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虫すだく(ロマネスク) その5

 男の話はそこで区切られた。ZはXの顔を横目で見た。Xはほぼ無表情で、ノートに速記文字のようなものをサラサラと綴っている。医者がカルテに何やら書き込んでいるかのようだ。

 程なくXはノートを閉じ、男の方へ顔を向けた。変わらず笑みをたたえているが、幾分曇った表情になったようにも見える。
  「お話を聞かせて頂き、有り難うございました。私どもは、ここに居られる方々に、何か不快とか苦痛の種が生じかけるのを、出来るだけ早期に解消する、その第一段階を担当する聞き取り役です。
  私どもは、基本的に、深く突っ込んだご意見を述べることはしません。不安定でおられる場合、伺ったお話とともに報告し、最適な処置が出来る次の担当に引き継ぐことになっているのです」
  当初の和やかな物腰から、Xは急にお役所対応のような冷徹な態度と口調になって返答した。
  Zは男の表情を見る。意外と失望したような顔ではない。必死にすがって訴えていたのとは違うようだ。男自身が言ったように、話を聞いて貰ってる内に落ち着いたのかも知れない。
  「一つ、改めて確認させて頂きますが、あなたは、いま苛立ちとか焦り、怒り、憎しみ、そうしたもので落ち着かない、という状態ではないのですね?」
  形式的に聞こえるXの質問に、男は特に嫌な顔も見せず、首を横に振り、「そうしたものは、ありません」と、はっきり答えた。そして、やや間をおいて、こう尋ね返すのだった。
  「それでは、もうお帰りなのですね。長々とお付き合い下さり、感謝しております。
  要領を得ない話だったでしょうが、記録される、という響きだけで、何か心が軽くなります。来て頂くまでは、幾分動揺と混乱があったのですが、先程申したように、内側から湧き始めたように思える希望を、感覚としてしっかり掴んでおきたい。そして、見つけた道を辿ってみたいのです。
  今は、そっちに答えがある、という高揚感さえ感じます。お目にかかれて、受け止めて下さったことで、助かりました。
  玄関までお見送りしますが、お二方も、私がここから巣だっていった証人のような存在となるはずです。有り難うございました」
  男のその言葉に、さすがのXも、戸惑わざるを得なかった。何だか困ったような顔をして、男を見つめていたが、溜め息をついたり、首を横に振ったりするような不躾さは勿論持っていない。
  「……こちらも杓子定規な物の言い方で、申し訳なかったです。意見ではありませんが、もう少し質問を続けさせて頂いて宜しいですか?」
  男は微笑んで頷く。二人が訪ねて来た時の、何かを思い詰めたような緊張感は、沢山の言葉を吐き出したことで、すっかり消えてしまったようだった。
  Xは、ノートを開くこともなく、男の顔を真っ直ぐに見て問いかける。
  「あなたは、何かの行動に出られるようなことを仰有いましたが、どのようなことなのか、私どもに教えて頂けるようなことですか?」
  「秘密にするようなことではありません。他愛のないことです。私は、夢を通じて『オリーブの君』に会いに行こうと思います。そして、それはきっと叶うだろう、と感じているのです」
  「あなたは、自由に夢を旅できる確信を得たのですか」
  「そうではないです。でも、この純粋な思いを助けてくれる様々な糸が、どんな小さな隙間やトンネルも通して、辿り着けるように支えてくれる、という、理屈を超えた希望を感じるのです」
  Xは、テーブルの脇に置かれたままの一枚の絵葉書に目を移した。そして、また男の顔を見ると、静かに尋ねた。
  「絵葉書の謎は、あなたの中ではどうなりましたか」
  男は、そう言われると、絵葉書を自分の方へ寄せ、文面の書かれた方を目の前に持っていった。穏やかに見つめている。そして、こう言うのだ。
  「これは、結局、僕が書いたんでしょう」
  「でも、あなたは、さっき、それを否定されてた」
  「ええ、現実的に、実際の旅行の際に、私はこれを書いてません。でも、長きに渡って私の中に在り続け、最後に彼女へ伝えたかった想い、それが、時空的にはおかしいですが、具象化して、私を追っかけ続けていたのだと思います。こうして私に追い付き、ずっと消えずにいるのは、私の最も重要な思念であることを教えてくれてる、そう確信するしかありません」
  Xの表情が険しくなる。それを横目で確かめるZの方は、平然と構えている。
  いまXは、今回のやや異例な事柄に対して、普段はやらない介入を、どの程度までやるべきか、と冷静に判断しようとしているのだ。
  「あなたは、ある確信を持って、相手の方に会いに行けると感じておられる。それが万一、失礼ながら、うまく行かなかった場合、あなたの抑鬱状態が悪化するのではないか、という点が心配なのです。
  だから、正直に申し上げると、今の興奮状態に任せて、無理な行動に出られない方が得策ではないか、というのが、私個人としての考えです。
  一度落ち着かれた状態に戻られ、それでも尚、試みようと思われた場合……」
  Xが努めて穏やかに男を宥めようとしていたその時、Zが初めて話の腰を折る形で言葉を挟んだ。
  「僕ら二人が同行させて頂くのはどうですかね。抵抗がおありですか?  一緒に行っても良いのなら、決着も早く、報告もスムーズに行くでしょうし」
  Xは呆気にとられた表情でZの顔を見た。Zは子供がニコニコしてるような、全く悪気のない様子で落ち着いている。
  男は嬉しそうな顔をした。
  「もし一緒に来て頂けるなら、私も心強いです。お願いできますか」
  Xはしばし黙ったが、突然の不規則発言をしたZに対して叱責することもなく、睨み付けることもしない。自分の判断をどうするか、ということを、真剣に考えているようだった。
  対象が暴れるようなことがない限り、大概のことは、キチンと上に報告をあげるだけで、後は次が処理してくれる。ここに留まって迷い続ける必要はない。
  男が何か行動を起こしても、空間全体には何の影響も与えないだろう。報告さえしておけばいいのだ。このままZと引き上げれば良い。
  しかし、どうにも自分自身がグズグズしている。そこへまた、Zが軽い口調で口を挟む。
  「多少深入りさせて頂いたところで、我々に明確な罰則もないでしょうし。この方の幻想旅行にお供させて頂いたことも報告することで、システムの今後の改善点も見えてくるとか、あるんじゃないですか」
  Xはやや苛立った。罰則はない?  いやいや、不適格と判断されれば、システムから外される可能性もあるだろう。ただ、そうして、機械的に型にはまった作業を重ねていることについても、いつしか厭き始めていたのだ。
  ここで少々情を挟み、個人的な興味も介入させてみてはどうだろうか。そのことで、思わぬ所からひび割れが入り、空間の大崩壊へと通じてしまう、というワケでもあるまい。
  Xは何度か小さな溜め息を吐きながら、右の掌で顔を覆っていたが、突然意を決したかのように、腰を上げた。
  「では、行きましょう。私どもに見学させて頂けるのなら、有り難いことです」
  簡潔にキッパリと言うXに、男とZは一瞬驚いたものの、程なく表情を和らげた。「有り難うございます」と、男が頭を下げる。
  立ち上がった三人は、それぞれの顔を見合わせ、頷くような仕草を見せた。Xが男に問う。
  「さっき、私どもを迎えて下さった時、あなたは玄関を開けられましたが、外の風景は意識になかったと思います。あなたは、膨大に見られる夢以外で、意識的にここの扉を開けてみられたことはありますか?」
  「いいえ、夢でも、はじめから乗り物に乗ってたりして、ここのドアから出ていった記憶はないですね」
  Xはそれを聞くと、率先して玄関へ向かい、靴をつっかけると、ノブを回して扉を開いた。
  外は車が行き来している。陽射しのある午後の空気感だ。三人で通りへ出ると、路面電車やバスが走ってるのが見える。
  これは、男個人の記憶が作った空間ではない。無数の意識を吸い込んで成り立っている、雲のような浮遊物が、途轍もなく膨大な記憶の粒子から、最大公約数的に組み立てた、架空の町なのだ。
  しかも、それは完成した建造物群として固定化されてはなく、刻々と呼吸を続けるように、微妙な変化を続けている。自由に形を変える「架空の生き物のような町」なのだ。
  「さあ、私どもはお供をさせて頂くだけなので、あなたが思う通りに動いて下さい。目的地を意識されて、そこへの移動手段も、お好きなように望めば良いのです」
  Xがそう言うと、男は頷いて、深呼吸するような仕草を見せた。
  三人は大通りの方を向いていたのだが、歩道の脇から突然奇妙な車が姿を現し、通り沿いに停まった。
  タクシーなのだろうが、どう見ても、適当な幌で覆われた大きめのゴーカートに見える。運転手も子供のような背丈体格、黒い覆面をしていて、表情さえ分からない。
  それでも、そんなことどうでも良いのだ。狭い、痛い、息苦しい、そんな感覚など味わうこともないのだから、目の前のものに乗っかれば、苦もなくコトは前に進む。
  男は、あるかないかという助手席に収まり、XとZは幌の中の後部に乗り込んだ。
  男は「牛窓に行きたい」と言う。運転手は無言で頷き、早速車を発車させる。
  そのオモチャのような車は、瞬時に猛スピードとなり、前方の風景など、映画で見る宇宙での高速移動のような絵となった。
  トンネルか洞窟の中を進んでいるようにも思える。いや、それぞれが感じたいような感覚で、車は「快適に」走っているのだ。
  助手席の男からすれば、車は岩だらけの通路を滑らかに進み、迷路のような抜け穴をあっちへこっちへ辿っている。
  男は、夢に暮らしながら、寝床からスッと起き上がり、顔を洗い、身支度をし始めることが頻繁にあった。夢遊病者のように、日常の動作を自動的になぞり、意識は別の夢を見てることもある。
  そうした二重性をボンヤリ受け入れてきたのは、何の損害もないからだ。生きていれば、様々な損得の勘定で、無数の判断に追われ、時には、嫌なものに対して怒りや憎しみの感情をぶつけねばならない。そこから解放されたことに清々した思いもあった。
  しかし、ここでは常に重怠く、眠い、横になる、夢を見る、ということの延々たる繰り返しなのだ。焦りが生じかけては、ずっとギリギリで抑えられていた。その理由を、男は今しみじみと理解し始めている。
  全ては、この機会のための待ち時間だったのだ。あの、鮮烈過ぎる夢を見て、自分の奥底が、どこかへ向けて、強いシグナルを出した。それをキャッチして貰って、物事は動き出し、いま自分はこうして次の段階へ進もうとしている……。
  相変わらず、小柄な覆面男は、洞窟内を猛烈な運転で車を走らせていたが、いよいよジェットコースターのような軌道となり、それでも狂気じみたスピードのまま走り、滑り、宙返りしたあと、やっと出口の光が、眩しく見えてきた。その光の中へ一気に抜けたかと思った瞬間──。
  白い光の中で、三人はふと、車から下りた状態でいることに気づく。目が慣れてくると、周囲の風景がはっきりしてきた。
  それは、大きなお寺の境内で催されている、古本まつりの会場のようだ。男の話の中に二度出てきた、重要な場所と同一であろう。

(その6に続く)
  
  
  

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