出羽三山神社3

出羽三山神社【山形・鶴岡市】

この肖像画のモデルはだれでしょうか。黒ずんだ肌に大きな口、そして眼光だけが鋭くかつ白く光っています。
誰ですか?人間じゃない、バケモノだといってるのは。
服装をよく見ると、立派なお坊さんのような法衣を身に着けています。
いや、実はお坊さんであり、出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)を開いた悲劇のヒーローなのです。

第32代の天皇、崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三皇子、蜂子皇子(はちこのおうじ)の姿なのです。

奈良に都がおかれていた時代、彼が30歳の頃、蘇我馬子(そがのうまこ)の計略により崇峻天皇が暗殺されてしまいます。「これは、ヤバい」と思った聖徳太子(厩戸皇子 うまやどのおうじ)は蜂子皇子を助け、都から遠い、この出羽の国へ逃れたのです。
当時の蘇我氏は権力のピークにあり、蘇我馬子に目をつけられたら、一巻の終わり、という時代でした。

出羽三山神社1

もう、二度と都には戻れません。蜂子皇子はお坊さんとなり、修験者となり、難行苦行を重ねて羽黒山の山頂に「出羽神社」(いではじんじゃ)を建立したといいます。今から1400年前の出来事です。
彼が修行を重ねた道が「羽黒派古修験道」(はぐろはこしゅげんどう)として現存し、今でも山にこもる荒行が行われています。

HPには「人間の苦しみ・悩みは決して一様ではない。多様にして複雑怪奇、一つの“哲理・教義”のみでは決して救うことはできないということを、出羽三山の大神と御開祖・蜂子皇子は見抜いておられたに違いない」と書かれていますが、ここでは蜂子皇子が見抜いていたか否かについては問いません。

ただ、自身の父親が暗殺されて自分の身もリスクにさらされた後、出羽の国で修験道に入り、苦しみや悩みを昇華したこと、それこそが地元民から広く尊敬されるに至った証ではないでしょうか。こうして出羽三山の開祖になった蜂子皇子――。民衆からの様々な悩みや相談によく耳を傾け、人々に慕われていたといいます。

肖像画に描かれている奇怪な容貌には、父を殺された怨念と自身の置かれた身の苦悩、荒行で経験した幾多の労苦、そして民衆の悩みに真摯にむきあったその胆力(精神力)が絡みあって、表出しているのではないか、と20.315は思うのです。

出羽三山神社2

出羽三山神社は、出羽神社(いではじんじゃ)、月山神社(がっさんじんじゃ)、湯殿山神社(ゆどのやまじんじゃ)の三山の総称です。

蜂子皇子は羽黒山(これが出羽神社でありかつ出羽三山神社です)に続き、月山、湯殿山に神を祀りましたが、彼自身はあくまで開祖として尊崇され語り継がれてきました。

彼のお墓は、この出羽三山神社にあり東北唯一の皇族のお墓として、宮内庁が管理しています。

あまり時間がなくて、月山と湯殿山には行けません(結構、距離があるんです)でしたが、いつか行ってみたいと思う20.315です。

【基礎データ】
■創建 不詳 ※ことの経緯からして、三山ともおそらく飛鳥時代
■祭神 出羽神社/伊氐波神(いではのかみ)、稲倉魂命(うかのみたまのかみ)、月山神社/月読命(つきよみ)、湯殿山神社/大山祇神(おおやまつのかみ)、大己貴命(おおくにぬしのかみ)、少彦名命(すくなびこなのかみ)
■住所 出羽神社/山形県鶴岡市羽黒町手向字羽黒山33、月山神社/山形県東田川郡庄内町立谷澤字本澤31、湯殿山神社/山形県鶴岡市田麦俣字六十里山7
■HP 出羽三山神社

※冒頭の写真(イラスト)は”修行三昧~せんし.com”から
※蘇我馬子をめぐっては「専横だ」「横暴だ」「いや違う」など諸説があります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?