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30年目に見出した終盤の根本的な大転換~『セーラー服と機関銃(1981)』評

 あまりに好きになると、それを深く理解できなくなる。多くの場合、その最大の理由はネガティブな面を見ようとしないからだ。そしてそこには否定的な一般論を浅はかなものと決めつけて軽視することも含まれる。

 私にとって映画「セーラー服と機関銃(1981)」は邦画・生涯NO1の傑作だが、一般的には薬師丸ひろ子のアイドル映画だとも言われる作品である。

 私はこの一般論をバカにしてきたため、この映画の真価に触れることができていなかった。観賞歴30年目にして分かったことがある。

「セーラー服と機関銃(1981)」は厳格なリアリズム路線からアイドル映画――またはメタ映画的な世界――に大転換した映画であり、それは主に終盤以降の5つの夢物語的な演出・メタ映画的なトリックに表れている。

 ここではそれについて1つずつ解説したい。

1:お芝居であることを明示する3シーン


「セーラー服と機関銃(1981)」は社会派リアリズム映画、または遊び心たっぷりの実験的アート映画であり、アイドル映画の要素はほとんどない。

 観賞歴30年の私はずっとそう思っていたが、映画の終盤にきて全てをひっくり返すようにリアリズムから夢物語へ、アイドル映画・メタ映画的な世界とも言えるものへ大きくスライドされていることに気づかされた。

 夢物語的な演出、メタ映画的トリックは終盤から明白になってくる。

 まずは、ふとっちょと呼ばれるヤクザの親分だ。地雷を踏んで脚を失った彼はずっと車椅子に乗っていたのだが、最後にきて義足を外して歩き出す。

 これは、このヤクザのインチキぶりを伝えるシーンでもあるが、同時にすべてはただのお芝居だと明かすメタ映画的な効果も放つ。

 次に瀕死の黒木がヒロインの泉と電話で話しながら死ぬシーン。黒木が倒れると、数秒後に遠くにいるはずの泉がそばににいる。実験的な演出とも取れるが、舞台劇のような非現実性を伝えるシーンでもある。

 そして佐久間の死を伝えに来た刑事の登場シーンだ。

 彼は校門の影で不審者のように佇み、その背後で泉と男子校生が会話を交わす。それは映画終盤の締めとなる「後日談」であり、話が終わるとそれを見計らったかのように刑事が校門を後にして泉の元に向かう。

 現実的にこれは明らかに不自然な行為だが、映画的には極めて効率的な行動でもある。要するに、これは観る者をからかうような作り物感を強調する演出であり、先の2つのシーンにも重なる。

2:夢物語・アイドル映画への大転換

 
 目高組の佐久間が殴り込みで死んだ同じヤクザのマサをおぶって下町を歩くシーンでは、夢物語的な演出がある。

 佐久間の後を歩く泉は、街角にある機械仕掛けの人形が「いらっしゃいませ」の横断幕を出しては引っ込める姿に見入る。そして佐久間が行く先からは、チンドン屋がやって来る。

 チンドン屋は「うる星やつら」の映画「Beautiful Dreamer」でも用いられた夢世界に誘う昭和的なメタファーである。機械仕掛けの人形の「いらっしゃいませ」も重なって、夢に誘うような効果を放つ。

 映画の有名なラストシーンも夢へと誘うような演出が成されている。

 ヒロインの星泉が普通の一女子高生のように都会の雑踏を歩くシーンは、ゲリラ撮影の臨場感と共に、映画作品のリアリズムを大いに上げる。

 だが、最後の最後でそれはひっくり返された。

 泉は子供と一緒に拳銃ごっこを始める。そして通風孔からの風で泉のスカートが舞い上がるなり、大勢の通行人が集まってきて彼女を取り巻く。

 スカートの舞い上がり方は、アメリカのアイコン、マリリン・モンローの映画の有名なワンシーンそのもの。また脚を露にした泉が雑踏の通行人に囲まれる姿は、アイドルのコンサートそのままだ。

 この点はさまざまな解釈ができる。Wikipediaには相米が最後に映画の星泉を実在の薬師丸ひろ子に戻したといった解釈が書かれてある。

 ChatGPTに質問すると、相米慎二監督が階層化されたスタッフの撮影現場ではいい映画が撮れないと思ってゲリラ撮影に挑んだといった想定外に深い答えが返ってきた(^^)/。

 だが、ここで最もシンプルに伝わるのは「これはアイドル映画でした」という皮肉なメッセージに違いない。さらに子どもとの拳銃ごっこによって「アイドルの拳銃ごっこ映画でした」という印象さえ加わるのだ。

3:監督を超えて映画が語るもの

 
 一連の夢演出、メタ映画的なトリックについて、今まで私はリアリズムの息抜き的なもの、または単なる遊び心であり、深い意味はないと見てきた。

 だが、ラストシーンのヒロインと子供の拳銃ごっこに集約されるよう、それらは観る者に対してこの映画をアイドル映画・または夢物語へと心理的に誘導する一連の仕掛けとして機能していると言える。

 私にそこが見えていなかったのは、この映画をリアリズムの傑作だとみなすあまり、夢物語的・アイドル映画的な要素を軽視していたからだろう。

 そして、アイドル映画への大転換・スライドには、最後にきてこの映画を「所詮はアイドル映画だ」と言って観る者をからかう――またはそんなものを作った自分をからかう――相米慎二監督の姿が浮かび上がる。

 彼にその意図がなかったとしても、映画自体がそれを語っているのだ。

「セーラー服と機関銃(1981)」の原作者は、薬師丸ひろ子のためにアイドル映画としてこの話を書いた。女子高生がヤクザの親分になるという大筋からして、ありえない話であり、エンタメ要素たっぷりだ。

 映画の方も、泉があまりに不自然な形で目高組の面々と初体面するシーンや、殴り込みの後に何も起こらない点など、マンガ的なものがある。

4:傑作は数十年後に新たな驚きを与える

 
 しかし、そんなアイドル映画企画を相米慎二が監督したことで『セーラー服と機関銃』は後世に残る傑作になったと言えるだろう。

 相米はこの映画の2年前にも『太陽を盗んだ男』で助監督を務めていて、どちらの映画も昭和の傑作映画として歴史に刻まれうるものだ。

 創造性と野心にあふれた新人監督は、アイドル企画の映画に重厚なリアリズムと深遠なテーマを与えた。過剰な暴力やセックス、また長回し・ワンカットの多用など、現実世界かと思わせる演出を巧みに取り込んでいる。

 目高組の壊滅や佐久間の死は、社会の底辺で生きる者たちが虫けらのように死ぬ格差社会の現実が明示されている。一方、彼らの死を乗り越え、都市の雑踏を堂々と歩く星泉の姿には、若者に託された希望を感じさせる。

 相米慎二はこの映画のあと、「魚影の群れ」や「お引越し」などアイドル映画とは180度異なる数々のリアリズムに溢れた名作を撮っている。それこそが彼の真骨頂なのだろう。

 しかし、私にとっては「セーラー服と機関銃(1981)」こそが相米慎二の最高傑作である。そしてアイドル映画にスライドした終盤の流れを知った今も、この映画が生涯邦画NO1映画であることに変わりはない。

 相米慎二がアイドル映画のエンタメ性と社会派ドラマのリアリズムの間で揺らぎ、不思議なフュージョン世界を見せたこの映画こそが一番面白い。

 傑作映画の最たる特徴は、10年以上たって観ても新たな発見がある点だ。それもそれまでの観方を根本的に変えうる驚くべき発見があるのだ。観賞歴30年目の私だが、50年目にはまた何かが見つけられるのかも知れない。

2023 5.09.

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