反省ーズハイについて

※わかりやすいように兒玉遥さんの発言の引用は『』で表記しています。

 はるっぴこと兒玉遥さんのしくじり先生を見て、私が感じたことを綴っていこうと思う。

 ぱっと出てきた感想は「私と一緒だ」だった。『反省して頑張る自分が大好き』『反省していることに酔いしれる』『落ち込むこと=良いこと』など、まるで自分のことを言い当てられているようで妙な緊張感を覚えた。

 自分自身のことを振り返ってみると、おそらく本当の意味で反省していることの方が少なく「反省している」という行為そのものが好きだったように思う。周囲からある一定以上認められれば認められるほど「認められているのに、さらに反省して頑張っている自分はなんて謙虚なんだろう」そういう自分に酔いしれていた。

 そして『プライドは高いけど自信がない』私は、自分の発言や行動に何重にも保険をかけ『そんなことないよ待ち』の常習犯になってしまっていた。プライドが高いゆえに上手く周囲に頼ることができず、結果的に自分自身を余計に苦しめることになる。

 また、反省することを美とする環境に身を置かなければならない状況が数年に渡り続いたことも、私の認知を歪ませる原因になっていたのかもしれない。はじめてそういった環境に出会ったのは中学時代の部活動。次に本格的に認知が歪んでいったのが看護学生時代。

 正しい行いや自分が素直に思った感情よりも、教員の考え方や指導が重視されるのが当たり前。自分はこう思ったなどと言った日には「口答えするな」「言い訳にしか聞こえない」と人格まで否定される狂った日々。また、何も考えず反省しているフリさえしてしまえば「頑張っている」と評価されてしまうことに気がつき、そこに私の考えや感情はいらないのだなとわかってしまった日には「一生懸命考えるほど虚しくなる」と思考が止まった。

 過剰に反省をする癖がつき、すっかり褒め言葉を素直に受け取れなくなってしまった私は、本来であれば自信に繋げるべき事柄を理想像と比べては「自分は劣っている、まだ頑張る余地がある」と自らの首を絞め続けた。まさに兒玉さんが総選挙の時に感じた『自分の思っていた景色と違う』『心が楽になって楽しく毎日を過ごせると思った』といった部分と重なる。どこまでも高い理想像と自分を比べることは、今思えば無意味で見当違いだったのである。

 放送の中で『アンチにも認めてもらえるように』こんな発言があった。少しニュアンスが違うが、私も「全人類は分かり合える」という考えを持っている。分かり合えないのは自分の努力が足りないからだと、本気で思っていた。先日、仏教の「捨」という考え方を知り、自分の考え方が大きく揺らいだ。

 先日読んだ記事によると、完全には「他人を理解する」ということはできない、つまり「理解できない」という事実を理解することが重要であり、相手を変える能力は自分にはないことを知ることが大切だというのだ。ここで「捨」の考え方が出てくる。例えば、自分の意見が聞いてもらえなくても気にしない。もし聞き入れてもらえなかったことにより、相手が不幸を被ってもそれを気にしない。根本のところで、自分も相手もどうでも良いという「無関心・中立・平等」の考え方なのだそう。

 この考え方に触れていたおかげで『他人の心は自分が頑張っても変えられないし覗くこともできない』『誰もが私を見ている訳じゃない。なぜあんなに自分を追い込んでいたんだろう…』こういった彼女の考え方をスッと自分の中に落とし込むことができた。

 彼女は終わりに『自分自身が自分の1番のアンチになってしまっていた』『自分の心を壊してまで頑張る必要はない』と締めくくった。自分との心の付き合い方はまだまだ勉強中であり、20数年間連れ添った考え方を簡単に手放すことは難しい。まずは今日、目の前の自分を大切にしながら、少しずつ自分自身を大事にできる考え方を身につけていきたいと思う。

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