学びたがる、奥底に。
その日わたしは、参考書が並ぶ本屋の一画にいた。
小中学生向けの参考書を眺めたり、中身を見たりしながら、
「学んだほうがいいんだよなぁ」
「いやいや、『ほうが』じゃなくて、学びたいんだよ」
などと考えを巡らせていた。
子どもに学ばせるためではない。
自分が学ぶためだ。
と思ってはいるものの、
親である自分が学ぶ姿を子どもに見せたら、
少しは子どもにもいい影響があるのかもしれないなどという
打算的な考えも少しばかり存在しているのは否定しない。
数学が苦手なので、もう一度学び直したら何かいいことがあるのではないか。
と思いながら、小学校6年生の参考書を手に取る。
うーん…いや、わかっている。
これは、できる。
かといって、中学校の数学の参考書は手に取らない。わからなくてイライラしながら机に向かう自分の姿を、ありありと想像することができるから。
やっぱり…理科かな…。勉強していない、あの分野をそろそろなんとかしなくては…。
うむむむ…。
と、悩む姿はまるで「愛する我が子のために一生懸命参考書を選んでいる
母親」のように見えたことだろう。
閉店時間間際の書店にはわたし以外の客はおらず、そもそも誰もそのように見てはいないのだが。
さて、わたしが手に取った参考書の中の一つには
中学校1年生の英語があった。
英語が苦手だと話す娘と進級した息子の顔が脳裏に浮かんでいたからだ。
この時点で先程の話に矛盾が生じていることに、わたしは全く気付いていなかった。
わたしは(机上で学ぶ)英語が得意なのである。
だから、今更中学校の英語を参考書で学ぶ必要はほとんどない。
ということは、
打算的な考え【も少しばかり】存在しているというのは誤りで、
打算的な考え【が大いに】存在している、というのが正しいのだ。
それなのに「学ぼうとする自分」の姿にその矛盾はうまく覆い隠されていた。
そんな自分の思考の矛盾に気が付いたとき、こんな疑問が降ってきた。
「何年も何十年も『学ばなくてはならない』と思い続けているけれど、
どうして、『学ぼう』と思っているの?
何を成し遂げたくて、その思いを握りしめているの?」
閉店間際の書店で参考書を目の前にしながら、
降ってきた疑問に対して何も答えられなかった。
そういえばわたし、どうして学びたかったの?
数学が苦手だから、学ぼうと思い続けてきた。
何のために?
苦手なものをなくせば、自分のことを好きになれると思ったから。
理科で学んでいない分野があるから、補完しようと思い続けてきた。
何のために?
足りないものを埋めれば、自分という人間がもっとよくなると思ったから。
正解が書かれている参考書の前で、
正解のない、わたしだけに向けられた問いに答える。
意外な形で、長年握りしめていた「学びへの意欲」に隠されていた
ほんとうの思いを知ることになった。
こんなところにも「ないものねだり」は隠れていたんだ。
映画を観終わった夫が、わたしを見つけた。
今日は、参考書を探しに来たのではない。
夫を迎えに来るために、わたしはこの場所に来た。
少し早めに着いたから、時間をつぶすためにたまたま本屋に立ち寄ったのだ。
そんなタイミングで「執着」と向き合い、それを手放すという奇跡が起きる。
足取り軽く、夫の元へ向かった。
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