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虫すだく(ロマネスク) その2

  ──以下は、男が語った、彼の思い出と夢の混合物のようなものである。

            *
  私は病気に苦しんでいました。当時は鬱病という名称は一般的ではなかったはずです。投薬も殆どなく、カウンセリングのようなものも充分ではなかった。
  いつまでも好転しないので、通院もやめ、勤めも放り出し、年中横になってる有り様でした。あの感覚が、そのままここでも再現されてる気分です。
  頭の中が濁ってるように感じ、気は塞ぎ、ほんの小さな目標を掲げても、その準備にかかる意欲が湧いてこない。刻々と「器」は磨り減り、急き立てられる苛立ちばかりが蓄積されます。
  調子が悪くても、外面だけは良く、誰に会っても穏やかで礼儀正しい態度を崩さない、それが私でした。それが、ある時ガタガタと崩壊して行ったのです。
  見知らぬ者が理不尽な無礼をぶつけてくる、例えば、明らかにこちらが弱そうだと見て、言いがかりをつけてくる、そんなことが何度かあった後、私は自分でもゾッとするほど攻撃的な人格に豹変するようになり、いっそう苦しみました。
  幸い警察沙汰になったことはありません。積もりに積もった鬱憤を憎むべき対象に爆発させ、自分も破滅してしまおう、と思っていたのでしょうし、我ながら恐ろしいことです。
  倦怠感というものは、最も他人に理解して貰えない感覚だと知りました。怠けて寝てばかりいる、と思われるのは辛かった。どんな格好で横になっても気分が悪く、膨大な浅い夢の断片ばかりが、その賠償の如く、プレゼントされ続けます。
  悪夢は滅多に見ません。大概は、旧知の仲間らしき存在と、思い出の場所をアレンジしたような空間で賑やかに過ごし、どこか未知の町を電車かバスで移動したりしています。
  楽しく、心に残る夢は、昔も今も、何かこの先の糧になるような気がします。そうした思いだけが、これからという若さを何にも貢献させられなかった私の、せめてもの慰めなのです。
  先頃の夢は、とびきり鮮明で、何かの意味があるように感じられました。今こうして快く聞いて頂くことで、例え私自身の自我が完全に消滅しても、エピソードが何かに記録されるとしたら、とても幸せなことだと感じています。
  それは、晩秋の淡い陽射しの中のことでした。広い寺の境内に賑わいがあり、自分と友人のサトウは、中央の長椅子に腰掛けて、長々と言葉を交わしています。
  サトウとは、一緒に行った旅行の話をしてました。細身で長身、丸メガネに蓬髪、という少々爺むさい男です。
  5年くらい前の旅行、いや、今となってはどれくらい時間が経っているのか、想像もつきません。あの旅の話を、サトウがほぼ一方的に語ってくれます。
  私は、そうだったなあ、と頻りに懐かしがるばかり。実際に行った旅行の、事実に基づいたエピソードを、細かな所まで、再現してくれるので、様々な光景が、まるで映画を観るようにありありと甦り、私は心が狂おしく弾み、踊り続けたのです。
  昭和五十八年十月十五日に出発した、四泊五日の旅。瀬戸内海を周遊した思い出です。
  当時、京都から新幹線自由席の特急券込みで、山陽方面の所定区間内の駅が乗り降り自由、六日間有効で一万一千二百円、という便利なフリーチケットがありました。
  それを購買するのが自分の役目で、宿の手配と周遊スケジュールはサトウと、もう一人の友人、タケウチに任せていました。
  タケウチはやや小柄ながら、栗色のサラサラ髪、クールな男前で、面倒見のいいヤツです。二人とも、高校時代からの友人で、大学は別々になったものの、変わらずよく遊びました。
  サトウの語りは立て板に水で、音楽のように流れ続けます。初日は何時に集合して何時の新幹線に乗ったか、など、彼が言うと、その時のことがありありと思い出されるのです。
  一泊目は、倉敷の「くらしき特産館」という宿の、テレビのない一室に三人で泊まりました。就寝まで延々とトランプをしたのですが、そんな他愛のないことでも、愉しかったものです。
  その日の日中は、伯備線に乗って、井倉洞と満奇洞を巡り、それだけでほぼ一日を費やしました。
  満奇洞は新見駅からバスに一時間半近く乗ったあと、さらにしばらく歩いて辿り着く場所にあったのですが、サトウは「お前、酷くバスに酔って、後部座席で寝込んでたなあ」、と笑いながら言うのです。
  全くその通りで、私は子供の頃から車酔いする質で、酔い止めがなかったら、横になるしかない程でした。
  しかし、井倉洞の蟻の巣の如き立体的な面白さと、規模が小さいながらも、満奇洞の芸術的な美しさに、乗り物酔いなど吹っ飛ぶ感動がありました。異空間、非日常をたっぷり味わえるのが旅の醍醐味だと大満足したものです。
  翌日「大原美術館」を見て、広島県の福山へ移動、鞆の浦までバスに乗り、仙酔島へ渡りました。夕方近くに尾道へ入り、尾道水道に面した「鶴水館」という旅館に泊まったのです。優しいお婆さんがあれこれサービスしてくれました。
  翌早朝は、目の前の港から大音量の汽笛が鳴り響き、三人とも飛び起きました。京都の町中では絶対経験できない、一生一度の良い思い出です。
  三日目は尾道の坂をあっちへこっちへとせかせか廻り、午後に岡山の下津井まで戻って、港からフェリーで本島へ渡りました。
  本島では国民宿舎泊まり。ここでは三人とも少し疲れが出たか、宿中心にのんびり寛いで過ごした思い出があります。
  四日目は下津井へ帰り、下津井電鉄のナローゲージという軽便鉄道に乗車しました。
  鷲羽山の、海とは反対側の麓に着いたのですが、ひなびた駅の風情が、すごく胸を打ちました。展望台がある辺りまで山登りする途中、ヒナバッタという小さなバッタが、あちこちでシュルシュルと鳴いていたのが興味深かったです。
  瀬戸内海、塩飽諸島の眺めは余りに素晴らしく、思わず「島一つ土産にほしい鷲羽山」と彫られたメダルに、日付と自分の名前を刻印して買いました。
  その後、陽がまだある内に邑久町へ移動し、最後の宿「国民宿舎・牛窓荘」に入りました。
  その前に「緑の村観光センター」という所で、ギリシャ直輸入だという、緑青のふいた星座のキーホルダーを自分のお土産に買ったようです。これは、サトウがそう言うのですが、私は覚えてませんでした。
  宿は小高い丘の上にあって、夜が更けてから窓を開けると、斜面の草地から夥しいマツムシの鳴き声が聞こえてきたのです。京都の西陣辺りに住んでいると、マツムシの声なんて一生聞けません。
  しばし圧倒されながら聞き入ってました。十月の下旬になるのに、温暖な土地柄からか、生き残りが細々と鳴いてる感じじゃなく、大合唱だったのです。
  最終日は先ず、山上のオリーブ園に登り、日本のエーゲ海と呼ばれる眺めを堪能し、何枚も写真を撮りました。
  食事をとった「レステル・オリーブパレス」という所で、割りと大きなオリーブの苗を配っていて、荷物になるのも厭わず、三人とも有り難く貰い、その後の竹久夢二の生家と少年山荘の展示室を見て回る間も、ずっと大事に抱えながら歩いたのです。
  少年山荘の館内をぐるっと見回しながら、自分は頭の中に久保田早紀の「車窓」という曲をずっと鳴り響かせてました。そのことをサトウは、何か歌をずっと口ずさんでいたな、と言うんです。何だか、覚えていてくれて有り難う、という気持ちでした。
  気の知れた仲間と、非日常の奥行きを広く活発に移動することで、若い感性は新鮮な刺激を受け続けました。
  そうした初めての経験がいよいよ終わりを迎える、という感傷が、当時の私をすっぽり捉えていたのでしょう。その、胸の締め付けられる感覚が、時を超えて瑞々しく甦ってきます。
  長い長い談笑でしたが、いつまでも終わらないで欲しかったです。
  それにしても、もしこの夢が全て私の記憶から出たものなら、下津井から本島へのフェリーの二等席チケットが二百七十円だったこと、牛窓荘の素泊まりが一人二千六百円、夕定食千六百円、朝定食六百円、合計四千八百円だったこと、そんな細かなことまで海馬が保管していたのなら大したものだ、と感心します。
  しかし、夢にサトウ本人が本当に訪ねてきてくれたのかな、とも思いました。元気のない私を、サトウが私と彼の記憶の倉庫を全部チェックして、極彩色に引っ張りだし、せっせと楽しませてくれたのなら、こんなに嬉しいことはありません。
  その楽しい談笑は、話の途中でスッとフェイドアウトしたのです。目が覚めてボンヤリ余韻を味わってましたが、それも夢。これなら、サトウとの話の続きが自然に出来るんじゃないか、という気持ちになりました。
  よし、これからあそこへ出掛けてやる、と思ったのです。サトウと長く話をしていた場所のモデルは、百万遍の「知恩寺」という寺の境内だと気づきました。文化の日の前の数日間、「秋の古本まつり」が催されていた場所で、あの丁度良い賑わいは、私のような者でも息切れしません。
  ただ横になって夢を受けとるばかりの私で、強く念じたことなどありませんでした。力みかえりはしませんでしたが、柔らかくイメージして微睡むと、気がつけば、もう、さっきと同じような風景の中に佇んでいました。
  晩秋の陽射しを受けて、私は寺の本堂へと通じる石畳を歩いています。寺の広い境内に、二十店舗以上の古書店がそれぞれの区画にテントを組み、大小の棚を並べていて、正面に見る本堂では、古本供養が行われてるようです。
  鉦の音と読経の声が心地よく聞こえ、だんだんと眠くなってきます。眠り込めば、また自分の部屋に逆戻りでしょう。抗うしかありません。
  人混みは苦手ですが、ぶつかったり遮られたりさえしなければ、或いはこちらが上手く避けたり譲り合えたり出来れば、実に心は平安です。生きてる間はどうしてこの穏やかさを保っていられないのでしょうか。
  全部のテントを廻ろうとは思いません。適当な所で休もうとしました。
  寺の表門から本堂まで続く石畳に、凡そ十㍍間隔で簡易長椅子が設けられています。先程の夢の中でサトウと話していたのは、真ん中のあの辺りだったかな、と思った瞬間、腰掛けていた三人のグループが、まるで譲ってくれるように、席を立ちました。何とも嬉しかったです。
  しばらくここに座っていよう、と思いました。本音を言えば、後ろから肩を叩かれ、振り向くとそこにまた微笑むサトウの顔がある、ということを期待してました。自然にそういう流れになるはずだ、と勝手に思い込んでいたのです。
  しかし、いつまで座っていても、状況に変化はありません。夢の中ながら、随分待ちました。薄いオレンジ色の靄に包まれた空間を、多くの人影が行き交い、時折鉦が鳴り、またまた眠気が襲ってきます。
  やはり、自分が動いて何かを見つけなきゃいけないんだ、と私は腰を上げました。
  
  (その3に続く)

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