見出し画像

虫すだく(ロマネスク) その6

 それは、大きなお寺の境内で催されている、古本まつりの会場のようだ。男の話の中に二度出てきた、重要な場所と同一であろう。

  男は、告げた目的地と違うことに対しては、まるで意に介してない様子だ。穏やかに辺りを見回しているが、アバウトな人影が幾つも幾つも幻灯のように現れては、行き交い、消えて行くのが見える。
  これらは、今無数に微睡んでいる過去の意識が、僅かなノスタルジィで、夢空間を彷徨っているだけなのか、或いは、男と同じように、何かの目的のために、訪ねてきているのかもしれない。重層的な世界の一部なのだ。
  淡い陽射しは、遅れて咲いた金木犀のような香りを発している。それは、生命あるもの達が嘗て発していた、熱の名残りのようにも感じられた。
  男はこの場で何をどうすべきか、ということに対して、迷ったり狼狽えたりする様子はない。彼の思念は、ただ、オリーブの君に会いたい、ということで満たされているのだ。次に来たるものを逃しさえしなければ良い、と分かっている。
  大きな本堂へ真っ直ぐに通じている石畳の参道に、赤い布がかけられた簡易の腰掛けが、やはり幾つか設けられている。立ちっぱなしでも苦痛じゃないのだが、男は誰も座っていない長方形の長椅子に、XとZをまず誘い、自分も腰を下ろした。
  自分は不器用であったが、生真面目に、一所懸命生きてきた。綺麗事だけを押し通す頑なさはなく、寧ろ、感情的な正義感を押し付けてくる人とは距離を取った。
  それでも、小狡く立ち回れることはなく、人の良い部分には容赦なくつけこまれたものだ。表面的には愛想良く、しかし、人間関係の複雑さを上手に捌けず、神経をすり減らし、ヘトヘトな日々を積み重ねるばかりだった。これらは、男が社会人になる以前からのことである。
  人間に与えられる平均的な生命力より、自分のはかなり脆弱だったのではないか、と男は思う。
  散々受けた心臓や血管の切り傷の跡などは、すっかり萎びてしまってるのだが、カブトエビの卵のように、水を与えられれば、嘘のように元通りになるんじゃないか、という子供じみた希望も、数知れず夢想し、いまだ、それを捨て去ってはいない部分があるのだ。
  傷だらけの青春期に、爽やかな潤いを与えてくれた「オリーブの君」へ、遥かなる憧れを抱き続けるのも当然のこと。
  思い返せば、自分は自分らしい不器用さで、自分らしい失敗をしてきた。しかし、自分らしい不格好さで、この先に希望がある、という思いを、いま手に出来ていることにしみじみとしている。
  頭はまだまだ半分濁っているが、不安感がなくなっている。何かを待つことも楽しい、と思える。そんな、良い頃合いだった。不意に、懐かしい匂いがする、と感じ取った。
  男は、左の肩の辺りを、軽やかに叩かれた。振り返ると、タケウチがニコニコして立っている。大学生の頃とまるで変わらない。栗色の髪がサラサラで、佇まい自体が、男前なヤツだ。匂いは、彼がよくつけていたコロンのものだった。
  タケウチは「お待たせしました」と、はっきり言った。そして、XとZに対して、微笑みながら軽く一礼した。XとZは即座に立ち上がり、そこへタケウチを座らせ、自分達はそっと後方へと離れていった。
  男はタケウチに何か言おうとしたが、タケウチの方が先に、男の丸まった背中を、ジャケットの上から繰り返しさすり始めた。すると、男の中から、何か劣化したガスのようなものが風船玉に詰められたようになって、次々と外へ吐き出されてゆく。男は気分が軽くなると同時に、胸が熱くなり、目に涙が浮かんできた。
  タケウチは、挨拶など抜きで、のっけから早口で、何やら奇妙な話を始めた。
  ──いいか、とりあえず、伝える。ちょっと長いぞ。
  誰の世話にもならずに生まれ、育ち、生きてゆける人間なんかいない。よって、生まれてくる前に、みんな等しくささやかな約束を結ぶ。少しでも他者の役に立つことを残すように努めます、とか。
  澄んだ虹色の球体は、仮の器の肉体にくるまれた瞬間から、濁りと汚れと垢を重ね、欲と感情にまみれ、大概が務めを簡単に見失い、ただ、何かを切っ掛けに何度も思い出したりする、その繰り返しの中、それでも約束を果たそうとするかどうかで、個々の性分が試されるワケね。
  約束の方へ進もうとしても、一個人にはどうにもならない大波やアクシデントが連続すると一溜りもない。それでも約束は果たせ、となると酷な話だ。健気なひとの子は、守られ、支えられるべきであり、そのための仕組みが存在する。
  志しの質が似通う者同士は、ただ擦れ違うだけでも、魂が触れあい、エールを取り交わしている。それを繰り返していると、本人達の意識には残らなくても、神経が通うように、無数の仲間と見えない糸で繋がり合う。
  その大きなネットワークが、弱ったり迷ったりした個の魂を、助けたり守ったりするように出来てるんだ。その繋がりの中にいれば、個の魂が器を失おうが、送られるエールを受けとれなくなろうが、いつまでもケアは継続される。
  入り組んだ穴の奥に落ちた個が、必死に出口を探して彷徨っていれば、その捜索や救出の試みは、決して放棄されはしない。
  その生真面目な男は、急激に落ち込み、苦しみ、堂々巡りをしてる内に、純粋な魂も、石のように硬くなってしまった。更に、そこへ壊滅の日がやって来た。
  苦しみの残像を延々となぞりつつ、それでも、外界を呪わず、半ば無意識に、「見つけ直す」「取り戻す」という微弱な電機信号そのものになっていた。
  ネットワーク全体は、様々な手段で助けようとしていたんだ。別のケアシステムも、こうして駆けつけてくれてる。時間はかかったけど、やっと十分な神経が通じたようなものだ。だから、オレもこうして糸を辿ってここへやって来られたワケ。
  改めて、遅くなってゴメン。長い間、ご苦労様でした。──
  タケウチはこう言うと、また男の肩をポンと叩き、さすり始めた。男は、何か遠い世界での誰かの話を聞いてるかの気分だったので、呼び掛けられても、うまく反応できない。タケウチは小さく頷いて、「もう少し話を続けるよ」と言う。
  ──サトウが先ず、来ただろう。アイツがあの旅行の話をして、そこから、お前が色々思い出すことを待ってたんだ。
  牛窓のオリーブ園から、彼女のことに繋がると、かなりキツイ思いをするだろうけど、そこを通過しないことには始まらない。
  お前が見失っていたのは、彼女を発見した際の「滾るような感覚」だ。それを基に、お前は今生の務めを果たしてゆけると一時は確信した。
  けれど、彼女の雲隠れと、日常に適合出来なくなりつつあった状態とで、お前は急激に衰弱した。彼女のことを一旦記憶の奥底に仕舞い込み、必死に生きようとしたな。
  そこに、思いもしない、余りにも理不尽なことが起こった。お前は、一番状態が悪いまま、瞬間保存されたようなものだ。不運すぎたよ。なのに、お前は、夢うつつの中、常に自分自身を不甲斐ないと責めてきた。そんなことはないんだ。よく頑張ってきたし、まだまだここからだよ。
  タケウチはまた軽く、男の背中をポンポン叩く。そして、更に言葉を継ぐ。素っ気なくはしない、言葉を惜しまないぞ、という感じだ。
  ──所詮、一人の人間が出来ることは、誰かがほんの少し救われる、幸せになる、そうした手伝いくらいだ。
  その小さなことの集まりが世界を柔らかくする、それをお前は分かっている。だから、そのささやかなものさえ生み出せないことに、苦しんでもいただろう。
  そのことにいち早く気づいたのは、「オリーブの君」ご本人だ。お前の目利きは正しかったよ。
  彼女は途轍もなく高貴な光を持っている存在だ。突然今生の持ち場から、彼女を必要とする大事な仕事場へスカウトされた、というのが、彼女の雲隠れの真相だ。
  彼女は魂のネットワークの中心部分で活動している。其処から、無数の繋がりの糸を通して、希望や安心感を絶え間なく送り続けているんだ。
  彼女は、お前のことをよく知ってるよ。お前がとても純粋で、貴重な存在だと強く感じ取ってる。だからこそ、根気強く、お前を助けようと、温かなイメージを送り続けていたようだ。だから、お前が見る夢には、多分地獄のような酷い光景はなかったはずだ。
  彼女もお前に感謝している。『私を見つけて下さったこと、心から嬉しく思っています』だって。これは言付けなんだ。
  サトウとオレの意識に直々コンタクトしてきたのも彼女だ、と聞けば、お前も感激だろ? お前の側に居たことで、 サトウもオレも、良い波動に感化されてたようだ。いつの間にか、自然とネットワークの中に招かれてるし、参加も出来てるんだから。
  どこから解せばお前を長い暗闇から救い出せるか。結局、お前が彼女を発見したときめきの場面へ戻るしかなかった。
  そこへ通じるまで、長い時間をかけて働きかけ続け、いま漸くここまで来られた、ということ。つまり、お前はもう大丈夫なんだ。
  お前は最も美しい光を、その目で見た。その貴重な発見が、お前をずっと支え続ける。自信を持って前に進め。
  生身の生真面目さんは、自分の志しが遥かに繋がる方法を夢見、編みだし、そのシステムが起動するのを確認してから、安心して死にたい、と切実に思う。
  でも、生き死には関係ないと分かればどうだ。だってそうだろ、お前もオレもサトウも、誰が生きていて誰が死んでるか、とか、もう関係なく繋がれてるじゃないか。
  人の潜在的な心残りとか、すごく理解できるけど、それら皆んな、振り返ったところで、そこには居ないんだ。
  お前が大切に思う家族も友達も、思い出の場所も憧れの存在も、全てもうお前の先回りをして、遥か先の方に居る。だから、お前も急いで前へ進め。この先でいつか必ず全てと合流できる。
  この先、どんな器に移っても、お前は手にした勇気を力に、工夫を繰り返し、同じ務めを果たそうとするだろう。そうしてる内に、また皆と落ち合える。
  ちなみに、サトウもオレも、彼とオレそのものではない。お前を友人として、大切に、好ましく思う心の断片にしか過ぎない。それでも、これだけのことを伝えられるんだよ。大したもんだろ? 
  じゃあ、また、この先の何処かでな──!
  タケウチがそう締めくくったところで、空間自体が轟音と共に、崩壊を始めた。これは、災厄ではない。自分が蛹から抜けるには、これ程の大袈裟な演出が必要なのだ、と男は思った。
  さあ、ここを卒業して、また本当の風や光に触れられる場所へ、いつか進まねばならない。
  古本まつりの空間は土煙に包まれ、青空は全て剥がれ落ち、濃紺のバックに餞の花火が夥しく上がる。地面もあちこちが割れ始めた。
  男は、タケウチや、付き添ってくれたXとZの姿を確かめようとしたが、周りの風景さえ煙の中だった。
  足元が崩れる直前、男は斜めにジャンプした。土の上に着地したかと思ったが、バランスを失って土手の草地らしき斜面を転げ落ちる。滑り落ちた崖下に叩きつけられたが、痛みは全く感じない。
  仰向けで水色の空を見上げていると、遠い昔にこんなことがあったな、と思い出した。情けなくて悔しくて涙を流した。
  そこから苦悶が詰まった日々を送り、虚しい空白が織り混ぜられ、自分は完全消滅することなく、残留思念が架空の日常に参加した後、ここに繋がってきた。横たわって空を見上げた遠い悲しみは、雲が流れ去るように、今はもうすっかり消えてしまっている。
  ここから、山頂のオリーブ園はどっちだったかな、と方向を確かめる。
  一本の美しいオリーブの木が、そこにしっかり根を下ろしていて、こちらへ微笑んでくれている光景が、驚くほど明確にイメージ出来る。まずは、そちらの方へ、心からの歌を歌い届けたい。
  胸を震わせ、内にあるものを絞り出そうとしたところ、男は、自分がススキの根元辺りの茎に、逆さまに掴まりながら、羽を立て、音を奏でていることに気づく。ピッ、ピリリ、ピッ、ピリリ、と澄んだ音色が出る。
  なるほど、こんな小さな器でも、生命の歌を精一杯発することが出来るのだ。
  「私は私の標となる美しいものを発見した! それを、永久に見失わない!」
  これを純粋に、一心に歌い続ける。ここから伝わるものがあれば、多くの目に見えない存在も聞き拾ってくれるだろうし、誰かの役に立つかもしれない。そう信じられる自分の心が嬉しいのだ。
  男は、長らく忘れ切っていた胸の高鳴りを喜び、その同じリズムで、いつまでもいつまでも、敬愛の歌を奏で続けるのだった。
                    *
  XとZは、長く続いた狭い階段を上りきると、扉が幾つか並ぶロビーのようなスペースに着いた。
  事務的にそこで別々の扉へと分かれて終了とするのが通常だが、XがZの方を振り返り、「ちょっと話でもしようか」、と声をかける。Zは、そう来るだろうと思っていたようで、「ええ、喜んで」、と同意した。

(その7に続く)
  
  
  
  
  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?