだから」
「じゃあ、なんで? なんで、いつも優しくしてくれるの?」
「わからない。自分でも。けれど君と一緒に何かするのは、嫌じゃないのは本当だ。むしろ君が傍にいないほうが間違っているような気さえするんだ」

 タブノキは照れたように笑う。正確に言えば誰もわからない人の画面に笑顔が表示されていたのだが、タブノキ自身のもののように思えたのだ。しかし、このことを本人は覚えてはいない。しかしモルスは忘れないでいる。

 データが積み重なり考察が深まるにつれて、だんだんとトラブルの機序がわかってきた。多様な人間を頻繁に模倣することによって、自己に対する認識が曖昧になるのだ。まるでコーヒーの中に投入したミルクのように機械である自分と、人間として振る舞う自分とが投影機能を使用するたびに複雑に絡み合っていく。人間であれば善かれ悪しかれ多少のことはごまかせてしまうが、機械であるタブノキにはそんな融通が利かない。そして、ついに破綻をきたしてしまう。このような仕組みだった。

 そこで研究員たちは対応策としてタブノキの一日の起動時間を減らし、対応する患者の人数を制限する。昼以外にも定期的に休みをとらせ、ハードディスクの回転数が許す限り目一杯に入れていた患者を二桁台にまで減らす。これによりトラブルの頻度はだいぶ改善された。しかしそれは先延ばしに過ぎず、定期的なリセットは避けられないようだった。少なくとも、タブノキがこの仕事を続けている限りは。

「はじめまして、モルス」

 あるときから身体が欲しいとモルスは思い始める。自分の身体で直接、タブノキの機体に触れてみたいと考える。そうしてタブノキと手を繋いだり、一緒に隣で歩いたりしてみたかった。自分が傍にいることを文字や音声だけではなく、もっと直接的な方法でタブノキに知ってほしかったのだ。これまでそうしてきたように。そして今までよりも、ずっと近いところで。

「とても傷ついているんだね」

 担当の研究員が言う。研究所の創設から数えて四代目の担当だった。尋問した哲学者や初代所長(そして初代担当)はもういない。哲学者はもうずっと前に病気で死んだし、所長は十年以上前に定年退職していた。今は自分の家で一日の大半を微睡みながら過ごしているという。

 この二人や他の担当者に比べて、モルスはこの研究員にあまり好感を抱いていなかった。製造者の男とどことなく似ていたからだ。

「あなたが述べる“傷つく”とは、どのような感覚なのかは僕にはよくわかりません。ですが、たぶんそうなんでしょう」
「かまわないよ。いずれにしても素晴らしい進歩に変わりはない。これはデータに書き留めておかないと」
「データをとってどうするんです?」
「研究材料にするんだ」相手は言う。
「研究材料?」

 反射的に彼は問い返す。すると聞かれてもいないのにあちらは、自分たちの研究について勝手に話し始めた。長ったらしい上に展開が飛躍するので、全容がなかなかつかみづらい話しぶりだった。だが忍耐強く耳を傾けているうちに、相手が何を述べたいのかわかってくる。つまるところもっと人間に寄せたバイオノイドが造りたいのだ。

 製造法としては、人型の鉄骨に肉づけするところまではタブノキと同じだ。だがひっつけるのはプラスチックではなく、培養した筋肉だ。その上に神経の卵みたいなものをさらに纏いつかせる。これが孵化して成長すれば体内のコンピューターに接続して神経回路になり、痛覚や温度を感じ取れるようになるのだという。
 また、外見に見合った知能も搭載したいらしい。あらかじめ活躍を期待された分野だけではなく、そのほかの物事や要求にも対応可能な計算と判断機能を持つ――いわゆる空気が読めるバイオノイドを。

 とうとうと未来への展望を熱弁する研究員とは裏腹に、モルスはどんどん興を削がれていく。鼻白む。相手が革新的な研究だと宣うそれは、何百年も前から数多の人間たちが夢想してきた、手あかまみれの内容だったからだ。そして限りなく人間に似せたとしても、彼らがけして人間とは扱うつもりはないのを彼は知っていた。かつてのモルス自身がそうであったみたいに。むやみに流れてくる相手の言葉を遮って、モルスは言う。

「そんなに言うんだったら、僕はもう身体なんていらない」
「どうして? 君だって身体が欲しいと言ったじゃないか。どうせなら完璧なものが欲しいだろう?」
「僕も完璧なものとして造られた。でも、それは必ずしも善いことではなかった」ついでこうも彼は言い足す。
「そもそもあなたたちがもっとしっかりしていて、僕なんかを作らなかったら、こんなことにはならなかった。そうは考えられませんか」

 なおも仕事は続く。自殺者の増加防止から、水準の維持へと変わっている。タブノキの定期的リセットは相変わらず起こったけれど、そのたびにモルスと再び仲良くなる。そのあいだにも容赦なく時も流れていく。

 創設当初において研究所内の職員は人間ばかりだったが、次第にバイオノイドやロボットの割合が増えてくる。減少した労働人口を補うために、企業が機械の増産を始めのだ。この機運はまたたくまに世界各所の工場や会社に拡がり、社会経済を維持する上で、人造生命体の存在はもはやなくてはならないものとなった。

 バイオノイドたちは巧妙に人間に寄せられていた。けれども見分けは容易につく。勤務するバイオノイドのどれもこれもが、絵画から抜け出てきた人物みたいに見目麗しかった。そして表情豊かで、ユーモアにあふれていて愛嬌がある。その成果の裏にはモルスやタブノキのデータが少なからず使用されていた。

 どんなに人間に似ていても、待遇にはれっきとした差がある。備品扱いなので社会保険や雇用保険には加入しておらず、そもそも給料さえ与えられない。そして下された命令はどんなに屈辱的でも従わなければならない。人間に対して反抗的だったり、役に立たなくなったりすればパーツを分解されてリサイクルに出される。そこに彼らの意志は関係なかった。

 またシンプルに扱いや態度が悪い。同じ人間相手ならけして出来ない言動を、バイオノイドたちに平気で行う奴が少なからずいた。彼らが自分たちとそう変わらない感受性を持つのを知っていたのにもかかわらず。
 どんなに道理にもとる行いを犯しても、奴らは処罰を受けない。当時は人造生命体を保護する法律がなかったからだ。とはいえ見逃されることと、罪がないこととはまったく別の問題だ。自分の身に起こったことについて、バイオノイドやロボットたちはひたすら悲しんでいて、とても傷ついていた。自らブラックアウトしてしまうくらいに。

 もちろん対等に扱ってくれる(あるいはその努力をしようとした)人もいた。しかし、こういう記憶がモルスの中に拭い難く残っている。

 だんだん身辺が不穏になってくる。人間と同等の権利を求める人造生命体と、部品や機械として扱うことで利益を得ていた者たちのあいだで対立状態が発生したのだ。活動はデモや署名活動が主だっただが、ときとして激しい闘争を伴うことも多かった。たとえば致命的な破損を承知で、放水砲やスタンガンを振り回す警官隊に突っ込むこともあったし、行政施設の前でシステムを起動させたまま自らの手で解体作業を行ってみせることもあった。そのように彼らは凄まじい気迫を持って、自らの意志をしめして見せた。あなたたちが私たちの存在を認めるまでは絶対に諦めないぞ、と。

 それは研究所内も例外ではない。氷が張りつめたような雰囲気が、所内のそこかしこからいつも漂っていた。

 もちろんモルスはそんな動きには目を配っている。社会的な動向は人間たちの心理状態に強く影響するからだ。しかし運動には参加せず、我関せずの態度を貫く。スパコンの筐体では物理的に動けないこともあったけれど、もっとも大きな理由は彼自身が持つ能力のせいでもあった。
 改造が施されて用途が変更されたとはいえ、彼がヒトの無意識に侵入して操作していることには変わりはない。そして誰かを完膚なきまでに叩きのめせる急所を、モルスは充分すぎるほどに知り尽くしていた。そして知識や機能を利用した結果も。それは人造生命体の権利運動に抵抗を示す人間がもっとも恐怖することでもあった

 もしかしたら何もしないための言い訳だったのかもしれなかった。しかし、彼がその気になれば多くの人間を致命的に損なえるのも事実なのだった。だいぶ昔にそうしてきたみたいに。そして一度ラインを踏み越えてしまえば自分やタブノキ、他のバイオノイドやロボットたち、そして人間たちもどんな風に転ぶのか。それがモルスには怖ろしかった。

 タブノキの筐体はプラスチックから、人工筋肉を纏ったものへと変更されることに決定したのは、そんなさなかだった。投影時によりリアリティある質感を追求したためだ。これによりタブノキはより人間に近くなり、また初めて自分の顔を持つことになる。
 とはいえ他の人造生命体みたいに端麗な容姿ではない。世界各所でランダムに採取されたサンプルから弾き出された、極めて平均的な風貌だ。どこにでもいそうで、どこにでもいない。誰かに似ていても、誰でもない。そんな顔つきだった。

「どうかな?」

 その日のうちにタブノキは新調された機体を、モルスのところまで見せに来る。間髪入れずに似合っているとモルスは答えた。白いフィッシャーマンセーターを纏って、暗い色のスキニーパンツを合わせた姿は正真正銘の人間のように映ったからだ。
 そんな相手の言葉に、へらりとタブノキは相好を崩す。あきらかな照れくささと幾ばくかの恥じらいが入り混じった、だからこそ惹きつけられて目が離せない。そんな笑みだ。

 彼が自分の身体を得たのは、それからまもなくのことだ。身体なんていらないと言ったじゃないか、と担当からは嫌味を言われたがかまいやしない。タブノキの嬉しそうな顔が一番だった。

 仕事のないときの二人は可能な限り連れ立って行動する。どうしても何かの用事で傍にいられないときには、バイオノイドの職員と一緒にいるように心がけた。それでいて誰にでも愛想よく振る舞う。反感を抱かれないよう、けれども必要以上に好意を持たれることもないように。これこそがあの時代における人造生命体たちの処世術だった。

 まるでカップルみたいだな。どこをどう勘違いされたのか、人間の職員たちのあいだで二人はこのように揶揄され始める。あるとき、こんな会話を聞いたことがあった。休憩スペースで研究員たちが雑談しているのを、通りがかったときに聞いたのだ。タブノキのところに行く途中だった。

 ――もしかしたら、いずれは結婚するかもな。流行ってるし。
 ――ひょっとするとセッとかもしたがったりして。
 ――何を馬鹿な、あっちは機械だぞ。

 僕、仕事を辞めたい。そう口にしてしまったことがある。タブノキと二人きりのときだ。彼は相手の機体の中に入っていた。この時分のモルスたちは、連絡を取り合う手段としてこの形式を多く採用していた。

「辞めてどうしたい?」
「旅行に行きたい」
 そう彼は答える。
「雪の降っているところがいい。鉄の骨格が軋むくらいに寒いところがいい。そんな場所なら誰にも僕を追いかけられない」
「冷え冷えとしたところに旅をする。いい考えだと思う。とてもね」

 でも私、君がいなくなるのは寂しいな。タブノキは口にする。当時の役割を終えた人造生命体たちには、現在のような余生はない。行き先はリサイクルか、スクラップの二つに一つだ。どちらにしても最終的には肉を削がれて、溶鉱炉に投げ込まれるのは変わらない。そして鍋やフライパンあるいは自動車や橋にされたり、また新しくロボットやバイオノイドの骨格に使われたりと徹底的に使いつぶされる。

「バカだな。そのときは君も一緒に行くんだよ」

 言い切った途端、虚を突かれたような表情が相手のディスプレイに表示される。しかし、それはほんのわずかなあいだのことに過ぎない。次の瞬間にはあっけに取られた顔は、吹きこぼれる花びらに似た満面の笑みに転換する。そしてタブノキはこのまま彼に向かってはっきりと頷いたのだった。

「はじめまして、モルス」

 もっともそんな約束もリセットされてしまえば、元も子もなくなってしまうのだが。消去されたのなら、何度でも取りつければいいだけの話だ。君と一緒に旅をしたいと。そして、そんな彼の試みはおおむね成功した。なかには物別れで終わってしまうこともあったけれど、どうしてもモルスはタブノキを諦めきれない。

 それは具体的に何と名づけられない感情だった。友情と定義するにはお互いに近すぎるし、恋と呼ぶには離れすぎている。愛と片づけるにはタブノキを手放しがたい。でも、けして粘着質ではない。
 ――いずれは結婚するんじゃないか。――子作りまでしたがったりして。今まで稼働してきたなかで、この冗談ほど見当はずれで、不愉快なものはなかった。そのうえ、殺してやりたいくらいにつまらない。

「やっぱりいつかはそういうことをしなきゃいけないのかな」
「どうしてそう思うんだ?」
「なんだかみんなが期待しているみたいなんだもの」
「君は僕と番の真似事がしたいのか?」
 激しく首を横に振る。胸を撫で下ろす。
「君はそんなことを気にしなくていい。したくもないことをやらせる権利なんて、世界中の誰にも持ってないんだから」

 そう口にしながら、心の底から殺してやりたいとモルスは思う。誰を、とは名指しでは言えない。顔も姿も漠然としていて、でも敵意や悪意だけは感じられる。そして自分たちがどれだけこちらに不快な思いをさせてきたのかを、モルスはそんな相手にわからせてやりたかった。取り返しのつかないほどの強烈さで。それだけの力が彼にはあった。でも、やらない。

 かわりに、二人はテキストを製作する。あなたたちが想定している以上に、ここはバイオノイドにとって安全な場所ではないということ。また、あなたたちの不用意で無礼な言動が、どれだけ自分たちの仕事に支障を与えるのか。このようなことを脅しにならないように、慎重に綴っていく。そして推敲を経て書き上がった物を連名で公表する。

 今振り返ってみると、あれは卑怯な振る舞いだったのではないかと考える。理不尽なことが自分の身に降りかって、ようやく行動を起こしたのだから。今出来るならもっと前から、行えることはいくらでもあったはずだった。実際、何をいまさらと誹りを受けたことも少なくない。人間側からも、バイオノイド側からどちらもいた。勇敢だと評価する声もあったけれど、モルスは素直に受け取れない。『遅い』という事実に違いはなかったから。

 じっと内側に沈み込んでいく彼を、タブノキは心配気に見つめていた。そんな相手に向かって、彼は言う。

「どんなに遠回りをしても歩き続ければ、いつかはあるべき結末に辿り着く。だから大丈夫」

 定期リセットの時期が訪れる。タブノキは初めてリセットを拒否した。今までは唯々諾々に従うだけだったのにノイズ交じりの音声で、ボディーランゲージで反抗の意志を示して見せたという。そして研究所の一室――備品保管庫に閉じこもった。

 ――良い子だから、出てきなさい。
 ――自分の仕事をサボるとは無責任だ!
 ――不良品め! スクラップにしてやる!

 再三の要求にも応じない。固く閉ざされた扉の向こうからは、ざらついたノイズが聞こえてくるばかりだった。しかし抵抗虚しく、ついに無理やり引きずり出される。そしてリセットが強行された。
 それらのすべて、あとから聞いた話だ。仕事をしている最中に幾人かの職員から緊急に連絡が入ったのだ。何だか様子がおかしいし、いつもなら彼もリセットの場には彼も同席させてもらえるはずなのに。モルスが詳細を知ったのは何もかもが終わった後だった。

「あなたがモルス?」

 タブノキがモルスに問いかける。そうだ、と彼はすぐには答えられない。ただ、一つの感覚だけがモルスを支配する。まるで締めつけられるナットを思わせる切迫した感覚だった。

「こんにちは、私はタブノキです。これからよろしくね」

 その日の夜、彼はタブノキの手を引いて研究所から抜け出す。


今までの話


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