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この関係性になんと名前をつけようか


5月に関東の方へ引っ越すことになっている。
そこで先日、お世話になった地域のおじいちゃんたちに送別会をしてもらった。
場所は気仙沼市内の、おじいちゃん行きつけのとあるラーメン屋。
コロナの影響が未だ尾を引くこの町は、特に平日の夜ということもあって人通りがまばらだった。
なので、店主のママ(?)も途中途中参戦して、和気あいあいと会を楽しんだ。


この町に来てから、一言では言い表せないような関係がたくさん出来たな、とつくづく思う。


今回声をかけて頂いたおじいちゃんは、言うなれば地元に住んでいるひとりの住民だ。
震災によって住んでいた母家は津波で流され、かろうじて残った離れを当時のボランティアの人たちに開放し、寝泊まりの拠点として使わせていた。
そのことがきっかけで、震災から10年以上経った今でもその離れは、移住者や旅人、震災について話を聞きたい人たちなど、色んな人が集まってくる場所になっている。
なので、そのおじいちゃんは今は別の家に住みながらも日中はその離れにいて、時折訪ねてくる客人たちの相手をしている。


そして、その場所以外にも、そういう意味合いを持った場所が気仙沼にはたくさんある。
拠点とまではいかなくても、新しい移住者や訪ねてくる人が来れば、紹介する地元の人や場所。
私も気仙沼で暮らし始めた当初に、移住者から紹介されたひとりが、そのおじいちゃんだった。


そのおじいちゃんとはどういう関係か、を話すのはとても難しい。
以前とある取材で聞かれたことがあったが、うまく説明できなかった。いまだに悔しい。
日頃から、例えば仕事帰りなんかにその離れに立ち寄り、おじいちゃんと他愛もない話をする。
時間が合えば、どこかにご飯を食べに行く。
悩みがあれば、聞いてもらう。
たまに、カレーを作ってきてくれたなら、お返しにお茶を買っていったり、手作りした柚子味噌をあげる。
そんな関係。


濃淡はあれど、そういう関係の人たちが、この町にはたくさんいる。
仕事仲間でもなく、家族や親戚でもなく、近所に住んでいるというほど近くにも住んでいなくて、感覚的には友達や先輩に近いのだが、そういう名称をつけるのもなんだか違和感がある、そんな関係。
それでも、私たち移住者を家族のように気にかけ、色々なことを教え、温かく見守ってくれる方達ばかりだ。


そういったなんとも形容しがたい関係性が生まれたのは、東日本大震災が一つのきっかけだ。


震災以前にもこの地域には、そういう関係性自体は築かれていたのだとは思う。
だが、震災がなければ、今いる移住者は間違いなくいなかった。私だってそうだ。


今現在、長く住んでいる移住者の多くは、震災ボランティアとして気仙沼に来ていた人たちだ。
その時に出会った人たちと、そこから広がった縁によって、この移住者と地元住民との間の緩やかな関係性は築かれている。


もちろん、震災なんて起こらないほうが良かった。10年以上経った今でも、当事者の人たちの悲しみは残り続けたままなのは確かだ。人生が一瞬で一変してしまった人たちは数えきれないほどいる。もう二度と起きてほしくない。
だが、震災によって新しく生まれたものもあるというのも、またひとつ確かなことなのかもしれない。


震災がなかったらお前たちとも出会えなかったな、とおじいちゃんはよく口にする。
多くを失い、悲しみの上に立ちながら笑ってそう言う姿は、ただただすごいとしか言えない。


私たちだってそうだよ、と私は言う。
事実、震災がなければ、移住者はみんな気仙沼の人たちと出会うどころか、気仙沼という町すら知らない人生を送っていたかもしれない。


何とも名称のつけられないこの関係性は、まさに震災が生んだ縁、としか言いようがないのかもしれない。震災がなければ、出会うこともなかった人たち。


おそらく移住者のほとんどは、その縁に惹かれ移り住み、その縁によって支えられ続けている。その縁があるから、住み続けたいと思えている。
少なくとも私はそうだ。気仙沼に来て、たくさんの人の優しさや、色んな価値観や考え方に触れ、少しずつ強張っていた心がほどけていった。
気仙沼に来ていなかったら、私は今でも人生を悲観していたと思う。
この町の人たちに、本当に人生を救われた。


気仙沼を離れることにはなるけれど、正直ふるさとよりもふるさとだと思える場所になった。
いつでも帰ってこい、と言ってくれる人たちがたくさんいるということが、どれだけ幸せなことか。
震災が生んだ縁が、与えてもらった優しさが、絶対にこれからも私を支え続けてくれる。この地を離れたとしても。

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