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虫すだく(ロマネスク) その1

この物語を最初から最後まで読んで下さる方がおられたなら、心より感謝申し上げます。                   

                                     *
  Xから見ると、Zはやや小柄で細身の若者だと認識される。Zから見たXは、背の高い中年男性だ。
  二人は、狭くて薄暗い階段を長らく下りてきた。一体どこまで続くのか、などと言うことは、少なくともXの意識には上ってこない。初めての順路ばかりだが、進めば勝手に目的地へ辿り着く。
  程なく階段は尽き、何もない立方体空間へ出た。下りきった右手の壁に扉がある。そのドアノブに手を伸ばそうとしたXに、Zが声をかけた。
  「何か、何処かで一服したいもんですねえ」
  Xはしばし黙っていたが、結局もう一度ノブへ手をかけ、それを回して向こう側へ開いた。

   非有の都市
   冬の夜明けの褐色の霧の下を
   ひとの流れがロンドン橋の上を
   流れていった、夥しい人の数だ、
   こんなに夥しい人数を──
   (T・S・エリオット「荒地」・深瀬元寛訳より)

  Zが自由気儘に口ずさむ詩を、Xはそこで遮った。「君は……、気が乗らないという本音をアピールしてるのか?」
  XとZは、架空の橋の上を歩いていた。周りには大勢とも疎らとも言えない、適度な人影が行き来している。
  幅広い橋の真ん中には路面電車の軌道が敷かれていて、車道を走る乗用車の後ろから、二台連なるようにこちらへ向かってくる。
  ただ、辺りの風景など細かく観察したところで、Xらの仕事にはほぼ意味がない。映し出されては消える幻灯か、すぐ取り壊されるセットのようなもので、記憶すること自体無駄なのだ。
  Xはさっさと足を進め、橋のたもとにある、地下通路への入り口を下りてゆく。Zもそのあとに続いた。
  先程のXの問いかけに、Zは「いえいえ、むしろ前向きです。散歩に出る犬がはしゃいでいるようなもので、スミマセンね」、と涼しげな声で答えている。
  Xはそれを聞くと、また黙って先に進むことを選んだ。楽しく和やかに「見習い」と談笑するつもりはない。
  相手はこの一度きり、ただ後ろから様子を見学し、その後は単独で持ち場を与えられるのだから、仲良くしようと努めることは余計なことでしかない。Xはそう割り切っている。
  地下へ下りる階段は短く、小さな踊り場を二つ過ぎた下に、小窓のついたエレベーターが待っていた。Xがボタンを押して扉を開く。Zが乗り込むと、最初から点灯している十五階を押した。
  上にそんな大きなビルがあったかは関係ない。下りてみて、そこが新幹線のホームであっても、何ら面倒はなく、間もなく目的の相手に辿り着くようになってるのだ。
  エレベーターは上昇し、長方形の小窓二つから流れて見えた各階のホールには人影もなく、置かれているものもなかった。
  十五階に着き、扉が開くと、Xはさっさと左手に出て、Zは素直に後をついて行く。狭くて殺風景なホールは、各階の玄関通路に繋がっている出っ張りだ。
  Xが進んだ直ぐに一つの玄関扉がある。Xはその前を右へと折れて通路を進んだ。進むXの左側には、ホールの前にあったのと同じ扉が一定の間隔で連なっている。右側には大人の胸の高さ程の柵と手摺があり、大きな吹き抜け空間が開ける。
  先々歩くXは通路の突き当たりを右へ折れ、また一辺を進みきると右へと折れる。エレベーターホールの出っ張りから丁度対面くらいまで来て、Xは漸く足を止めた。
  この集合住宅風の構造物は、上から見ると、ロの字型をした回廊式なのだ。Zは対面の、エレベーターが昇ってきた四角い出っ張りを、上下に眺める。
  下は四角い地面が見えることなく、途中から靄のようなものが掛かってる。上も屋上の縁が見えるのかと思いきや、やはり、遥かに見上げる上階は煙っぽい雲のようなものに覆われ、空は見えない。
  Zが物珍しそうにキョロキョロするのを無視して、Xは一五一一号室のプレートをチラッと確認すると、一つ息を吐くこともなく、玄関ベルを押した。
  ジーッ、という音が内側から漏れ聞こえ、やや間があったが、ドアが開き、青年なのだろうが、疲れて老けたような男が、冴えない顔を無理やり微笑ませた感じで姿を見せた。
  XとZは挨拶も手短に、中へ招き入れられる。雑然とはしていない、適当な生活感のある(しかし、それはやはり共有幻覚だ)室内を奥へ進み、小ぢんまりとした彼の居間に落ち着く。丸いテーブルと座布団があり、それ以上のものは何も必要ない。
  男は腰を下ろした二人にお茶を出し、自分も対面に座った。特に自己紹介もない。
  Xが「ご気分は如何ですか」と尋ねる。Zに対する無愛想な態度とは違って、実に柔和な表情と口調だった。
  「はい、特に悪くはありません」
  男も笑みを浮かべて、静かに答える。
  「何かこちらがお聞きできるお話がおありなんですね」
  Xが続けると、男は若干困ったような顔をして、視線を落とした。が、すぐ真っ直ぐにXを見つめ直すと、少し切実な調子でこう言うのだった。
  「きっと呆れられるだろう、と心苦しいのですが、最近見た鮮烈な夢の話を、宜しければ聞いて頂きたいのです」
  Xは笑みを絶やさず、「呆れるなんてとんでもない。多くの方々から、色んな夢の話を伺いました。
  そして、一度たりとも、それらをバカバカしいなどと思ったことはありません。私どもが気づかぬ、重要な要素がそこに含まれている可能性もありますから、どんなお話も真剣にお聞きすることが、私どもの務めなんです」、そう宥めるように返した。
  「でも、すごく長くて。要点を話せれば良いのでしょうが、そうすると、自分にとっての大事なエキスが抜けるような気がして、落ち着きません。
  冗漫を、どうかお許し頂けないでしょうか」
  男はあくまでもへりくだっている。Xはとうとう声に出して笑った。
  「ははは。私どもを、一種のロボットとお思い下さい。疲れもしないし、不機嫌にもなりません。
  伺ったことが記録されますが、長さや内容の善し悪しで、あなたに何か不都合なことが起こるワケでもない。
  私どもは、決してあなたのお話を途中で遮りませんし、詰まっても脈絡がおかしくなっても、一向に構いません。急かすことも、お話の整理を促すこともしません。
  とにかく自由に、話されたいことを心ゆくまで吐き出して頂ければ良いだけなのです。どうぞ、安心されて、気軽にお始め下さい」
  Xが穏やかに、にこやかに語りかけることで、男も漸くホッとした顔で頷いた。
  ただ、それでも残る緊張感に、男が秘めている、不安定な思念が感じられる。その点を、Xは気に止めていた。
  「いつ、どのように始められても結構ですよ。こちらのメモは形式的なもので、結果全て聞き漏らしなくお受け取りできるようになってます。
  唐突に始められても、バタバタしませんから、御気遣いなく」
  Xはそう言うと、「ちょっと失礼します」と、座布団の上で足を崩した。いや、何時間正座していても、痺れはしないのだ。一種のポーズである。
  Zはずっと静かにXと男の遣り取りに聞き入っていたが、Xに倣い、自分もペコリと頭を下げてから、足を崩した。
  男は意を決したように頷き、小さく息をついた。
  「では、お言葉に甘えて。
  これは先程申しましたが、まだ新しい鮮明な夢に、記憶に残ってる自分の実際の状況を織り交ぜてお話しするものです。
  自分で言葉にすることで、私の今後について、一つの確信を持ちたいような気もします。拙い喋りになるかと思いますが、宜しくお願いいたします」
  男のやや力の入った前口上を、XもZも、静かに受け止めた。
  男はもう一度遠慮気味の深呼吸をした後、すぐに切り出した。それは、意外にも、途切れがちになることもなく、まるで、用意されていた物語の原稿を暗唱するように、スラスラと流れるのだった。
  ──以下は、男が語った、彼の思い出と夢の混合物のようなものである。
                    *
 (その2 に続く)
 


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