『ば・く・ち・く』     1


『ば・く・ち・く』 壱   寺田屋 鴨
《生まれてから一番悲しかったこと》作文用紙を前に小学生――幌村タカシは頭を抱えていた。道端に腰掛けている姿を切り取ってみると、フレームによっては家とタカシの方が傾いているような錯覚に陥る。函館山の坂道はどこもそれくらいきつい。今だって座り込んでいる小学生をチラチラと見ながら坂を登っていくカップルの足は震えていたし、息も絶え絶えだった。「う~ん、おっかねえ龍ばあちゃんが大往生したとき・・・それともこの間の試合、三振で最後のバッターになったこと」「もう歩けな~い」「チャチャ登りを歩きたいって言ったの、ルミちゃんじゃないか」先ほどのカップルの言い争いが聞こえてくる。――ふん、ああいうのを世間じゃバカップルって言うんだ。お前らの未来には《チャチャ登り》の万倍も険しい坂が待ってんだぜ。って思っても口に出したりはしない。今どきの小学生は《いたわり》の心を持ち合わせているから――。「坂登って楽しいのかねえ?」アイドル声が坂を登ってくる。「坂道スタンプラリーでもやってんじゃね?」「なになに《生まれてから一番悲しかったこと》?」「勝手に見るなよ菜穂名!」「あんたみたいな苦労知らずには、酷なお題目よね~」「あっち行けよ!」しっしと手を振って5歳年上の姉、菜穂名(なほな)を追い払う。坂のてっぺんではしゃがみ込んだ彼女を彼氏が必死になだめている。「こんな綺麗な姉をじゃまにするか?」「ハイハイ、だったら姉ちゃんが今までで一番悲しかったことって何だよ?」「う~ん・・・」考え込む時は俯かずに、細い顎に指をやって上を見るクセがある。大きな目が更に大きく見えるし、まつ毛の長さなんて人間とは思えないくらい長い。確かにしゃべらなければ世間では美少女で通るかもしれない。そんなことを考えていたら《バカップル》の姿も消えていた。「方程式」《世間的美少女》がようやく答えにたどりついたらしい。「あたし・・・方程式なんて覚えたくなかった」背を向けた《世間的美少女》の視線が大三坂から金森倉庫に伸びていく。行先は五稜郭? 違う、函館駅と五稜郭の間。あれは若松町あたり?

「まずいって・・・何が?」携帯から聞こえるのんきな声が、冷たい雨音にかき消される。「まずいです・・・天王洲テレビの世良さんと、寺田屋先生のマネージャーさんが激怒しています。このままだと降ろされるかもしれませんカントク」「誰が?」――誰が? あんたに決まってる。他に誰がいるんですか? 一時間前、あなたは地雷を踏んだんです、よりにもよって原作者先生の・・・木端微塵です――。スタジオ・ガッツのアニメプロデューサー、相馬匠(32)は立ち尽くしている、雨の乃木坂で。

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