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京都遊覧記〜北野・西陣

 京都という土地は、どこを歩いてでも観光ができる。そう思った私は、京都御所の北西部に足をすすめた。菅原道真を祀る北野天満宮と、応仁の乱で西軍が陣をおいた西陣、それと伝説的陰陽師安倍晴明を祀る晴明神社を一丁目一番地として、一日旅をすることとした。

まずは、起点となる地を定めて、そこから大きくぐるりと一周する形で周ろうと考えた。以下はざっくりとしたルートである(赤丸がスタート地点、青丸がゴール地点、描画が下手すぎることは見逃してほしい)。

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1.京都御苑

 京都御苑内から散策を始めた。京都御苑内には、天皇の住まいであった京都御所の他にも様々な区画が存在する。地図に記されている仙洞御所内では、京都新城の遺構が始めて発見されたことでも話題になった。
その御苑の中で、私は厳島神社を訪れた。厳島神社?何を言うか、広島県の世界遺産ではないか、と思うだろう。どうやら、京都御苑内にも、厳島神社(広島)が遷されたものがあるらしい。

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写真に写る社が厳島神社と呼ばれている地だ。鳥居の中央部に少し丸みがあることが見てとれるだろうか。これは、非常に珍しく形をしているらしく、京都三珍鳥居の1つに数えられている。
この地を早々に後にして、次に向かったのは、御苑内にある閑院宮邸である。閑院宮家は日本史に出てくるので、聞き馴染みがあるかもしれない。江戸幕府6代将軍家宣・7代家継の時代に、幕政を主導した新井白石によって新たに作られた宮家のことである。館内は無料であり、京都御所の歴史や庭園を味わうことができる。

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観光客も少なく、じっくりと展示や庭園を見ることができた。庭園内には太宰府天満宮から移されたという梅があり、歴史を感じさせた(太宰府と梅の関係性については後述)。
閑院宮邸をあとにした私は、最後に蛤御門を訪れて、一日旅のスタートとした。禁門と呼ばれ、普段は開くことのない門であったが、幕末に会津藩・薩摩藩を中心とした親幕派と反幕派である長州藩との争いで、蛤のように門が開いたという出来事に由来する。弾痕も残っており、戦闘の激しさが窺われた。

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2.西陣へと向かう

 京都御苑を出た私は、すぐ左手にある護王神社へと足を運んだ。平安京遷都に貢献した貴族和気清麻呂を祀っており、その姉広虫も祀られている。狛犬の代わりに、猪像があり、この神社の守護神的存在となっている。また、ここでは人力車に乗車できる結婚式というものを行うことができるらしく、非常にユニークな神社となっている。

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私は護王神社から北上し、今出川あたりで西に曲がった。その先で立ち寄ったのが白峯神宮である。白峯神宮は、香川県の四国八十八箇所に含まれている寺社である白峯寺を京にも移したもので、保元の乱で敗れ流された崇徳上皇を祀っている。崇徳上皇の詠んだ「せをはやみ」の歌碑もこの地に残っている。

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また、白峯神宮は蹴鞠を得意としていた公家の敷地に建てられたため、球技の神様としても知られており、数多くのスポーツマンが参拝に訪れることでも知られている。実際に、境内の提灯にはJリーグのチーム名が記されているものもあり、さらに崇徳上皇縁の地である香川県の企業名もよく見られた。そして、この神社のもう1つの特徴が鈴の形である。この地の鈴は俵のような形をしており、球によく似ているのだ。この地ならではの鈴と言える。

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白峯神宮を訪れた後、そのまま西に進むと西陣に着いた。西陣の地にはその歴史を伝える石碑が残っていた。

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3.不思議な神社

 西陣から少し下ると陰陽師安倍晴明を祀る晴明神社がある。晴明といえば、やはり五芒星を思い浮かべる方も多いだろう。

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晴明神社の境内には、様々なパワースポットがあり、厄除桃や御神木、晴明が湧き出させたと言われる井戸も残っている。この地だけに漂う独特のオーラで、心が落ち着いたような気がした。

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晴明神社からさらに西に進むと大将軍商店街という所に辿り着いた。妖怪ストリートという別名もあるらしく、調べたところ、毎年10月に妖怪仮装行列が行われるらしい。

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この商店街の名称の由来ともなっている、大将軍八神社へと向かった。方位の厄除けをするために大将軍神を祀っているのだという。当時は、四神相応の地(東に青龍、西に白虎…をおくやつ)のように、方位に対するこだわりが強く、そのためにこの神社も建てられた。

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2枚目の写真のように、方位を意識したものがあり、なかなか珍しい神社である。

4.北野天満宮へ

 大将軍八神社から北上すると、大きな鳥居が見えてきた。北野天満宮である。学問の神様として名高い菅原道真を祀る神社だ。

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本殿までの参道には道真の使いとされる牛の像が多くあった。また、道真の先祖にあたる大伴氏を祀る伴氏社があり、先述した厳島神社の鳥居と合わせて、京都三珍鳥居をなしている(残り1つは蚕の社)。本殿には京都御所の「右近の橘、左近の桜」のように、「右近の梅、左近の松」が植えられている。ここで、道真と梅にまつわる逸話の伏線を回収しておこう。道真は政敵・藤原時平の讒言で、太宰府に流されることとなったとき、このような歌を詠んだ。
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」
この歌では道真邸に咲いてあった梅を置き去りにして去ってしまう道真の気持ちが詠まれている。その気持ちを察したのだろうか、梅が太宰府の地まで飛んでいったというのだ。この伝説が基となり、太宰府やこの地北野にも飛梅伝説が残ることとなる。この地にある豊臣秀吉が作った御土居跡に百人一首にも収録されている道真の歌碑があるのだが、工事中のため、入れなかった。次の機会にでも訪れたい。

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5.京都の北の守り神へ

 北野天満宮から西に進み、西大路通りを北上すると、わら天神(敷地神社)がある。この地では安産のお守りとして藁が渡されている。女性の参拝も多かったが、地元の人らしい方も参拝しており、地域に根付いた神社なのであろう、と感じた。

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わら天神をあとにし、鹿苑寺(金閣寺)近くまで上がり、そこから西に数分歩く。すると大きな山が見えてくる。平安京の北の守護神・玄武をなぞらえた地と言われる船岡山である。この山には織田信長を祀った建勲神社が位置する。船岡山の一部は公園になっており、地元の子供たちが遊んでいる姿を見かけた。登り始めて数分、ようやく建勲神社が見えてきた。

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山の上にあるため、人も少なく一休み。この地からは大文字山も見え、京都の東側を眺めることができる(カメラ使いたての時期の写真のため、曲がっている写真が多く、申し訳ない)。

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6.街中に残る歴史

 船岡山を降りて、北野天満宮のあった方角に下る(最初のルートを見ていただけるとお分かりになると思うが、非常に非効率的なルートである。思いつきで歩くが故の弊害か)。南へ下っていくと、釘抜地蔵(石像寺)なる寺院を見つけた。不思議な寺院だなと思い、境内に入るとその理由がわかった。

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この地の絵馬は他の絵馬と一風違うのだ。この地の絵馬は、釘と釘抜が象られているのだ(参考画像以下)。

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うっかり絵馬を撮影し忘れていたので、どのような絵馬か見ることのできるリンクを以下に貼っておく。

さらに南に進み、北野天満宮の方角へと進む。その道中の住宅街に紛れて、大報恩寺(千本釈迦堂)が位置する。

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本堂は京都市街で現存している最古の木造建築であり、応仁の乱や幕末の動乱の際に焼け落ちなかった貴重な地である。本堂や霊宝殿に多く残る鎌倉期の仏像の前では、心が研ぎ澄まされた。中でも、私の体の3倍以上はあろうかという琵琶の彫刻は、ただただ感嘆の気持ちでいっぱいだった。霊宝殿は空調もよくきいており、文化財の保存が行き届いていた。また、本堂ではおかめを多く飾っており、おかめ伝説でも知られている。建築家の妻であったおかめが夫の建築に助言をしたところ、建築がうまくいった。しかし、妻の助言で建築がうまくいったと知られては夫の恥、と考えたおかめが自害したのだ。そのおかめがこの地に祀られている。
大報恩寺からさらに西に向かうと、上七軒という風情ある街並みが見えてくる。歌舞伎の地としても有名であり、それに伴いお茶屋も発展した。石畳から照り返す外気が暑いので、街並みを先に進み、折り返すこととした。

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最後に向かったのは首途八幡宮(かどではちまんぐう)だ。この地は、兄源頼朝に追われ、奥州へ逃げる義経が立ち寄った地として知られており、旅立ち、旅行安全の神として信仰を集めている(このような所以の神社ならば、今回の旅路の最初に訪れればよかったのではないか?)。この地でこれからの安全を祈って、北野・西陣を廻る旅を終えた。

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7.展望

 今回で北野・西陣にある大方の寺院仏閣を訪れることはできたと思う。しかし、西陣の東西方向に延びる、寺院が多く立ち並ぶ寺之内通に行けなかったので、次回訪れてみたい。北野天満宮の宝物館も時期が時期なため、閉まっており、また今までのように観光ができたら訪れたい。


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