見出し画像

ボタン・チャレンジ

前回

 もうそろそろ頃合いだと感じてクローセットを総ざらいして、衣替えをしていく。秋用の衣服を冬用に入れ替えていったその最後、奥の方に吊るしていた厚手のコートを手前に移す。すると彼のダッフルコートのボタンが一つ、取れているのに気づいた。
 無くなっているのは左側のカフスボタンだ。縦に三つ並んでいるはずなのに、真ん中がぽっかりと空いている。

「ほんとだ。どうしてずっと気がつかなかったんだろう」
 彼は言う。
「一体いつからなくなってたんだろう? しまうとき?」
「去年の初冬に出したときには多分、まだついてたような気がする……けど、春のことはわからないな」
「半年ぐらいしか経っていないのにね」
「クリーニングから戻ってきたときに何も言われなかったから、そのときにはあったんだろうけど」

 予備のボタンがあるけど出すか、と私は彼に訊ねる。問いかけずとも順当に考えれば、いかなる結果になるのかは理解していた。しかし予想に反して、すぐに答えは返ってこない。彼は唇を一直線に引き結んだまま、何事かをバックグラウンドで計算し続けている。
 機械音は聞こえない。彼の皮膚にあたる部分に使用された素材は、防音性に極めて優れていた。外見上においては一人の人間が、深く思案しているようにしか思えないだろう。多分孤独とか、人生とかそんな重要な事柄について。
 とはいえバイオノイドは人間と比較して瞬きが少ないという傾向があるので、この点で区別は一応つけられる。だが、きっとそこまでは誰も注意を払わないはずだ。他人(他ロイド)の顔をじろじろ眺めるのは不躾で、失礼な話なのだし。
 
うん、とある瞬間に彼がおもむろに口を開く。たとえるなら手紙に封蝋を押すのに似た、ある程度の重みが感じられる調子で。それから彼はこうも続ける。

「新しいボタンに出番をよこすのは、もう少し先でいい。ちょっと試したいアイデアがあるんだ」

 数時間後。私たちは特に理由もなく出かけた。今日は雲一つない素晴らしい晴れ模様で、ぼんやりと降ってくる日差しにはぬくもりが感じられた。けれど空気がさえざえと冷え込んでいたので、さっき出したコートを着込んでいる。私が圧縮状態から急激に膨らませたダウンジャケットで、彼がボタンの一つ欠けたダッフルコートだ。
 水曜日のお昼。住宅街は平穏そのもので、薄氷が張った湖のように森閑としていた。平日だからか往来には人通りは少ないし、歓談する声も聞こえない。たまにすれ違う近隣住民も、揃いもそろって落ち着いて歩いている。お互いに交わすのは会釈と、目礼の挨拶ぐらいなものだった。

 そんな中で忙しく動き回っているのは、路上の落ち葉を片づけるロボット(本体が鉄骨格のみで構成された人工生命体)くらいのものだった。それもキャタピラーの駆動音や作業音を響かせないように設計されているので、どんなにホウキで掃き清める動作が大仰に見えたとしても、あたりはとても静やかだ。もちろん下半身のバケット部分で回収された枯れ葉が、多少の音は立ててはいる。けれどもそんなのは誰もいない森の中で人知れず巌にひびが入ったみたいに、極々ささやかな程度に過ぎない。

 私たちを取り囲んでいる家々のコンクリート塀や、やせ細った街路樹の影が一直線に伸びたコンクリート道路の上に落ちている。このようなところを私たちは並んで歩いていた。彼が道路側、私が歩道の内側という位置関係で。

「やっぱりコートのボタン一つなくなっただけでは、誰も気がつかないな」
「というよりも、単純に左の袖口だから見づらいんでしょ」
 彼が口を開いたので、そう私は言う。
「かりにわかったとしても面と向かって、ボタンが取れてますよって言いづらいんじゃないないの。恥をかかせるとか、顔に泥を塗るとかそういう感じで」
「僕は気にしないのに」
「人間は気にするんだ」

 どうしてだかわからないけど――と、私は最後につけ加えた。この言葉に対し彼は眉を顰め、軽く唇に歯を立てる。傍から見てもあきらかに、あんまり納得していないとわかる表情だ。
 なおも歩き続けている。帰ろうとは何となく言い出せなかった。もちろん相手の苦虫を噛み潰したみたいな、腑に落ちない顔つきのせいもある。けれども一方ではこのまま流れに乗り続けていれば、おもしろいことが起こるのではないかという予感も確かにあった。

 だから彼がこのまま公園まで進むと言い始めても、私は特に反対しなかった。

 公園は今まで歩いてきた道と同じように、やはり穏やかな様子だった。ベンチで日向ぼっこしている人がちらほらいるくらいで、溢れるようなにぎやかさはこの場所にはない。その背後では広葉樹の青々としたさまと、そのなかにところどころまぎれた紅葉の色合いのニュアンスが目を楽しませる。これらをまるごと包摂するように展開する広場では、待機中の娯楽用鉄鳩がそこかしこで巡回していた。平和。まさにそんな言葉が相応しいありさまだ。

「あそこに管理事務所があるだろう。これから僕はそこで鳩の疑似餌を買う。このボタンが一つかけたコートでだ」

 私たちから少し離れたところにある平屋造りの小屋を指さしながら、彼は威風堂々とそう宣言する。さきほど通行人や近所の人たちにしたのと同じように、彼の左袖にボタンがないことに販売員が気づくかどうかを試そうというのだ。

「がんばって」

 たぶん、わからないだろうけど――。そのような言葉が発せられる前に私は唇を閉じる。意気軒高にしている彼を目の前にして、さすがにここまでは言いかねた。だから私は口数少なめにダッフルコートの裾を翻しながら、颯爽と遠ざかっていく彼の後ろ姿を見送った。

 彼は洋々とした足取りで小屋に近づくと、玄関横の小さめ窓を叩く。まもなく窓が横に滑らかに開いて、向こう側から誰かがにゅっと顔を出す。緑色のジャケットを着た、四十がらみの男性だ。
 二人はいくらか会話をした後、何かの受け渡しをした。だが、それだけでは終わらない。彼は用を終えた後も、販売員と何事かを話し込んでいる。しかしいささかもすると小窓は閉じられて、彼は餌玉が入った容器を両手に私のところまで戻ってきた。

 一見すると離れる前とは変わりはなく、平然としているように思われた。しかし表情をよくよく観察してみれば眉尻が下がっていて、どこか悲しみを帯びているのがわかる。そしてその憂鬱そうにも深刻そうにも捉えられる彼の顔つきは、彼自身の行動の結果を、言葉に表さずとも如実にこちらへ伝えてくるのだった。

 このような相手と向かい合って、まず、私がしたことは彼の肩に手を回すことだった。ついで双肩の曲線を描いている部分を、手のひらで軽めに叩く。けしてリズミカルにではなく、単調な一定の速度と間隔で。こんな動作を何度か繰り返すうちに、彼はおずおずとした調子で口を開き始める。

「ちっともダメだった。天気と鳩の話しかできなかった」
「世間っていうのはそういうものさ。残念だけどね」私は言う。
「そうかな」
「そうだよ。だいたいみんな自分の家の買い物や掃除、仕事で予定が立て込んでるんだ。可哀そうだけど、そこらへんにいる他人に……一般バイオロイドにかまっている暇はないんだ。以前とは違って、まわりの誰もかれもが君に注目してるってわけじゃないんだし」

 彼は何も言わない。ぎゅっとシワが出来るくらいに強く唇をつぐんで、ただ軽く俯いてばかりいる。まるで散歩だと騙されて動物病院に連れてこられた犬を連想させるような、悔しさと悲哀の入り混じった表情だった。何となく、ほうっておけない感じの。

「あんまり気を落とすなよ。ほらボタンがないのに気がついたのが、今、ここにいるだろ。」
「うん。でも、こうもっと……――」
 彼は言い淀む。私は彼の肩を叩くのをやめて、また相手が話し始めるのを待つ。すると少しして相手はまた唇を開き、再びためらいがちに言葉を紡ぎ始める。

「何か、きっかけになればいいと思ったんだ。名前も知らない、初めて会った誰かと話すのに」
「そうかあ」
「僕はずっと話し出せなかった。このボタンを見てみてくださいって口に出すって考えもあったのに、全然しなかった」
「同意しないかもしれないけど、正しい選択だったと思うよ。あの人は今、仕事をしているんだから。邪魔なんてしてはいけない」

 そう言い締めた瞬間だった。ぐるっぽーと娯楽用鉄鳩の電子音が耳に入る。ふと足元に視線を落とすと、鳩たちが私たちの周りに群がっている。黒っぽく染色された毛並みが、前後する首の動きとともにちらちら光を放っていて、そのさまはちょっとした海みたいに思えた。

「よかったね。鳩は君と仲良くしたいって」私は言う。
「違う。彼と彼女らは機械で専用の擬似餌を持っている誰かには、親切にふるまうように設計されているだけなんだ。だからこっちが持つ食料が尽きれば、すぐにどこかへ行く」

 僕が欲しいもの、そんなものじゃない……。彼は断固として言い切った。私はこれ以上、声をかけることはしない。出来ない。彼の心情に寄り添えるような言葉が、一体どのようなものであるのかがまったくわからなかったからだ。確実に私に実行可能だったのは、彼の肩から手を離すことだけだった。

 鳩に手持ちの餌をすべて投げきったあと、私と彼は自分の家に帰る。落ち葉が一枚もない道を歩きながら、私たちはいろいろなことを話す。昔は鉄の塊ではない、血の通った鳩が街中を歩き回っていたこと。その鳩たちは多くの人の善意から、まるまると肥え太っていたこと。そしてこのような交流の報酬として鳩と、彼ら彼女らに親しむ人々は時として致死的な病気を得たこと。そのような内容を。

 このあいだに数人ほどの近隣住民とすれ違ったが、彼から失われたボタンについてやはり誰も気づくことはなかった。

◆サポートは資料代や印刷費などに回ります ◆感想などはこちらでお願いします→https://forms.gle/zZchQQXzFybEgJxDA