『Humankind 希望の歴史』書評➀性善説は仮説ではなくリアリズムだ‼
序章
本書の最後で著者はこんな号令をかけるが、この偉大な名著を締めくくるのにこれ以上ふさわしい言葉はないだろう。
新しい現実主義とは、人類のほとんどが善良であるということ。しかも生まれながらにして生粋のいい人だということである。
そんなバカなと思う人は多いだろう。日本でもこれは一般的に「性善説」として未だに仮説扱い、都市伝説とも言い換えられるものだからだ。
逆に、利己的な人間観、つまり人は私利私欲に駆られるワガママな生き物だという悲観主義はリアリズムとみなされる。
性悪説という言葉もあるが性善説よりも遥かに知られていない。しかも、これは世界中に見られる共通認識になっている。
だからこそ著者ルトガー・ブレグマンは、新しい現実主義を始めようと訴えるのだ。彼は本書の中、無数のファクトから性善説を実証しようとした。
第二次世界大戦後の聞き取り調査や大学の心理学実験、NYの殺人事件の事後調査からTVのリアリティショーの裏側まで、ありとあらゆるファクトをかき集めて徹底的に考察した。
そして、性善説を限りなくリアリズムに近づけることに成功した。少なくとも、充分な説得力を持ってそれが現実であると訴えられたと言える。
「人間誰もがいい人だ」と口だけで言う人はこの世に星の数ほどいる。
だが、それをここまでのスケールと熱意で検証した作家はきっと他に誰もいない。
『21世紀の資本』でトマ・ピケティは無数の会計資料を調べ尽くして構造的な格差拡大を実証し、世の新たな潮流を生み出した。本書のブレグマンの功績もそれに等しく、私も1読者として心の底からその努力を称えたい。
人類のほとんどは根っから良い人である。
この無数の事実に基づくシンプルな人間観は、世界を根底から揺さぶり、希望ある未来のプラットフォームになりうるものだ。前置きが長くなったが、3回に渡ってレビューを記したい。
1:かわいくて友好的な者が進化の頂点に
本書『HUMANKIND 希望の歴史』は人類学的な考察がベースになっている。その世界観にもまた目が覚めるような考察が詰まっており、私的な解釈を混じえながら時系列で追ってゆきたい。
人類の祖サピエンスと滅びたネアンデルタール人の比較では、コミュ力を元にした情報共有体制の重要性が訴えられている。1人1人の能力から見れば強さでも知能でもサピエンスはネアンデルタール人より劣っていた。しかしコミュニケーション能力、社交性には長けていた。
サピエンスは非常に友好的で仲間を作り、そこで知恵を出し合うことを得意とした。童顔の人がより多くの仲間を生むことから、かわいいものが子孫を残しやすくなったという指摘もおもしろい。
逆にネアンデルタール人は孤独を好んだので多様な情報や集合知が得られず、結果、ほろびることになった。
狩猟採集民族は、一般的に野蛮で争いを好むイメージがつきまとう。だが本書ではそれがひっくり返る。彼らの多くは優しく、他の部族とも友好的に接していた。本書ではユートピアのように彼らの生活が語られている。
2:エデンの園の罠にはまった人類
哲学者ルソーの嘆きが本書では繰り返される。文明が人類にとって災いになったという指摘である。狩猟採集民族は文明と国家の登場によってユートピアを失うことになる。
農耕定住型社会について、ブレグマンは“罠”だと明言する。
人類の祖・ホモパピーはあるとき肥沃な大地に恵まれ、簡単な農作業だけで多くの食物を得られるようになった。そこで農耕定住が始まる。そのうち人口が膨れ上がって環境破壊が起こり、農作業は過酷なものになる。
そこでまた狩猟採集に戻ろうかとも思ったが、時すでに遅し。養う家族が増えすぎていたし、他の土地でも農耕定住が進んで移住者の居場所はなかった。
ブレグマンは狩猟から農耕への移行をこのように見て、狩猟民はエデンの園の罠にはまったと捉えている。つまりは甘い惰性、怠惰の欲が、狩猟民の身を亡ぼすことになったということだ。
2回目に続く
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