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虫すだく(ロマネスク) その7

 XとZは、長く続いた狭い階段を上りきると、扉が幾つか並ぶロビーのようなスペースに着いた。
事務的にそこで別々の扉へと分かれて終了とするのが通常だが、XがZの方を振り返り、「ちょっと話でもしようか」、と声をかける。Zは、そう来るだろうと思っていたようで、「ええ、喜んで」、と同意した。

  Xが一つの扉を選び、内側へと開く。Zは軽く会釈して、先に扉の向こうへと入っていった。いや、入ったのではなく、広い外界へと出たのだった。
  真っ暗に近い。ただ、彼等の目はアバウトに地形や情景を把握できる。ドアを閉めたXが、Zの後ろからゆっくり近づき、横に並んで立った。
  僅かに涼しい微風が吹くものの、ある程度の湿気とヌルい外気が二人を包み込む。
  二人は眼下を眺めた。京都市街地からは四百㍍程の高さの場所か。東山三十六峰第十一番、如意ケ嶽の、大きな大の字の真ん中、送り火が行われていた時の中心火床、弘法大師を祀ったお堂の前の、僅かな眺望台に二人は立っている。
  人間の肉眼で見えるのは、西山の稜線や、大阪方面の灯りなどに限られるだろう。もっとも、もう三十年以上が経つのに、京都盆地北中部一帯と、その周辺の山々は、立ち入り禁止が解除される兆しさえ見えてこない。
  XはZに話しかけるとも独りごちるともつかない調子で、こう口を開いた。
  「これは凄いな。この時間帯は、虫時雨を超えて、虫豪雨じゃないか」
  大の字に沿った石段と多数の火床も、風化が始まっている。樹木灌木は育たず、草ばかりが勢いを増し、結果、この辺りも含め、イネ科植物などが、広大な京都盆地を覆い尽くしているのだ。そして、その草はらで、年がら年中、夥しい数の虫が鳴いている。
  まともな人間は立ち入れないから、こうした状況に接することはないが、実際にXとZがいる場所に立ち、この数百万数千万もの虫の音のうねりを聞いたとしたら、それだけで、精神に異常を来すかもしれない。
  「虫の種類の聞き分け、って、出来ます?」
  Zが呑気な口調で問いかける。
  「鳴く虫の種類なんて、特に必要ない知識だからな。さっきの人物から、マツムシという言葉が出たが、どんな虫か、どんな声かも知らない」
  Xはやや素っ気なく答える。
  「この、足元からかなりの範囲で鳴いてるのがマツムシですよ。ほら、チンチロリン、てやつです。それに混じって大きく聞こえるのが……」
  Zが虫の音を説明しようとするのを、Xが手で制するようにした。
  「君はよく喋るな。さっきの人物との面談の際、もし前半からうるさかったら、強制送還を要請するつもりだったよ」
  「ははは。そうですか。僕は楽観してました。最後の展開は、あなたにとって、とても余計なことだったはずです。
  でも、僕を叱責もされず、相手の望む行動に、付き添いまでされた。あなたに柔軟性を感じていたから、大丈夫だと思っていたんです」
  Xは一つ溜め息をついた。
  「君はどこから紛れ込んだんだ?  ウチのラインの外から来て、平然とオレにくっつき、見習いのフリをしていた。どういうことか、詳しく説明してくれないか」
  Xはそう言いながらも、強い警戒感を露にしている感じではない。Zも落ち着いたままだ。
  「僕のことを、外から来た、と仰有いましたが、我ら皆、ブラーフマンのしもべですよ。大元は同じだと思うんです。決してあなた方を混乱させはしません。ただ、より別の方法や試みも進めよう、という意図のもと、活動している集団のメンバー、と言えば良いでしょうか」
  「ウチのシステムは君達を認識済みなのか?  直の通信でも、それらしき話は聞いたこともないぞ」
  「ええ、今回は見切り発車であり、尚且つ、僕の完全な独断です。あなたなら大丈夫、と見越して、結果的に大成功でした」
  ニコニコしてるZに対して、Xは何やら羨ましい思いを持つ。
  今回のことを、彼は通常の報告で済ますつもりでいる。多少の注意点を追加するが、概ね『問題なし』となる事例だ。
  問題となる危険性には細心の注意を払ってはいるが、いつも粛々と、各所の点検に赴き、処置に関して、意見書未満の報告書を出し続ける。そんな地味な活動を繰り返す、ある種の機械モドキなのだ、と自覚している。そのことを静かに受け入れてきたが、Zと行動したことで、多少の影響を受けたように感じていた。
  「……君は、あの人物の行動に同行できたことで、何か収穫があったような感じだが、差し支えなければ、具体的に教えてはくれないか」
  Zは渋るような顔は見せない。「僕も話は長い方なので、覚悟して下さい」と笑う。
  「あなた方は、あの巨大雲の中から、苦痛や怒りの兆しとなり得るシグナルを受け取っては、訪問され、それらを緩和したり、取り除いたりするための手続きを取っておられる。頭が下がります。そのお蔭もあって、あの浮遊半物質は、大崩壊しないのかもしれない。
  ただ、我々の一つの考えとして、あそこに充満してるはずの、膨大な感情のエネルギーを、この先希望に転用できないものか、というのがあって、動き出してるところなのです。
  あの人物も、暗く沈み込んだ日々の対角線に、輝かしい目標への情熱があった。つまり、希望をこそ、灯し直してあげれば、マイナスは大きくプラスに転じ、大きな相互作用も見込めるのではないか、と思います。
  あの人は、もうあそこに留まらず、次の場所へ新しい意欲とともに出発された。すごくいいものを見学させて頂きましたよ。
  あなたも、あれがちょっとしたイレギュラーだった、で済ませてしまわれはしないでしょう。ポジに通じることを受け止められてるはずです」
  Xは黙った。Zの言葉に共感しつつも、まだ自分の中に、臆病な部分があることを見いだしていたのだ。少しの間をおいて、Xはこう切り出した。
  「……以前、こんなことがあったんだ」  
  ZはXの横顔を見つめ、静かに聞き入ろうとする。
  「今回と似たような、入り組んだ集合住宅の奥、という感じの一室を訪ねた時のことだ。
  その対象からは、長らく断続的に、微弱な信号が届いていた。緊急性はない、と判断されていたが、気掛かりだったので、自分の判断で訪問したんだ。
  はじめは穏やかに迎えてくれた壮年の男性は、話を聞いている内に、過去の悲しみ、怒り、怨み、憎しみ、そうした感情が徐々に溢れだし、どうにもならなくなった。
  こっちは努めて冷静に、対象を肯定しつつ、聞き役を続ける一方で、最悪の場合は、強引にでも、然るべき場所へと転送できるよう、身構えていた。
  彼の話は、決して支離滅裂ではなかったよ。幼少期から辛いことが続き、唯一優しくしてくれていた西陣の叔父さんの家に爆弾が落ち、叔父さん一家が吹き飛んでいる地獄の光景を見てしまっている。
  大小の傷を抱えたまま、それでも彼は必死に生きた。清貧と謙虚を意識して、懸命に生きたのだそうだ。
  それなのに、自分を疎んじる声や馬鹿にする声が、あからさまに伝わってくる。それも我慢した。ただただ、寂しく悲しく生きた。
  年齢を重ねたあと、あれが起こったんだ。さっきの対象も言っていたが、道を歩いていた時、不意に眩し過ぎる光に包まれ、意識を失ったのだ、と。
   そうして暫く経って気がつくと、 ボンヤリと一人で部屋に座っていたのだそうだ。彼はやがて、自分がもう働く必要も、食べる必要も、日々の消耗品の補充の必要もなくなったのだ、と気づいた後、中途半端に萎んだ風船のように、長く長くその部屋に座り続けた。
  ところが、ある時、夢を見たのだという。
  それは、まだニ、三歳の頃の記憶なのか、父と母と姉と自分とが、炬燵に入って楽しく語り合い、その余りの心地よさに、母親に抱きかかえられたまま、うつらうつらしていた。その夢が覚めると、また部屋に一人で蹲ってる自分に戻っていた。
  彼は、余りに侘しくて、さめざめと泣いたそうだ。複雑な経緯や事情があって、家族はバラバラになったが、自分は父も母も姉も好きであり、どうしてもっともっと家族で笑いあえなかったのだろう、という悲しみばかりが湧いてでるようになる。
  おぞましい感情も奥底から吹き上がってくる。もう悩まなくても、苦しまなくても良くなったはずなのに、生きていた時の、無数の恨み言が、誰も知らない一人きりの部屋の中で、嘔吐のように吐き出さなきゃならなくなるなんて、あんまりじゃないか。……
  この対象は、子供の頃からの苦痛を溜め込み過ぎた状態で、部屋に引きこもってしまったんだ。希望の方向へ転化させられる材料もない気の毒さだった。それでも、真面目に我慢を重ねていて、SOSは中途半端だった。
  オレが訪ねて行ったことで、救いになったのではなく、ブレーキが壊れたようになったんだな。
  彼の記憶の隅々から、自分が受けた理不尽な仕打ちの全てがほじくりかえされては吐き出される、その繰り返しだった。地獄の亡者が叫ぶような怨み、憎しみの速射砲は、悪魔が取り憑いたかのようだったよ。
  彼は延々と怒鳴っていたが、やがて、少しずつ大人しくなっていった。オレは機を見計らって、こう切り出した。
  『今すぐでも、或いは、少し時間をおいてでも構いません。気持ちがより楽になる場所へ移りましょう。より良い環境で、十分に眠られるのも良い。ご希望通りに手配しますよ』、と。
  彼は視線を落としたまま、暫く黙っていたが、顔を上げ、オレの後方をボンヤリ見ながら、『確かに、もうここには居たくない。今が区切りの時だ。オレはね……』、そう言って腰を上げたんだ。
  とりあえず、注意は払ってはいたし、自分もそっと立ち上がるところだった。けれど、結果的に、僅かな油断があったのだろう。
  彼はぎこちない笑みを浮かべて、オレに会釈するような素振りを見せた。『オレはね、もっと開けた場所で叫びたいんですよ』、そう言ったかと思うと、いきなり玄関の方向へ走り出したんだ。
  アッと思ったが、彼はドアを開けることなく、スッとすり抜けて消えてしまった。無駄だと知りつつ、ドアを開けて確かめると、彼は通路の手摺もすり抜けたか、もう真っ逆さまに落ちてゆくところだった。
  オレは痛恨の思いで、彼が見えなくなるまで見ていたよ。
  雲の上から、京都盆地の草地の何処かに落ちるんだ。目視なんてどうにもならない。また独特な電気シグナルを頼りに、改めて申請とか許可とか面倒な手続きを経て、探しにゆかねばならない。まあ、オレの失策だから、仕方がないんだけどな」……
  長らく話を続けてきたXは、そこで区切って、深く息をついた。黙って真面目に聞き入っていたZは、間合いをとってから、慎重に言葉を挟む。
  「様々な問題に接してこられると、色んなことがあるんですね。オチを聞かないと何とも申し上げられないけど、僕としては、そのような事例の、激しい負の感情でさえ、うまく生かし得る、と考えてしまいます。失礼しました」 
  
(その8に続く)


  

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