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noteをはじめる想い

これからの10年をどう生きるか?

2021年、40歳になる私にとっての専ら最近のテーマだ。一昔前だと完全に「おっさん」「中年」と捉えていたものに私自身もなるのである。本当に実感が湧かない。というのも、これらの言葉から想像される世代像と、今の40歳の世代像にあまりにもギャップがあるからだ。それはなぜか?

世の中はここ20年の間にテクノロジーの発展により劇的に変化し、世界中の人が国境を越えて、世代を超えて、自由につながることができるようになった。それにより、多様な文化、価値観が生まれ、自分らしい人生を生きる人が増えてきたように思う。また、社会でも終身雇用の崩壊や副業の一般化、テレワークといった20年前ではほとんどの人にとっての非現実が、多くの人にとって現実化しつつあり、それによって年功序列的な考え方も崩壊してきている。つまり、一概に「40歳」と言っても思い描く像は多種多様で、そのため私にとっての「40歳」とは、「おっさん」「中年」というイメージにはならないということだ。では自分はどんな「40歳」「40代」を送りたいのだろう?

自分はこれまでどう生きてきたのか?

自分がどう生きてきたのかを振り返ることは、これからの自分を考えるにあたって何かヒントになるかもしれない。と言いつつも小さい頃の記憶はほとんどない。幼少期の友達、何をして遊んでいたか、何に興味があり、どんな食べ物が好きで、どんな夢を持っていたか、驚くほど思い出せない。それはどうしてだろう?

私は大学生以降に様々な「世界」を知るまでとても自己肯定感が低かった。シャイな性格の上、体育、音楽、美術、どれをとっても類を見ないヘタクソだった。人間は忘れたい記憶は消し去るようにできている。そんなこともあって学校での生活や運動会・学園祭・修学旅行等でのエピソードはほとんど思い出せない。思い出されるのは、ほろ苦い経験についての漠然とした記憶くらいだ。そんな私が今こうしてPositiveに毎日過ごせるようになったのはなぜだろう?

10代 ー 新たな挑戦を続けた大学時代

「新たな挑戦」「新たな行動」が私をPositiveに変えた。そう言っても過言ではないと思う。中学・高校とよくMr. ChildrenやGLAYなどのJ-POPを聞いていた。カラオケにもはまり、よく友人と行っていた。そんな誰にでもあるような出来事から着想を得た。

「カラオケが好きなんだし、カラオケ屋で働いてみてはどうか?」

この1つのインスピレーションが全ての始まりだったように思う。私はその後、カラオケ店で意気投合したバイト仲間から「一人旅の楽しさ」についてインスパイアされることになる。2002年バンコク行きの往復航空券のみを購入し放浪旅に出かけた。旅では本当に多くの今でも思い出深い記憶に残るエピソードがあった。

・ バンコク国際空港から国鉄でバンコク市内に向かう際にたまたまホームで出くわした日本人男性と意気投合し、一緒のドミトリーに一泊させていただいたこと。
・ スコータイという遺跡の街で滞在したドミトリーが、朝起きたらベッド下まで浸水していたこと。(雨季で洪水の可能性があると言われていたにも関わらず滞在したのは私。)
・ バンコクでたまたま会った日本人と、屋台の中華でフカヒレ等の高級中華を腹一杯食べて1,000円以下だったこと。

日本では味わえない経験をしたことにより、多くの出会いからインスピレーションを受けた。
興味(curiosity) → 挑戦(challenge)→熱狂(enthusiasm) → 記憶(memory) → そしてまた挑戦
こんなサイクルを作れたからこそ、就職活動でも楽しんで乗り越えることができた。

20代 ー キャリアに対する自分サイズの挑戦

社会に出てからもずっと周りとの違和感を感じていた。それは私が歩んできた道と、周りの優秀な人材がこれまで歩んできた道、これから目指して行こうと考えている道にギャップがあったからだ。同期は皆勤勉で優秀なように私には映っていた。一方で私は、相変わらずの不器用さと知識量の少なさを感じていた。実際、当時の「営業」という職種において、秀でた成績を修めることはほぼなかった。

「どうすれば自分らしい社会人になっていけるのか?」
こんなことをよく考えていた。

「営業」という仕事は嫌いではなかった。「1日の時間は自由にデザインできる。」「顧客にとても喜んでもらえることがある。(たとえ売れなかったとしても。)」「自分を生かせる場所がある。(プレゼンテーション、講習会等の企画運営)」ただ、営業マンとしての優秀さの一番の「指標」となる数字の達成においては人一倍目立つような成績を残すことは一度もなかった。

「このまま営業を続けていても自分らしくは生きられない。」

そんな感情が3年、5年と経つうちに次第と大きくなっていった。果たして私は社会の枠からはみ出て海外へ旅に出ることを決意する。27歳の頃だったか?当時は「このまま営業を続けても・・」「英語力があれば何とかなるのでは?」のようなとても単純な発想から海外行きを決意した。今思っても「若い」「知らない」は、「恐怖」であると同時に「強さ」でもあった。29歳の私は先の見えない未来にDiveするように海外へ飛び立った。海外へ飛び立つ最後の日のことは今でも鮮明に覚えている。友人が成田空港まで私を送ってくれた。お互いに成長した再会の日を夢見て「成田国際空港」と書かれた空港の標識が見えるような駐車場の一画で記念写真を撮った。

海外での生活は完全に私の価値観を変えた。「働くということ」「生きるということ」「国際社会の中の日本人という存在の強さ・弱さ」それまでの貯えを使い切るように、やりたいこと興味のあることにどんどん「投資」「浪費」した。
隣国への旅行、大陸横断鉄道の旅、地元企業でのインターンシップにイベントボランティア、X-JAPANの海外コンサートにも参加(観戦)した。旅を通じて出会った仲間にインスパイアされ、自分を見つめ直し、共に自分たちの目指す未来へ歩んでいく、海外は挑戦している人たちに高確率で会える場所だった。

30代 ー 仕事、結婚、子育てにおける自分サイズの挑戦

帰国そして30歳になってからの10年間は、一言で言えば目の前に挑戦が迫ってくる感覚であった。帰国と同時に生活は大きく変化した。まず、守るべき存在が隣にいた。毎日が楽しく早く家に帰りたいと思う日々が続いた。仕事内容もモノを売る営業からサービスを売る営業へ変化した。今まで以上に人としての信頼度が成績を決めると感じた。顧客のニーズは顧客ごとに異なる。同じサービスを提供していては顧客ごとのニーズには応えられない。とにかく顧客の課題に耳を傾け、自社が提供できるサービス内でできること/できないことをわかりやすく説明するよう心がけた。成績は良好だった。周りのバックアップにも助けられ昇格も経験した。
ただその後が大変だった。メンバーに多くを求めすぎた結果、私は昇格後1年でその会社を去ることになった。苦い経験だった。昇格前慕われていたメンバーからはほぼ総スカンを喰らった。転職後の新しい会社でもしばらくは混沌とした時期が続き、長時間残業とストレスに苛まれた。そのような状況下で子供を授かった。これが次の転機となった。

「父親として子どもの成長を見守りつつ、キャリアを形成していきたい。」

その翌年、私は育児休業を取ることとなる。妻や同僚の支援もあり1ヶ月間の休業を取得することができた。この時の経験は今でも思い出される。「自分は何のために働くのか?」「自分にとっての家族とは何か?」「仕事は何のためにするのか?」を考えるようになった。長時間労働を是正しようと努力し、でもその中でもパフォーマンスを一定以上に維持するためにはどうすれば良いか?を考えるようになった。会社の記録(数字)に残る仕事ではなく、人々(同僚)の記憶に残る仕事をしよう、そんな気持ちで仕事に打ち込んだ。

30代最後の年 ー 今の自分はどこに立っているのか?

2020年は奇妙な年だ。中国の春節期をきっかけに世界に蔓延した新型コロナウイルス(COVID-19)は、日本にも大きなインパクトを与えた。日本は東京オリンピック開催の年。世の中が期待に満ち溢れていた矢先の緊急事態宣言。人々は生活の変化を余儀なくされている。一方で私自身はどうか?
私はここ数年環境の変化を経験してきた。オフィスの移転、フレキシブルな職場環境、部門の大きなプロジェクトへの参画とその終了、そしてチームの変革。それぞれの経験が私に変えるきっかけを与えてくれていた
果たしてこの未曾有の事態(コロナ禍)においても、私は幸運な状況にいた。振り返れば人生の重要な局面で幸運に恵まれ続けてきたと我ながら思う。この恩を今こそより多くの人に還元したい、勇気を与えられる存在になりたい、そんな気持ちがふつふつと湧き出している感じを自分の内側に感じている。

2030年・50歳 ー 自分のありたい姿とは?

情報発信 ー この言葉が頭をよぎった。私はこれまで、社内や限られた人間関係の下でしか情報発信を行なってこなかった。更にはシャイな性格も災いし、社外のコミュニティには参加してこなかった。2020年ひょんなきっかけで、私は社外コミュニティとの関わり始めた。何もかもが新鮮で楽しく、学びの多い体験だと感じている。こんなにも手軽に繋がれる、学び合える空間が存在するのだと感嘆した。20代の最後に海外へ飛び出した時の感覚に近いかもしれない。これはまた新たな10年の幕開けになるに違いない!そう確信した。
2030年がどんな世界になっているのかは全く想像がつかない。ただ1つ思うのは、「時代にマッチした人間になろう」と思って「自分のありたい姿」になることは、私の場合はきっとないだろうという点だ。何かにadjustするのではなく、「どう生きたいか?」「何がしたいか?」という私の心の声に対して、正直に生きることがなりたい50歳の私になれることだと思う。その1つの表現方法として、このnoteでの情報発信を始めていきたいと思う。文章を書くことはまだまだ小学1年生。息子の成長と共に10年後、この幼い書き出しのnoteを高校生の息子と共に振り返れる自分でありたいと思う。

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