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画廊の楽しみ方ーーなんで画廊に足を運ぶのか(51)

 九月に行った京都散策のまとめです。

 京都には、至る所に美を感じるものがありました。それは、長い年月積み重ねたひとの〈試み〉の痕跡なのでしょう。

 それを壊すことなく温存する何かに頭をさげては、従うことで、それが可能になっているのかもしれません。

 壊しては新しいものを作っては、すすむ東京を代表とする日本の近代のあり方とは別のものです。
 進歩を旨とする場所では、わたしの挑戦を武器に、自分の価値を誇る、上昇への欲望を満たすことができます。芸術も、周囲を古臭い陳腐なものとして、否定しながら、未来への突破口として存在もできます。

 でも、京都では、長い年月を積み重ねた伝統に、さらに営みを積み重ねることが、重要に思えました。
 実力を頼みに己の価値が認められるべきだという考えは、馴染まないとおもいます。伝統とそれを支える階層性も含んだ社会構造は、そのようなひとには、深く垂れ込める雲のように重苦しく感じるかもしれません。
 それは、ひとによっては、権威に感じるかもしれません。山出しの田舎者であるわたしには、到底な場所におもえます。
 ここに、権威と権力のズレがあるのかもしれません。

 個人が集団をつくるのではなく、集団の中で個人を感じ、集団を支える。世間を受け入れるか、キャンセルするか、その二つのベクトルの違いをあらためて考えさせられる京都旅行でした。

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