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カウンセリング

前回

 ある日の朝のことだ。まだ日が登りきらない時間に目が覚めたので、二度寝をしたら妙な夢を見た。

 だいぶ昔の話。とあるところに戦争をしている国々があった。もちろん争いごとだから勝ち負けがある。敗戦した国の王と王妃は辱しめられるために、敵国の魔法使いにより馬に変身させられた。そうしてまだ耳も尻尾も生え終わらないうちに、広場に設置された檻に投げ込まれる。新しい君主の威光を示すために見世物にされるのだ。

 新王の命令によりすべての国民は、必ず一度は彼らの姿を目にしなければならなかった。それは山深い洞窟暮らしの私も例外ではなく、令状により都まで召還された。そうして曲がりくねった長い道を、十日ほどえっちらおっちら歩いていって、ようやく首都に辿り着いたころ。幸か不幸か、前国王夫妻はすっかり馬に変わりきっていた。
 城下町にある広場の中央。群集に取り囲まれた檻の中で、馬たちが干し草を食んでいる。しかし獣らしい、がっついた食べ方ではない。匙で掬うように、草を舌に巻きつけて、少しずつ口に含んでいく。
 咀嚼するたびに、鬣や尻尾がさらさらと音を立てて揺れる。それは絹紐が擦れ合うみたいに小さな、また、どことなくすすり泣きにも聞こえる音色だった。

 しかし惨めな現状とは裏腹に、動物としての彼らの体格は実に見事なものだった。胸と臀部の筋肉は張りつめて、反対にお腹は骨が浮き上がるくらいに徹底的に引き締まっている。毛色も素晴らしい葦毛で、鮮明な色合いのために、薄暗い中でも2匹の周りだけがほのかに光っているように見えた。そこに足りないものや、よけいなものは一切存在しなかった。彼と彼女を馬としてたらしめるに必要なものだけが、必要な分だけ用意されていた。それが悪意ある魔法のためなのか、もともと有していた資質なのかは判然としないけれど。

 そのような白馬に変身した彼らには、人間だったころのような明確な体格差はない。しかしどちらが王で、どちらが王妃なのかは眺めている方には一目でわかる。2匹の背丈の半分からさらに半分くらいの仔馬が、片方の乳房に吸ついているからだ。

「あの小さいのは馬かな、それとも人間かな」
 私のすぐそばで、人だかりの中の誰かが呟いたのが耳に届く。
「人間だろ。ああなる前から、ご懐妊してたんだから」
「でもさあ、出てきたときからぜんぜん馬じゃんか」
「どっちだっていいよ」
「まあ、今さら体だけ戻ったってダメだろう。もう馬で生まれちゃったんだから、頭の方はきっとコレだよ」

 言い締めると広げた両手を頭のてっぺんに添えて、指先をちろちろと動かす。ついで、こうもつけ足した。あんなでも世の中に出てきたからには、どうしようもないじゃないか――。そんな言葉を聞いた瞬間に目が覚める。

 まさかと思うほどに、気がかりな夢だった。なんとなく気分がそわそわして、起き抜けについ自分の体を確かめてしまう。あたりまえのことなのだが、別になんともない。けれど、私は少しだけほっとしてしまう。そのはずなのに、どうしてだか落ち着かない。この1日はずっとぼんやりしたままで過ごす。
 あんまりにも上の空だったせいか、彼やギザブロー(ミームワームを改造した情報生命体)い心配されてしまう。

「散歩でもして、外の空気を吸った方がいいんじゃないか?」
「ンミミミ。ミミミミ、ミミミミミ、ミミミンミ」《そうだぞ。病は気からっていうからな》
「うん。ありがとう」私は答える。
「なんだったら一緒に行くけど」
「いや、大丈夫」
「ンミミミミ?」《本当か?》

 本当だと私は返す。2人はまだ納得していない様子だったけれど、カウンセラーに相談すると告げたら引き下がった。(ちょうど次の予定日が間近だったのだ)そして話のおしまいに彼がこちらに向かって言う。

「あんまり無理しないで、何かあれば言いなよ。最初にそう決めたんだから」

 担当のカウンセラーも、彼と同じ文句を口にする。

「しんどいことや、不安なことがあれば何でも言ってください」

 妙な夢を見てから数日後。私は大きな窓がある部屋の中にいた。取り込まれた陽光が、白っぽい壁や床に反射して、室内は過不足のない適度な明るさに満ちていた。
 そんな部屋の中央に設置された丸テーブルを挟んで、左斜め向かい。台座に置かれた一抱えほどの球体から、音声が滑らかに響く。何か言葉が発せられるたびに球帯にはめ込まれたLEDのベルトからは、黄色や青色の光がぐるりと走った。このようなロボットが私を担当している先生だ。

 生き物離れした造形のためか、なんとなく人間(あるいは人型)相手と話しているときよりは緊張しない。緊張はしないが、どこか喉に引っかかるものがある。

 それでもどうにか、このあいだ見た夢について話す。言葉遣いはたどたどしかったし、途中でつっかえてばかりだったけれど先生は急かさず、横やりを入れないで、ときおり相槌を打ちながらひたすら聞いてくれる。そうしてすべて話し終わると、カウンセラーは私にこう訊ねてきた。

「目が覚めたとき、どう感じました?」
「……――失礼だと」そう私は答えた。
「一体、何が失礼だと?」
「自分だって好きで生まれてきたわけじゃないのに、他人のことをあんな風に言うなんて、とても失礼で嫌だって」

 なるほど、と相手は返す。同時に中央のベルトがちらちらと白く瞬いた。いささかの間を経て、球状のロボットは再びスピーカーから声を発せられる。その気持ちは今でも続いていますか?

「ちょっと薄らいでる。でも、まだある」
「あなたにとって、それは善いことでしょうか」
 たぶん、そうだと私は返す。
「私の夢には、何か意味があるんでしょうか。ほら、夢診断ってあるでしょう。あんな感じで」
「正確には夢分析ですね」巻かれた帯が今度は青く光る。
「古来より人類は夢から何がしかの意味や、予兆を読み取ろうと苦心してきました。おそらく――これは私の持論ですが――己の最も深い部分から、やってくるものだからです。そして心理学の開祖たちが病理を解明するために手掛かりにしたのも、まず夢でした。精神医学が発展した今ではいささか見方が異なっていますが、現在でも夢に重きを置く流派は存在します。定石が発見されていない曖昧な領域を経由する方が、適切なクライアントが少なからずいるのです」

 自分の場合はどうなのだろう。カウンセラーの言葉に耳を傾けながら、つらつらと私は考えてみる。だが、答えは出ない。専門的な知識は持ってはいなかった。ただ眠りの中で見た光景と、聞いた言葉が焼きついたように離れなかった。心ならずも馬に変身させられた両親と赤ん坊。こんなのでも産まれてしまったんだから、どうしようもないじゃないか。

「このことからもわかるように、夢には自分でも感知しえない心持が反映されている場合もあります。あなたはご自身の見た夢に病理性が含まれているのかを知りたいと?」
「わからない。でも、気になるんです」
「このカウンセリングでの大きな目標は、あなたが穏やかに日々を過ごせるようになることです。もしあなたが分析を望むなら、私はその手助けをします。ただ専門家としては問題をひとまず棚に置いて、心身の落ち着きを優先させるのも手だとも思われますが」

 どうしますか。そう問われても、私はすぐに返すことが出来ない。どうしよう。頭の中がその一言でいっぱいになっていた。柘榴の種みたいに一寸の隙間もなく、ぎっしりと。

      *

 結局、診察時間内に答えは出ない。先生はゆっくりでいいと言ってくれたが、私はなんとなく気落ちしている。自分が形ばかりの木偶人形であるような感じがしたからだ。徹底的に使い古されて、火に投げ込まれるのを待つばかりの。そんな受け取り方しかできないのが情けなかった。そんな風にくさくさしながら私は待合室の長椅子に座って、会計に呼ばれるのを待っている。

 すると、ある瞬間、見覚えがある背格好をした人物が眼前を横切った。
 通りすがりの誰かの正体を認めた瞬間。唇が“あ”の形に開く。私の声を聞きとがめたらしい。相手もこちらに向かって小さく首をひねり、同じように短く言葉を漏らす。この人が一体誰のものかなのかを、私は確かに知っている。どこか憂いを帯びた表情、垂れ気味のくりくりとした両目。荻原メイだ。

 こんにちは。とりあえず私はそう言って、笑ってみせた。でも口の端が吊り上がったというよりも、ひきつっているのが自分でもわかる。とても動揺していて、それはたぶん彼女も同じであるらしい。お互いにどぎまぎとしてしまい、こんなことを言いあう。

「こんなことってあるんですね」
「あるんだねえ」

 そうして私たちはそれぞれ会計を終えた後、カフェテラスまで移動する。あのまままでは、なんとなく別れかねたのだ。ここで会ったが何とやらというわけではないのだけれど。

「あらめまして。このあいだはカニを送ってもらって、ありがとうございました」

 テラスから取り込まれた自然光と間接照明の灯りが混じりあって、店内は明るさに溢れていた。眩過ぎない適切な明度で。そしてチルアウトミュージックが流れ、コーヒーや紅茶の匂いが漂うなか。このように荻原メイが口火を切った。

「お口に合えばよかったのですが」
「はい。とてもおいしかったです。こう……つるっとした身に甘みがあって、あとからすっと溶けていく感じが」
「お刺し身ですね。私は店で食べたけど、あれは確かにおいしかった」

 はい。そういったきり彼女は口ごもる。私も何も切り出せない。ただコーヒーカップの中でかき回される、ティースプーンの銀鈴じみた音だけが耳についた。
 いつもならばもう少し滑らかに話せる。しかし思いがけない場所で出くわしてしまったのが、私の言葉を重たくさせた。鉢合わせした場所が場所だけに、はからずも己の恥部を露わにしてしまった気がしたからだ。
 もしかしたら、それは荻原メイも同じなのかもしれない。食器を操り続ける表情は、そこなしか硬い印象がする。その顔をずっと見ていると自分だけきまりを悪くしているのが、なんだかもうしわけなくなってきた。そしてようやく口に出せたのが、この一言だ。

「喜んでもらえたみたいで、良かった」
「ええ、ほんとうに」
 わずかに間を置いたのちに、彼女はそのように返す。ついで、彼女はこうも訊ねる。このあいだは大丈夫でしたか、少し大変そうな感じでしたけど。
「もう平気です。終わったことなので」

 これより前に荻原メイと会話をしたのは、ギザブローが戸籍を獲得できるよう、いろいろ奔走していた時分のことだ。彼のプログラムを現代風に再構築したり、保証人になるよう研究所に根回しを行ったりと忙しかった。なんせ彼を動かしているプログラムは今の時代では化石みたいな形式で書かれていて解析するのも骨が折れるし、研究所は研究所で何十年にもわたってウィルスを見逃してきた不祥事を詳らかにしたくないから腰が重いしで、問題が山積みだったのだ

 最終的にはギザブローは改造――というか、ほとんど作り直しに近くなった(このプログラムを設計したのは誰だ、と当事者である彼は独りで怒っていた)けれど何とかなり、どことなくいい感じの報告書を作成するのと引き換えに研究所のバックアップも取りつけられた。無事に目的は果たせたので、雨降って地固まるという感じだが、すべてのタスクが終了したあとの虚脱感はけっこうなものだった。

 荻原メイからのテレビ通話を受信したのは、その渦中でのことだ。旅行へ行ったときに送った、お土産へのお礼だった。

 私はキーボードを叩く手を止め、少しだけ彼女と話をしたのを覚えている。厚くなったり肌寒くなったりで切る者に悩むとか、今年に入って初めてカエルの鳴き声を聞いたとか、そのような他愛ない話だ。

 しかし込み入った事情を私は荻原メイに打ち明けはせず、また彼女も自分の抱えた困りごとをこちらに出しはしなかった。あのときも、それ以前にも。心の奥底に抱えた複雑さを明かすのには、まだ早すぎる段階だと――少なくとも私は――感じていたからだ。もっともそんな線引きは、今では無意味になりつつあるけれど。

「……お互いにカウンセリングを受けているのは知っていたけど、まさか同じ病院だとは」しばしの間を置いたのちに、私はそう切り出す。
「予想外でしたね。でも、なんかハノイの塔みたい。どんなに時間はかかっても、いつかは同じところに辿り着くっていう感じで」

 ハノイの塔。その単語を反芻する。でも、声には出ない。言われことをハッカのキャンディーでも舐めるように、頭や胸の中でひたすら繰り返している。そうしているうちに、もはや逃れようがない気がしてきた。テーブルの向こう側にいる彼女はもちろん、自分の抱えているはずの問題にも。
 荻原メイはさらに続ける。
「私たち、脆いですね」

      *

 私がカウンセリングを受けるようになったきっかけは、裁判所からの命令による。私の起こした事故の要因に、メンタルの問題が大きいと裁判官がみなしたからだ。

 もともと私は走り屋というか、バイクで道を走り飛ばす趣味を持っていた。週に1度。土曜日から日曜日に変わる境目の時間に、高速道路を突っ走るのだ。

 相棒はここ数十年で製造された、赤ちゃんみたいに新しいものではいけない。もってこいなのは私の両親が生まれるずっと前に造られた、制御装置のついていない、マニュアルで運転するしかないようなレトロなバイクだ。それでどこまで速く走れるのかを試していた。
 おそらく事故当時のスピードは新記録だったのだと思う。このときの速度メーターが、どれくらいの数字を指していたのかは正確には思い出せない。あまりよく見ていなかったのだろう。しかし実際に機械を操縦していた私にはわかる。あれは生まれてから……一度も体験したことのない速さだった。吹きつける風のために肉が波打ち、骨が軋む。そのような速度だ。

 そして事故った。あとから聞けばあまりの速さにカーブを曲がり切れず、バイクがスリップダウンしたのだそうだ。騎乗していた私の体はフリスビーの如く道路の外まで投げ出され、高架下に落ちたとも。

 目が覚めると私は病院のベッドの上にいる。けれどもその理由がすぐにわからない。不快感もなければ痛みもなかったからだ。むしろまるでよく晴れた四月の朝みたいに、とても爽やかで自然な目覚めだった。だから1年も眠り続けたと聞いて、とても驚いてしまう。

 ――これは奇跡ですよ。病室に駆けつけてきた担当医が、こちらに向かって開口一番に言う。実際、病院に搬送された直後の私の身体は惨憺たる有様だったらしい。

 まず両手足は千切れ、骨は粉々になっていた。頭部は落としたトマトを彷彿とさせる様子に変貌し、容貌は判然としなかった。一番厄介だったのは内臓で、まるでプレスに掛けられたように圧縮されていのだという。全身のあらゆる場所から血が噴き出し、私が乗せられたストレッチャーが通り過ぎた廊下には、一筋の赤い道標が出来るくらいだったと聞いた。

 日曜日の深夜に急遽編成された医療チームは私から採取したゲノムデータをもとに、治療に必要な臓器を印刷、あるいは培養して移植した。ナノマシンで切断された組織や神経を結合させ、粉微塵になった骨や、切断された手足をくっつける。このような医師たちの懸命な努力により、私は命をとりとめたのみならず、全身が事故直前の状態で復元された。理論上では身体機能は万全で、後遺症もないはずだった。なのに、私は一向に昏睡状態から覚醒することはなかった。
 術後から一か月がたち二か月がたち、やがて半年が過ぎる。そうしてそこはかとない諦めムードが医療チーム内に漂い、親族間で安楽死さえ検討され始めたときに意識が回復した。

 こうして生還したからには今後は無茶なことはしないで、まっとうに生きるべきだ、と担当医師は強くこちらに力説する。まあ、その通りだと思う。
 だが相手は勘違いしている。そもそも私は自殺するためにバイクを飛ばしたわけではない。私は私自身のやりたいことを、忠実に行ったに過ぎなかった。しかし、周囲はそう考えないようだった。

 リハビリに励む最中。私は在宅捜査を経て、検察官からの取り調べを受けたのちに、裁判に掛けられた。判決は百年間の免許停止と罰金、ついでに半年間の勤労奉仕。これらに加えて定期的なカウンセリングの受診を義務づけられた。判例を考えれば懲役を科されてもおかしくなったから、相当に寛大な判決だ。(きっと私以外に負傷者がおらず、破損したのもバイクだけだったのが大きかったのだろう)

 あなたは事故当時に走行していた他の人たちについて、本当に真剣に考えなければならない。もっとひどいことになっていても、おかしくはなかったのだから……。このように裁判官はとうとうと説諭を述べた。そのおしまいにつけ加えてきた言葉が、今でも記憶に残っている。
 ――あなたには、あなた自身を保護する義務があります。市民として課せられたもの以上に、神聖な義務です。このことを忘れないように。

 そんなことを言われても、私は困ってしまう。ちゃんと睡眠は摂っているし、食事だって1日のカロリーや栄養の摂取量を過不足がないよう気を使っている。掃除や片づけも不多少の手際があるが、まあ出来ている方だと思う。
 だからこれ以上、何をどうやって自分を護ったら良いのかなんて、ちっともわからなかった。その認識は事故から3年が経った、現在でも変わってはいない。

「別に弱っていてもいいじゃないか。日々、過ごしていればいろいろあるんだし」
「うん。でも、苦しいのには変わらないから」

 どうして息をするのだけでも苦しいのだろう。彼女はそう口にした。同時に、心ならずも馬に変身させられた人間の姿が頭の中に浮かぶ。炭酸水の中で弾ける泡みたいに。しかし、私はすぐに振り払う。今は相手の話に集中したかった。

「なにか、気がまぎれることがあればいいのだけれどね。ただあんまり度が過ぎると、病院のお世話になるかもしれない」
「……病院に通っているのは、そのせい?」
 まあね。彼女の問いに私は答える。
「自滅行為だと思われたんだ。このまま好きに続けさせたら、私自身の体や財産を損なっていくと。そんなつもりはなかったのだけれど、でも見かけだけなら実際、そのとおりだから文句がつけられないんだ」
「自分が思っている自分と、他人から見た自分ってけっこう違いますよ。そういう人、私、知っています」
「お兄ちゃん?」彼女は頷く。

 荻原メイと彼とは幼なじみだったそうだ。親が職場結婚したもの同士で、家族ぐるみの付き合いをしていた。お互いの家が近所にあるし、誕生日やクリスマスなどのイベントごとに顔を合わせるので、おのずと親しくなった。病弱な人だったという。

「食事制限とか運動制限とか守らなきゃいけないきまりが多くて、まるで足枷や手枷と一緒に産まれてきたみたいだった。でも、くしゃくしゃしたところは見せようとはしなかった。私の前ではいつでも年上の、頼もしい少年としてふるまっていました。とはいえ、どうしてもコンディションを保てないことってありますよね。彼も、ときどき崩れることがあったんです。(少なくとも私のところでは)絶対に泣きわめきはしなかったけど。でもちょっと肩を落としているときがあって、そのときの陰りのある顔が……こう言ったら本当に失礼だけど、とても素敵だった。本人がそれに気づいていたのかは、わからないけれど」

 彼は幾度となく入退院を繰り返す綱渡りのような健康状態だったが、どうにかこうにか二十歳近くまで永らえた。だからこのまま……おじいちゃんになるまで、ずっと生き続けるのではないかと、彼女はなんとなく思っていた。だが、幕切れは突然に訪れる。ある日の真夜中。彼の心臓が止まり、緊急搬送されたのだ。医師たちは最善を尽くしたが、彼はもう二度と目を開くことはなった。

 事の表面だけをなぞるなら、ありふれた話だ。しかし荻原メイにとっては違う。長いあいだ慕い続けてきた、お兄ちゃんなのだ。そして彼が死んだのは、自分のせいかもしれないとも感じている。

「もっと奇麗なものが見たいって、心のどこかで思ってた気がするんです。その気持ちを、あの人もなんとなく知っていたのかもしれないとも。この考えが正しいのか否かはもはやわかりようはありませんが、いずれにせよ私の望みは叶いました。けして叶えられてはいけない望みが」
「……それで、あなたは満たされましたか?」
 いいえ、と荻原メイは首を横に振る。とてもゆっくりと。
「もう3年にもなるけど、ずっと私はこのままよ。たぶん、これからもきっと」

 彼女が言い締めた、そのときだ。ヴォンと通知音が鳴り、テーブルの上に小さなポータルが広がる。展開した円陣の上に細やかな光の粒子が散って、まもなく中指くらいの人影が卓上に現れる。ギザブローだ。いつのまにデバイスが切り替わってたんだろう?

 ンミミ――。音声とともに、彼が卓上でウサギみたいに飛び跳ねた。まもなく仮想空間に吹き出しが表示される。何やってるんだ。夕飯のインクを買って帰るんだろ、あいつが手ぐすね引いて待ってるぞ。

 あっ、かわいい! 取り出した眼鏡型のウェアブル端末をかけて、荻原メイが言う。知らない人に姿を見られているのに気づくと、ギザブローは眦をU字に下げみせる。ついで字幕を文字入力から、音声入力に切り替えた。彼は己の容姿が愛らしさを知っているのだ。そして、どのようにふるまえばそれがきちんと機能するのかも。

《ンミミミミ!》
「なんて言ってるのかな。喋れないのかしら」
《話せるよ!》

 ギザブローは再び文章に戻し、両手を上げて喜びや親しみやすさをアピールする。これら一連の演出効果は抜群のようだ。途端にわあ、と彼女は手を叩く。たぶん、荻原メイの中で彼の評価が固まったに違いない。きっとキュートとか、ラブリーとかそんな好ましい方向に。そう考えると彼の普段のいばりんぼ加減を知っているだけに、呆気にとられるというか変な気持ちになる。でもなんだか、ちょっとおもしろかった。

 彼が来たことで、私と荻原メイは解散することに決める。お勘定を済ませて店から出ると彼女が、また会ってくれますかと訊ねてきた。切り立った崖沿いの道を歩くような真剣な眼差しで。

 会う、と私は答える。刹那、ほっと相手は表情をやわらげた。

「こんなことになったから、もう会ってくれないのかと」
「まさか。誰にでも脆い部分はあります。恥じることはない」

 帰宅ラッシュで混雑した、夕方の交差点。遠ざかっていく彼女を私たちは見送る。他の通行人の邪魔にならないように軽く、手を振って。すると肩の上のギザブローがお友達か、と問いかけてきた。
 まだ、わからない。手を下ろしながら、そう私は言う。荻原メイの姿は人混みにまぎれて、とうに見えなかった。

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