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【画廊探訪 No.062】魂の振幅に空間をひたして ―――Fuma Contemporary Tokyo『是刻メメント・モリ』金巻芳俊空間に寄せて―――

魂の振幅に空間をひたして
―――Fuma Contemporary Tokyo『是刻メメント・モリ』金巻芳俊空間に寄せて―――
襾漫 敏彦

一葉の女性像の写真に導かれて、足を運んだ。私は、常々、金巻芳俊氏の女性像は、一種の花の表現と考えている。今回の作品は、骸骨と乙女である。手をしっかりと組み何ものかに祈る骸骨、そして、その頭蓋の眼窩は、光の加減か、ほんのりと暖かさが灯ってみえる。しかし、生身である女性は、ためらいがちに指を合わせているだけである。それは、運命に対するとまどいなのか、彼女のたちすくむような姿は、未来への意志と過去への退行のあいだの現在に依拠しているのであろう。淡い着色の表現は、木の芳香を残し、素材の内奥から浮びあがったかのようであり、過去より浮き出したものとしての現在を表現しているのであろうか。
しかし、その女性像はもう一対の『空刻・メメント・モリ』であった。彼女に会いに行って、そこに待っていたのは、『是刻メメント・モリ』を中心とした金巻芳俊の空間表現であった。

最近は、現代美術の作家を集め、巨大ホールや建物、もしくは街を表現の空間とする企画に出会うことが増えた。一つのアートを空間として、大きく作品を点在させることで、空間的表現をしているのであろう。二人展、三人展といった共同展示も、そのような表現の一種ともいえよう。コンセプトを重視する現代美術というものは、見方を変えれば、ある要素に焦点をあてて、そこを押し出していく表現でもある。多くのものを削ぎ落とした人の生のパーツといってもいい部分だからこそ、失った欠片を求めていくのかもしれない。だからこそ、困難ではあろうが、それらを組み合わせた空間は、仮想的オルガンとして、巨大な身体を思わせるのであろう。
Fuma Contemporary Tokyoの金巻芳俊の空間の前面におかれているのが、思考の砂時計、『愁想フィロソフィ』。その像は、書物といういにしえよりの記憶に腰かけた三人の青年の柱である。三つの姿、それは、上から双手で頬杖をつく、片肘をついて顎をのせる、そして片足をかかえて俯く姿である。丁度、遠くを眺める、今、想う、内面を省みる、つまり「遠望」・「静思」・「内省」であり、まさに「未来」・「現在」・「過去」への意識を表現している。若人は、「未来」と「過去」にはさまれながら思考を巡らす、しかし、それが「歴史」に支えられていることを『愁想フィロソフィ』は表現している。
その最奥に置かれているのが、二つの『空刻メメント・モリ』であった。骸骨と背中合わせの若者を彫った『序刻メメント・モリ』についで昨年制作された『空刻メメント・モリ』は、頭上に降りてきたかのような骸骨と組み合う男性の像であり、もうひとつが、今回発表された、想念のように骸骨が浮上する女性像である。強く死を意識することを考えさせるこの二つの像は、メメント・モリ、死を想うことの入り口であり、性別、着色技法、素材等、対をなしており、阿吽(あうん)の仁王門の如くである。
中央に置かれているのは二メートルに及ぶ作品『是刻メメント・モリ』である。膝まづく青年を抱擁する骸骨。「死への想」とその許容、組み合わせとしては、そのように語れよう。そして、これが「是」なのである。しかし。

金巻氏の彫刻は、深く肉体の表現に根ざしていると思っている。同時にそれは、動きを伝え、変化を想わせる表現なのである。深く潜り込もうとする肉体、祈るように生の滴をうけとめようとする手、彼を待つ女性。むかう未来への姿の想定、依存して立つこれまでの自分。過去と今、今と未来が、肉体の中に同一線上に動きとして記載されている。だからこそ、金巻氏にとって、変容表現は、内在的な表現ともいえよう。存在の変化を、彫刻という空間形式で彫り切るということは、変化率という微分を使った時間表現であるように思う。

会場に話を戻すと、思考の砂時計の向こうには、『是刻メメント・モリ』の空間とは別に、もうひとつの空間が仕立てられていた。『刻・剋ディレンマ』を中心に、壁に、これまでのデッサンが並べられている。『刻・剋ディレンマ』は、走り出そうとする女性の姿である。脳裏に浮かぶ彼女を捕えている男性に対して駆け出す。彼から逃げて生まれかわろうとしているのか、胸の中に飛び込もうとしているのか、二つの相反する気持ちを、二つの顔と重なる腕で表現している。先にも触れたように相克という、彼女の揺らぎそのものが、表現された時間の振動である。
そして、表現者としての作家と、作品を支えているのが、一枚一枚のデッサンである。この小さな部屋は、金巻芳俊氏の制作の根にあたる部分でもあり、『愁想フィロソフィ』の書物から内省するものである。この思考の砂時計に導かれて、根の国から、地上へと戻ろう。

『是刻メメント・モリ』これは、結論であった。「死への想」を受け入れ、受け入れてもらうこと。しかし、掘り出されて表現された青年の肉体は、受容の瞬間から動きはじめる。そして、ギャラリーにはいってきた僕等の方に眼をやる。それは、まるで、僕等に対して「メメント・モリ」と語りかけているようでもあるが、又、同時にそれは、「死の忘却」の始まりでもある。そうして「メメント・モリ」は又、序章に戻るのであろう。

『メメント・モリ』は『序』からはじまる四体の連作である。ならば、死を意識しない青年は、『序刻メメント・モリ』はどこにいるのか。いるのである。それは、この空間に訪れた瞬間の我々なのでる。想像していただきたい、中央の骸骨以外は、皆、入口を向いているのである皆が問いかけている「メメント・モリ、君はどう想う」
問いかけられた僕等は、想いを巡らし、葛藤し、忘却する。「メメント・モリ」を構築する部分である彫刻群も、不安定と相剋の中で揺れ動く。一つ一つの彫刻は、動揺という性質から、振動子となる。この『是刻メメント・モリ』の空間は、観る者も含めた五つの振動が共鳴しあう空間なのである。動くことのない彫刻を使った空間構成の中で、振動を使って時間を表現する。これが、今回、私の読んだ金巻芳俊の空間表現である。

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この時の展示で、空間を制御する作品の力というものを感じさせてもらいました。この文章を眼にしたかたにも、是非、画廊という空間に足を運んでもらいたいと思います。

ブレイク前夜の金巻さんの会のユーチューブです。



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