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【画廊探訪 No.060】時空のキュビズム ―――金巻芳俊作『空刻メメントモリ』に寄せて―――

時空のキュビズム
  ―――金巻芳俊、二科展出品作品『空刻メメントモリ』に寄せて―――
                              襾漫敏彦
 「骸骨」とは、死を象徴するものであるのか、会場に行くまでに、私が抱えていた疑問である。

 金巻芳俊氏、現代美術を木から彫り出す人である。私は、画像で彼の作品に触れたのが最初であった。それは、一人の女性の様々な表情を並べて、一つの彫像として成り立たせたものであった。一瞬、ハイデッカ―の『存在と時間』の世界を彩るハンナ・アーレントを思い浮かべてしまった。絵画やデザイン、いわゆるグラフィックなどでみたら、私は、全く興味をもたなかったであろう。しかし、立体として彫りだしたものは、目にして刺激的であった。何故このような表現をするのか、それなりに解釈して納得はできる。けれども、少し角度を変えると、全く違うようにも思われてくる。一つの穴から覗きながら、姿が変わる万華鏡のようである。僕は、作者と話がしたくなった。それで、国立新美術館に出かけていった。

 この作家は、いくつかの人の姿を、ひとつに集め、まとまった像として表現する。喜び、ためらい、悲しみ、悩み、決意、姿とは、ある折に表にあらわれる容(かたち)である。それらを組みあわせることで、単独では表現しにくいものの芳香を漂わせようとしている。
 ここで、木から彫り出した立体であるということは、平面的な絵画と異なり特別な意味をもつ。まずは、レリーフでない以上、背面や融合する部分など、細部や陰になる所を省略もできないし、手を抜くことも出来ない。もしそれをしてしまえば、空白から別の意味が生じてしまうからだ。又、この表現が、無理をして奇をてらい、空間をもてあそんでいるかというと、そうとは言えない。絵を描く行為は、カンバスを固定して描くことが多いので、自ずと、上下にしばられるのであるが、元来、木彫りというのは、制作過程そのものが、色々な角度から手をつけなければならない。つまりは、ひっくり返したり、斜めにしたり、裏返したりというのは、普通の作業なのである。位置や重力の軸をずらした空間を組みあわせて表現の容量をつくりだすというのは、造形の基本から自然に伸びてきた一つの枝と考える方がいいのであろう。

 ひとつの空間は、ある時点の人の姿で形づくられる。それを重ねるということは、どういうものを目指しているのか。一つには、連続する変化の表現である。同時表現というのは、時による過去の忘却作用を止める表現である。少し昔をたどれば、日本中世における絵巻物を思い浮かべる。それは、一幅の巻紙に、並べた紙芝居の如く、時相の異なる全ての風景を、まとめて一つとして表現する手法であり、金巻氏の連続表現は、そこに通じるものを思わせてくれる。観世音菩薩を考えてしまうのは、変容の表現、一つの存在の様々な可能性の有り様を前景へと押し出す表現である。千手観音の功徳を示す何本もの手、多彩な相を表す顔をいくつも頭部に抱える十一面観音、『継刻ペルソナ』は阿修羅像よりも、この伝統に根をおろしているように思う。三つめは、対になる存在を並存させる方法である。この対を利用する表現は、各々が表現している「現実」の間(はざま)にあるものを表現しようとしているのであるから、いわば現実を超える手法であり、シュールレアリズムより益する所が多いであろう。
 金巻氏の力点、足場は、どこにあるのか。愚問である。今は、全てというべきなのであろう。多くの所に根をのばし、様々な世界から養分を吸いあげているのであろう。そしてこれから、時が、彼の創作を育てていくのであろう。

 今回『空刻メメント・モリ』で、ようやく僕は、彼の作品を直接確認することができた。素直にみれば、「骸骨」は「死」である。しかし、骸骨は死なない。死ぬのは生者である。「死」を内包しているのは、生者、「青年」なのである。では、何故に骸骨は「死」を想わせるのか。それは、生者と骸骨の間に「死」があるからなのだ。では、骨とは何か。普通、人にとって骨のない生は、あまりないのである。人は、生まれてから、死ぬまで、骨と供にある。体の内側で、骨を育て、支えられ、老いていく。骨こそが、死を超えて残す生の記録なのである。現在の生と、生の存在証明、その間(はざま)の形をとらない関係法則である「死」と考えたとき、その素材が、ある植物の骨ともいえる木材ということともあいまみえて、『「空」・刻・メメント・モリ』というタイトルは、期せずとも正しいのである。
 しかし、作家の創作意図は別にして、私が着目したのは、彫刻家としての姿勢とでもいうべきものである。表現の趣旨からすれば、組み木にしても、「概念」をいれる容量を確保するためには、あとふたまわり程、大きさが欲しい所であった。けれども、骸骨と青年のの接触部、ひびわれ、木目がしっかり残る塗装、青年の脇の表現、骸骨の背骨の湾曲、すべてが向いている方向は、一本の木から切り出された木材の魂を敬う態度であり、そこに残っているありのままの生を断ち切らない姿勢である。彼は、木と語りながら作業するのであろう。木と、表現する人体の身体性とでもいうべき何かにこだわっているのである。僕は、そこにも、もう一つの彼の可能性を感じる。
 金巻芳俊、彼は、様々な方向から、木にむかいながら、まさに今、おのれの骨を、その活動の体内に育てているのであろう。

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金巻さんは、最近、グイグイ出てきている方です。

ーーNEXTYLE であげられています。

また、ユーチューブであげられている【ブレイク前夜】も検索して見られるといいかと思います。



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