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〈画廊に行くようになって気がついたこと〉まとめ、51ー55

第51回

AIを美術作品の制作に利用する作家も現れてきています。山内康嗣さんは、AIを使用はしていないのですが、AIの学習能力と人の学習能力を比較するような制作実験をして、それを彼の大回顧展で展示していました。
 その時の彼の大回顧展の感想と、その時のAI実験の画像を添付しておきます。


 AIで生成された画像が、もっともらしく見えるのは、求めるものにふさわしい<パーツ>のつながりを、ビッグデーターから求めてくるからでしょう。

 そもそも僕らは、いくつかのパーツを、知性の力を借りてつなげ合わせて意味をとらえているところがあります。そのものを、そのものとして受け止めているのでなく、部分的な特徴を捉えながら、そのものとして捉えているところがあります。

 だからこそ、騙されるのであり、そうでないものをそうであるものとして信じてしまうのでしょう。
一種の錯覚ですが、その錯覚というものを芸術は利用しているところはあります。

 写真というものとAIというものは、嘘とも思いたくなる真か、もっともらしい嘘かの違いかもしれません。


第52回
 AI、デジタル技術というものを考えてきました。その特徴のひとつとして、ひとの個性や身体性、一回性というものが、キャンセル、塗り潰されていく要素があるというものがあります。

 その始原を遡ると、印刷技術につながっていきますし、版画のジャンルの発達とも関係がふかいです。

 印刷美術を大きくすすめたのは、エッチングなどの銅版画、そして、ミュシャ(ムハ)でも有名な、リトグラフです。

 知識、情報が印刷されて広く世に伝わったり、多くの人を動員する劇場の時代の要請でしょう。複製技術の時代ですが、AIも、グローバリゼーションの進展の世界で、ひとりひとりが単位となる時代の知識界・イデア界(あるとするなら)から人間界への翻訳なのかもしれません。


第53回
 版画の技法の一つにコラグラフというものがあります。絵画の技法で言えばコラージュでしょう。
 パーツを記号のように組み合わせて、何かを語るように表現するのでしょうが、白百合に純潔を象徴させるように、アトリビュート(持物)をあしらっては、輻輳的にモチーフを展開する西洋宗教画の伝統をある部分受け継いでもいるのでしょう。
 形や型に落とし込んだ概念を、配置して表していくというのは、論理的でもありますが、パーツを統計則に従い配列するAIにもつながるようにも思います。
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 異領域の分野で活躍するひと達が、協力してひとつの目標に向かって活動するのをコラボレーションといいますね。

第54回

 文章をよむとき、行間が大切だと言われたことがあるでしょう。
 僕等だって、文章を書く時、言葉を選び、それをどのように繋ぐか悩むと思います。そこに、記号と記号、形と形の間に潜む何かがあります。
 絵画というものも、パーツの組み合わせと考えれば、近いものがあり、パソコンやアプリで画像を作成するとき、いくつものレイヤーをかさねたり、画像を指定して動かしたりするでしょう。
 その作業の中にも、多くの知的な働きの痕跡が含まれていると思います。
 コラージュ、コラグラフは、重ねる、貼りつける、闖入させるので、異物の間には、断層があります。そこの意味を考えたり、そこから絵を俯瞰するのも面白いかと思います。


第55回

 AI、記号、重ねあわせ、という話をつづけていましたが、絵画というものは、図像というパーツを並べて作るものだと考えたりします。
 山や海というパーツを置き、少し手前に木や岩、そして建物をおく。最後には、ひとを置いていく。
 演劇の大道具の配置に似ているのかもしれません。遠近法というのは、もっともらしくするのに、遠景を小さくしたり、近くのものを大きくしたりするやり方に近いと思います。
 遠近法は、西洋絵画から伝えられたとありますが、幾何学的作図法はそうでしょうが、舞台配置による感性は、日本でもあったと考えても不思議ではないでしょう。

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