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虫すだく(ロマネスク) その3

やはり、自分が動いて何かを見つけなきゃいけないんだ、と私は腰を上げました。

  目の前のテントの中は、本棚がなく、台の上に沢山の箱が並べてあります。その中には、セットやバラの絵葉書ばかりが詰め込まれてました。
  以前、尾道の古い絵葉書をこうした店で探したことがあります。
  売り物は、未使用のものもあれば、実際に使われ投函されたもの、或いは、書きかけで放棄され、切手も貼られなかったものなど、ごったまぜになっているのです。古い絵葉書の山を前にして、適当にあれこれ捲ってみよう、と思いました。
  まず、紙のケースに十枚程入ったセットを一つ一つ見て行きます。あの旅で回った瀬戸内周辺のものを探してみたのですが、何故か出てきません。別の箱に手を伸ばし、今度はバラの絵葉書を大雑把に捲って眺めてみました。
  使用された葉書の文面など、つい読んでしまいます。そこに書かれた文字と思いは、もう枯れて無に帰した残骸なのか、それとも、まだ生きているのでしょうか。
  中途半端に綴られ、放っておかれたままの文章はどうなのでしょう。思いの痕跡ほど切ないものはありません。自分の哀れさと重ねてしまってる部分があるのでしょう。
  使用されたもので一杯の箱から、ふと一枚の絵葉書が自分の手にとまりました。最初は、自分の知ってる場所に宛てた葉書だ、という軽い反応だったのですが、次の瞬間、心臓がでんぐり返るような衝撃を受けました。
  宛名の人物を思い出すのと同時に、差出人の名前が、この私自身であることを知ったからです。まさに自分の目を疑い、頭が混乱しました。
  手にした葉書をじっくり確認しようとしましたが、文字が急に理解できない言語に変化した感じで、頭に入ってきません。いや、これは夢なのだから、何があっても不思議じゃないじゃないか、と落ち着こうとしたのですが、どうにも動揺が収まらないのです。
  もしかしたら、この場所は何か確かな場所で、手にした葉書も、重要な何かの証拠なのではないか、と思わされました。
  私は、手を震わせながら、これを他人の目から隠そうとします。そう、自分が買えば済むことです。
  バラの絵葉書は一枚三百円、とありました。秘密の品物をこっそり引き取る値段だと考えれば、高すぎることはない。葉書を摘まんだ左手も、お代を渡す右手も、汗ばんでどうしようもなかったです。
  店番のおばちゃんの表情が、やけにはっきりと見えました。他人の顔なんか、普段皆ボヤけているのに。ニヤニヤしてます。「私はその秘密を知ってるけど、うまく取り戻せたね」という薄笑いに見えました。
  私は、逃げるように人混みをすり抜け、乗ってきたはずのない自転車に飛び乗ります。が、気づけば、この部屋に戻ってきていたのです。
  夢の中の夢を重ねてるのですが、いつも混乱はなく、過ぎ去るものを引きずることはありませんでした。しかし、今回ばかりは違ってます。私は、その絵葉書を、ここまで持ち帰ったのですから。
  努めて気を落ち着かせ、改めて葉書の内容をこの目で確かめました。先の夢の中、サトウと語り合ったあの旅で、最後に訪れたのが岡山県の牛窓でしたが、そこから私が出したことになってる葉書です。
  表の宛名書きの下に文面があり、裏の絵柄は、オリーブ園の丘から見下ろす町並みと瀬戸内海、というものでした。
  「京都市左京区一乗寺高槻町・太陽市場様気付」「織部みどり様」。40円切手が貼られ、ご丁寧に、牛窓郵便局の風景印を押して貰っています。日付は間違いなく、昭和五十八年十月十八日。
  文面はこうなっています。
  ──貴女は人の姿をしているが、たとえ猫や蝶々であっても、その芯の魂は変わらず、同一の務めをこなされる。貴女は、様々な存在との一期一会に於いて、感化と伝達の仕事を果たされている。
  それを感じた私は、自分の奥底にも埋もれている、独自の遠い約束が目覚めるような気がしました。その感覚がいまだ瑞々しく、私は貴女に、ただ、心からの感謝と畏敬の念をお伝えしたいのです。有り難うございます。……
  繰り返し読みながら、顔に汗が滲んできました。何ともキザな文面です。ホントにこれを私が書いたのでしょうか。
  文字は、私のものによく似ています。長らく忘れていた「織部みどり」さんへの思いも甦ってきて、胸がつまりました。概ね、ここに書かれているイメージを持っていたことは確かです。
  しかし、万一自分が戯れにこのようなものを書いたとしても、旅先からそれをご当人に臆面もなく送りつけるでしょうか。
  それなら、これは一体何なのか。牛窓の、間違いない日付の消印が押されていて、綴られた内容も出鱈目ではない。でも、私は覚えてません。これを書いたことも、郵便局へ行ってわざわざ風景印を押して貰ったことも。
  まさか、いわゆる自分のドッペルゲンガーが、旅を楽しんでる自分を横目に、このようなことをやらかしていた、ということでもないでしょうに。
  彼女がこれを受け取り、読んだと考えると、今更ながら、顔から火が出る思いです。どう思われたのでしょう。
  ただ、破って捨てられることもなく、時空を超えた形で、ここに存在しているのが不思議です。(※男は話を続けながら、がらんどうのはずの奥へ引っ込み、葉書の「現物」をテーブルまで持ってきていた。XとZは、代わる代わる手に取り、文面も読んだ。男の強い思念がこの空間に現出させたものなのかどうか、結論は出なかった。)
  ……私は混乱しながらも考えました。そもそも、この絵葉書は、どのようにして古本屋に流れたのだろう。いや、そういう理屈ではない、と思っても、落ち着きません。
  一緒に旅をしたサトウとタケウチには、「憧れの君」の存在を伝えてはいました。彼らには、この痛々しいプラトニック野郎め、と散々冷やかされたものです。
  けれど、これを悪戯好きの彼らが作ったものだ、とは思いません。面白半分に私の字を真似、私の思いを書き写し、こっそり旅先の郵便局から投函する、などということをするはずがない。
  逆に、善意からのお節介としてやってくれた、ということも、そんな迂闊なことを、良識のしっかりした彼らからすると考えられません。
  普段から意識が曖昧なのだけど、これ程明確な葉書に対して、本当は自分が書いて出したのに、完全に忘れていたのであれば、恐ろしいことです。
  自分の認識の最低限が失われることは、自分が自分ではなくなるような不安があります。本当の記憶と夢や願望が混ざりあって迷子になる、そうしたゴチャゴチャの境目を半永久的に徘徊するのは恐いです。
  一方で、私は、憧れの存在だった「織部みどり」さんのことを、狂おしく思い出していました。思い出すのが辛かった、心を突き刺す痛みから目をそらしたかった、ということで、記憶に蓋をしていたのです。
  ただ、私ももう日常を生産的に生きている存在ではありません。痛ましく、虚しいことが、生きた器を消耗させる心配を、もうしなくてもいいのです。
  この回想が、何かの役にたとうがたつまいが、何かの意味を示してくれるのなら、色々と個人の恥を含んでいても、吐き出しておこう、と思います。
  織部みどりさん……。彼女は外見上、自分と同年代か、少し年少であるように見えました。しかし、その内面には、自分とは比べ物にならない高尚な何かが息づいているのが、直感的に感じられたのです。次元が違う存在だ、と素直に思いました。
  彼女はごく普通に、市場でアルバイトをしていたのです。主に青果を受け持ってましたが、他の部門の仕事もソツなくこなし、菓子類だろうが乾物だろうが、どこの棚に何があるかを、確実に把握してました。
  小柄で化粧気はなく、眼差しは澄んでいて、度々ハッとさせられたものです。髪はショート、格好はシャツにジーパン、スニーカーが基本。少年のようにきびきび動き回るかと思えば、時にはたおやかな仕草で商品の整理をしています。
  言葉遣いに浮わついた感じがなく、声自体、しっとり落ち着いているので、大人の女性の印象がする一方、表情に可憐で柔らかな笑みが程よく浮かぶためか、誰に対しても親しみやすさと心地よさを与える、そんな存在でした。
  氏名は名札から知りました。しかし、何処の学生で、地元は何処で、今どの辺りに住んでいるのか、ということを知りたいとは思いませんでした。
  その理由を、誰もが納得できるように説明することは難しいです。
  自分は彼女を発見した。彼女は信じられないほどに神々しい、と自分の内面が判断したことに、世俗的なことで泥を塗りたくなかった、と言っても、胡散臭く思われるだけかもしれません。
  彼女は、血と肉とのある存在として振る舞う一方、別の役目も秘かにこなしている。
  例えば、学生としてのつとめや市場での仕事以外の時間では、風や光や音楽、大気、水などと語り合い、人間の狡猾さ、無神経さ、身勝手さに傷ついたあらゆる弱い生命を労り、慰め、それらが泣きながら茨の中を進まねばならなくなった時、自らもボロボロになるのを厭わず、一緒にくぐり抜け、不幸な小さな者達を守り、励まし続けている、そんなイメージなのです。
  自分は彼女をとことん高みに置いていました。自らの内面を常に洗い直すための光として、高く掲げ、少しでも追い付きたい、と願ったのです。
  「彼女を発見した」という掛け替えのない時めきだけは、何があっても永久保存したい、と真剣に望んでいました。
  これは、若い頃特有の純粋な夢見を、より美しく育てようとする、切なる青春の営みだったのかもしれません。サトウやタケウチが、痛々しい、というのも、半分自覚してました。痛みがなければ、単なる熱病でしかないのだ、と自分に言い聞かせていたようにも思います。
  彼女を崇めながら、彼女とは一定の距離を保つことを、自分に課しました。
  気安く近づけるような、安っぽい存在ではない、と自らを戒めたのです。その姿や声を、時折確認させて貰い、自分の心の濁りを、その都度洗い流すことが出来れば、それだけで十分でした。
  彼女が働く市場の二階部分に、名画座と二番館を兼ねた映画館がありました。自分はそこに入り浸るほどでもなかったのですが、ちょくちょく足を運んで、二本立て三本立ての映画を観ていました。そして、その行き帰りにだけ、彼女の姿を確認するのです。
  ああ、今日もあそこに天使がいる、そう思って幸福感に浸ります。用もないのに近づきはしません。でも、実際に何か買い物がある場合は、自然なポーズを保って、近くを通りました。
  「いらっしゃいませ」と声を掛けられると、頭がクラクラしましたが、そこで目をそらしたり、素っ気ない態度を取ることもしません。逆に、彼女に自分の存在を強く印象づけるような行動に出ることも、厳禁です。
  目が合った場合、彼女の笑顔を正面から受け止め、狼狽える素振りと硬い表情は見せず、ただ穏やかにさりげなく微笑んで、軽く会釈を返す。その時に、そっと視線を切れば、問題のないことなのです。
  
(その4に続く)
   

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