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まれびと+清澄庭園

昨日は一人で日本橋高島屋本館の「まれびとと祝祭」展を見て、清澄庭園を歩いてきた。

展覧会では、先日読んだ「花の民俗学」とセットで、アートの本質を理解した。(気がする)
「(気がする)」だけではなく、民俗学の視点から、という但し書きも必要なのだろう。
私は美術も芸術もまともに習っていないので、一般的な考え方なのかも、正しい理解なのかもわからないが。

過去の他の読書で、いくつかの、良さがよくわからないとか、そういうものなのかな、とぼんやりと疑問を持っていたことも一緒に理解できた。
小さな一室だけでの展覧会だが、行ってみていろいろな疑問が解けた感じがした。

「花の民俗学」を読む前から展覧会については気になっていたが、偶然その本を読んで、やはり行こうと思っていた。

会場には写真のパネル展示だけではなく動画もあり、面白く眺めた。
祝祭に関わる物の展示もあった。
岡本太郎の文章や作品で、より伝わってくるものがあった。

清澄庭園へ初めて行った。
行ってみたいと思ったのは、何年前だったかわからないが、ずっと気になっていた。
日本橋高島屋からは近いようだったので、セットで行くことにした。
日本橋を渡り、半蔵門線三越前から2駅。

つくばい(出入口そば)

心地良過ぎて長居した。結果、歩き過ぎた。
散歩というと、目的地か経路か到着時間か、どことなく決まった部分がありそうなイメージだが、園内を歩いていると逍遥という気分だった。
逍遥は、個人的な印象だが、ここはどこなのか、どこへ繋がるのか、いつ着くのか、もっと曖昧な感じがする。

見通しが良いのをいいことに、マップも確認せず、初めに順路と書かれていた矢印に沿って、反時計回りに動き始めただけという話でもある。

が、意外と道が多く、順路はあるようなないような。
既に通った場所に、別なルートで簡単に戻れたりもする。

赤い蕾

庭園はとても広く静かだった。
池の中の大きな鯉、亀やスッポン、大きな鳥も、静かな動きだった。

大きな鳥が池に着水する音が、驚くほど大きな音に感じられた。
周辺の車の走行音は絶え間なく聞こえるが、何だか静寂な場所だった。

庭師という職業なのか、細かな部分まで確実に人の手が入っているのだが、雑草もそれぞれに真っ直ぐ大きく育っていたり、一つ一つの植物が大切にされながら整えられている様子だった。

すくすくと育った感じの大きなシロツメクサ
人が歩かない場所だから大きく育つのか、良い環境だからなのか
鮮やかな小さな実
大きな葉の隙間から、きれいな色で咲いている小さな花

人の手で整えられた空間だが、森の中を歩いている気分だったのは、大きな古そうな木が多かったからだろうか。

立入禁止の場所の向こうの景色に見覚えがあるように思い、初めて来た場所ではなかったのかもしれないとも思った。

これに似た景色は、友人たちと行った旧古河庭園か六義園の奥で見たのだろうと思っている

日本各地からいろいろな石が庭に置かれているのは、他の庭園でも見たことがあるが、それぞれの石も空間に馴染んでいた。
というより、デザインとして一つ一つが機能しているようだった。

枯滝
磯渡り
大きな石の隙間でも元気に育っている様子
大きな石と植物。無茶な場所に生えているようにも見えるが、こちらも元気に育っているようだった

迷路ということもない、大きな池(大泉水)を中心とした、見通しの良い園内だが、どこを歩いているのか、終盤にわからなくなった。序盤に行った磯渡りに戻ってきたのかと、別な磯渡りを見て思った。出口を通過したのかと驚いた。

二周する時間も体力もないはずなので、園内マップを確認し、もう少しで出入口だと確認し、逍遥を終えた。

行く前日、紫蘭が見頃な様子を公式サイトで見かけていた。それがいつの情報なのかまで確認せずに行ってしまったので、見られるのかどうなのか知らなかった。とても良い開花時に行ったようだった。

出入口に近い紫蘭の群生


群生地から離れた池のそばにも咲いていた
出入口から遠い自由広場でも見られた

新緑の季節らしく、新しい葉が出ているのをたくさん見かけた。
松からも新しい葉と小さな松ぼっくりが出ていた。

橋脚のような柱のような手水鉢も見かけた。

パンフレットには「岩崎」と、それは贅沢に作れただろうなと思う名前が書かれていた。三菱財閥という言葉が連想される。他の素敵な場所、東洋文庫ミュージアム、三菱一号館美術館、六義園でもその名前は見ている。歴史音痴な私でも、これだけ見かければ何となく覚える。

清澄公園の時計塔

庭園の半分は、今は公園になっている。公園の案内板を眺めると、戦災で失われたジョサイア・コンドルによる西洋館があった場所らしい。
公園の奥まで歩く元気も時間もなかった。
そちらも、庭園よりは賑やかだが、静かな空間に見えた。