泥棒の消失

※逆噴射小説大賞2019に応募した作品の完全版

 その家は忍び込むのにうってつけの家だった。ある種の気配のようなものなので、具体的にどういうことなのかを詳しく説明するのは難しいのだけれど、とにかく人目につかずに、たやすく侵入することが出来るというのが一見してわかる一軒家だった。そして経験則からいえばこういった場合スムーズに事を運べるに違いなかったし、実際今回も上手くひとまずの目的を達することが出来た。
 よく手入れされた家だった。ダイニングにあるテーブルには清潔なクロスがかけられ、パンくずの一欠片も見当たらない。その上で一輪挿しに差された八重咲の薔薇がみずみずしい花弁を開いている。
 すぐ隣のリビングにあるソファは買いたてのように革張りの布が光沢を放ち、真下に敷かれたカーペットにはシミ一つない。もしかするとここの家主は掃除や、物を丁寧に扱うことが苦にならない人間なのかもしれない。
 だからだろうか。棚の裏や四隅に埃が溜まっている光景を、僕は上手く思い描くことが出来なかった。この部屋には出しっぱなしのものや余計なものは何もなく、家具や日用品の何もかもがあるべき場所に整えられ、それらすべてが見事に調和を保っていた。これで大窓のカーテンを開いて、部屋中を明るくすれば完璧で理想的な家になるに違いなかった。それほどまでにこの空間は清潔で、奇麗だった。どうしてこんな家で生まれ、育つことが出来なかったのかという口惜しささえも抱かせるくらいに。
 そしてこういう家にはいささか過剰な資産が、少しぐらいの分け前(例えばマーマレードジャムとパン一枚くらいの価値のを。トーストに塗ると最高の組み合わせなのだ)を貰ってしまっても胸が痛まないくらいの財産が――ひいてはそれにつながるものがある。
 カーテン越しに射し込んでくる薄明りの中で、チェストの引き出しを順繰りに見ていく。何もなければ別の部屋に移ってクローセットを開き、ベッドの下を覗き込み、マットレスをひっくり返した。それでも見つけられなければトイレの水槽の蓋の裏とか細かいところを探っていく。素早く、でも確実に。そんな風に家探しをしているうちに僕は首を傾げ始める。
 あまりにも物がないのだ。印鑑とか預金通帳とかの金目の物品、保険証やパスポートなどの書類どころか、本当に髪の毛一本すらもこの家の中に存在しなかった。
 現金の類なら電子マネーや仮想通貨などでデジタル化しているのだとも考えられた。印鑑は持たないようにしている人間が少なからず存在するし、書類もどこか(そんなところがあるとするなら)に預けているのかもしれない。だが、それにしても違和感がある。何だろうとずっと思いめぐらせているとはた、と思い至る。
 ゴミ箱だ。この家には、どの部屋にもゴミ箱が一つとして存在しなかった。人間が暮らしている以上、クズやカスが全く出ないなんてありえない。けれどもまるで魔法使いが不思議な力で洗い流したみたいに、汚濁などというものがこの家には存在しない。そのさまはあまりに衛生的過ぎると言っても間違いはなかった。
 もしかすると僕はどこかの不動産屋のモデルルームに入ってしまったのか? こんな考えが頭に浮かぶ。いや表には案内板やのぼりはなかったし、門柱に表札が下げてあったのを確かに見た。ここが誰かの持ち家であるのは明確な事実だ。ではこの清潔さ、潔癖さは一体どういうことなのだろう?
 様々なことを思いめぐらしていると不意にちん、と自転車のベルのような甲高い音が辺りに鳴り響く。ついで焼けた脂と、豆を炒ったような香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
 気がつくと僕はリビングダイニングに戻っている。そうして辺りを見回してみると、ダイニングテーブルの上にコーヒーカップが置いてあるのが目に入った。
 カップの飲み口からはほのかに湯気が立ち昇っている。その隣に大きな皿があって、ポテトサラダやらトーストやらが乗っていた。目玉焼きと茹でたソーセージも一緒にあるので、脂っぽい匂いの源はきっとそれだろう。ご丁寧にもいちごやブルーベリーなどの様々なジャム瓶と、バターの容器も用意されている。
 あまりに突然なことに、心臓ごと全身が破裂するような心地がした。それでも恐る恐るテーブルに近づいて、カップに触れてみる。見た通り陶磁の器は確かに熱を持っていた。次に食べ物の近くで掌をかざしてみると、コーヒーと同じように強い温かみが感じられた。やはり料理と飲み物は出来上がったばかりのようだ。でも誰が? いつのまに?
 マグカップを元に戻すと、かさりと乾いた何かが手の甲に触れる。新聞だった。それだけでもおかしいのだけれど、急に現れたのは一紙ばかりではなかった。四大紙や各社のスポーツ新聞、英語やフランス語、中国語やハングル、それからよく知らない言語のものまでさまざまに取り揃えてある。
 目の前の光景に僕は思わず後退った。こうなってくると、いよいよ背筋が凍りついていく感じがした。一刻も早く家の外に出た方がいいだろう。今のところはこちらに害はないが、この先はどうなるのかはわからない。
 しかし、いささか後ろ髪が引かれるところもないではなかった。成果らしい成果をまだ何も手にしていなかったからだ。もう少し粘ってもいいかもしれない。でも、一秒たりともこんなところにはいたくない――。
 そんな風に色んなことを考えていると、ある瞬間、何かが僕の傍を掠めてまっすぐに床に落ちた。どさり、とぶつかった音から落下してきた物質がそれなりの質量をもっているのが理解できた。そうしてゆっくりと下の方に視線を向ける。するとまず、すました顔つきの女性と目が合った。
 正確に言うなら、写真の中の女性と目が合った。まわりには彼女を取り囲むように、大小さまざま文字が書いてあった。落ちてきたのはどうやら雑誌であるらしい。そうとわかると不意に、こんな踊り文句が目に飛び込んでくる。
『ミスター・ジョンドゥが占う! あなたが運命の人と出会う場所!』
 僕は反射的に天井を見上げる。でももちろんそこには穴もないし、切れ目もない。その事実と、出現した雑誌との自然な関連は見いだせなかった。物理法則に反したアイデアを、ミッシングリングとしてつけ加えなければの話だが。
 遅ればせながら、ここでようやく僕の心は決まる。次の刹那、身体がドアに向かって早足で駆け寄っている。そうしてドアノブに手が触れようとした、そのときだった。
 扉の向こう側――廊下の奥で何かが動いた気配がした。ガチャリ、という金属質な音も耳に入ってくる。二回。そのあいだに辺りはカメラのフラッシュが焚かれたように一瞬だけ明るくなって、すぐにまた薄暗くなった。
 それから、わずかに間をおいたのちに足音がし始める。きっと裸足なのだろう。フローリングに吸つきそうな粘着質な足音だった。きっと誰かが家に入ってきた、あるいは帰ってきたのだ。
 その何者かは、まっすぐこちらに向かって廊下を歩いてくる。とはいえ慌てる必要はない。この部屋の窓から庭に出て、正面か勝手口に回ればいいことだ。急がなければならないが、足音から推察できる歩幅ならそれだけの余裕は十分にある。
 加えてこの家は最寄りの交番から離れている。この時間帯巡査たちは街を巡回しているが、今までの行動パターンから考えるに、彼らは今こことは反対方向にいるはずだ。たとえ通報されても到着するまで時間がかかる。逃げるにあたって必要な距離は稼げるだろう。だから問題はそう多くはない。
 この場合、正面から突破するのが最適だろう。そう考えながら扉に背を向け、窓のある方に顔を向けた。その瞬間、僕はあっと声を上げる。
 ソファの位置が窓の前に変わっていた。それだけなら怖いけれど、まだ慌てる必要はない。ソファを踏み越えて鍵を開ければいいだけの話だ。しかし厄介なのは、その上にダイニングテーブルの椅子が積み上げられていて、窓を守るバリケードと化していることだった。
 僕はソファに足をかけ椅子を一脚ずつ下に降ろしていく。食べ終わったハンバーガーの包み紙を、ごみ箱に放り捨てるみたいに。すっとろいことをしているのはわかっている。けれど脱出口はこの窓以外にないから、おのずとこうなってしまうのだ。
 不本意ながらも僕は一つの勝負に追い込まれたようだった。肉体的もしくは社会的な生死どころか、それらを飛び超えた過去と未来と現在を決するような勝負に。そして僕は負けたらしい。僕の背後でゆっくりとドアが開いたのがわかる。

            §

 8時半にベッドを出て身支度をし、顔を洗って歯を磨く。他人の家に忍び込むことをやめてから、いつもきっちりこの時間に目が覚めるようになった。
 この家に来る以前は早朝に覚醒するといつも気だるくて、何時まで経ってもベッドの中でごろついていたのに、今では初秋に吹く風の中にいるような爽やかささえ感じていた。おそらく僕の身体がとても好ましい方へ向かっているのだと思う。
 ダイニングに行くと、すでにテーブルの上にはいつものものが用意してあった。淹れたてのコーヒーに、焼き立てのトースト。四代紙と外国語の新聞がいくつか。それと何本ものジャムの瓶と、複数のバターケース。そして掌よりも少しだけ小さいメモ用紙。
 バターケースの蓋に貼ってあるメモを取り上げて、僕はそこに書いてあることにさっと目を通す。
『夕食は既に用意してあります。18時ごろになったら500Wか600Wで温めて置いておきます』
 僕は小さな紙を横に避けて、並べられたジャムの中から、マーマレードの瓶をとる。このごろは一日の中で、焦げてざらついたパンの表面にマーマレードジャムを塗る瞬間が一番好きになっている。
 マーマレードトースト自体は子どものころから好きだった。けれど感情の密度は現在とは比較にはならない。ついこのあいだまで、これを毎日食べられるなんてついぞ考えたことがなかったせいだ。
 でももはやジャムとパンのために身体を張って小銭を稼ぐ日々は終わり、僕はようやく街中にいる誰かと同じになった。僕は今日の寝床について何も心配しなくていいし、コンビニの裏にあるごみ箱で期限切れの弁当をあさるという行為に不安を感じる必要もない。そしてもう外に出る必要がないから、警察の目を気にせずとも生きていける。
 バターナイフを突っ込んだ瓶を脇にして、ジャムを塗ったトーストにかじりつく。果物の酸味と砂糖の甘さが複雑に混じりあって口の中に広がる。その瞬間、僕は間違いなく幸せだった。とても、とても。

(2019.10)

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高野優
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